ケッペキショウ②
作業を進めること6時間、時刻は17時を回っていた。本日の業務を終え、大きく伸びをして息を吐く。フレックスタイム制でありながら徹底した成果主義。頼まれたタスクさえ確実に仕上げれば、早めに終業できる——そんな働き方が許される超ホワイト企業。働き始めたのが15歳のときだから、今年でちょうど4年目になる。こんな環境に巡り会えたことは、正直、奇跡に近いと心の底から思っていた。
伸びを終えてPCからLINEを開くと、妹と弟との3人のグループにメッセージが届いていた。
"予定通り19時に行くから待っててね!!!!"
妹が相変わらず元気いっぱいで、少し安心する。弟からは"しばし待て"と書かれた可愛い犬のスタンプが送られてきていた。
2人とも俺の3個下の学年。双子で、今年の春から高校生になったばかり。誕生日が4月と早めで遅めの俺との現在の年の差は2歳。
俺が5歳、2人が3歳の時に、お互い独り身で子連れだった親同士が再婚したので血の繋がりはないが、何せ出会ったのが小さい頃だったということもあって、昔は、よく一緒に遊んでいた。
今日は2人が荷物を届けてくれる日。19時到着の予定だ。待たせるなんて有り得ないので、敬語で返信してから、さっさとシャワーを浴びて身体を清潔にし、マスクをつけて待つ。再度LINEを開けば、
"お小遣いで配達料くれてるんだから過剰な感謝はいらないっていつも言ってるでしょ、あと敬語やめて!!"
と妹から返信が来ていた。
本当に……聖人みたいな、いい子たちだ。
夏の蒸し暑い中、こんな俺のためにわざわざ来てくれる。胸の奥がじんわりと熱くなって、涙が込み上げそうになる。
…………。
「はあ………………」
思わず深いため息が漏れた。
こんな生活を、あと何年続けるのだろう。妹と弟に迷惑をかけ、外にも出られず、 白い箱庭に閉じこもったまま時間だけが過ぎていく。
いや……いつか、きっといつか治るさ。いつか、いつか…
ゴミをまとめて置き、玄関前で待機しているとチャイムが鳴った。事前にアルコールで拭いたドアノブを深呼吸してから、ゆっくりと回す。扉を開けると、数日ぶりに見るアパートの廊下と、性別は違えど16歳になっても瓜二つな双子の顔があった。お互いマスク姿。視線は合わせず、言葉も交わさない。俺がそう頼んでいるからだ。本当に情けない。
2人は抱えていたダンボールを、玄関の——本来なら靴が並んでいそうな場所にそっと置く。今のところ、死ぬまで外に出る予定はないため、この家には靴など一足もない。
手早くカッターでダンボールを開封し、中身を部屋の床に並べていく。一人暮らしを始めた当初、それこそ15歳くらいの時は俺も並べる作業に加わっていたのだが症状はみるみる悪化し今はただ2人を見ていることしかできない。
水、水、水、水、錠剤、今着ているものと全く同じ衣服一式とタオル、小分けされたシャンプーやボディソープ、歯ブラシや歯磨き粉に掃除道具やアルコール除菌、それから消毒液。
全て出し終えると、2人は手早くダンボールを解体し、カッターと段ボール、それから事前にまとめておいた小さなゴミ袋を抱えて部屋を出ていく。
扉が閉まる瞬間、心配そうな顔をした2人と一瞬だけ目が合った気がした。
バタン。
「っっあああああ……!!」
呼吸を整える。酸素を肺に送り込む。どっと疲労が押し寄せ、汗が噴き出す。シャワールームに逃げ込み、身体を洗う。洗う。洗う。満足するまで洗い続ける。
俺の生活における唯一の外部との接触の機会がこれだった。
普通の宅配に頼らず妹と弟に任せ続けているのは、3年前、一人暮らしをすると決まった時に2人が私達(僕達)が運ぶよと言ってくれたのも大きいが、俺にとって、この2人がこの世で最も清潔で安心できる人間だから、というのが1番の理由だった。
汚い血が流れていない清らかな体を持つ優しい2人のことを俺は信仰していた。
だというのに最も安心できる人間に対してですらこの体たらく。しかも症状は年々酷くなる一方。将来のことを考えれば足が竦んだ。
暗い考えを押し流すようにシャワーを顔面いっぱいに浴びながら心を落ち着かせていく。
シャワーを終えたら、さっき届いた荷物をひとつひとつ丁寧にアルコール除菌して、冷蔵庫や戸棚にしまおう。それが終わったら、もう一度玄関のドアノブを念入りに拭き上げて……その後、LINEを開いてメッセージを送るんだ。
"お暑い中、来ていただきありがとうございました。"
その後はいつも通り、ほんの少し掃除をしてから就寝する準備をしよう。上手く行けば日付が変わる頃には満足して眠れるはずだ。もし時間が余ったりしたら本を読んでから寝よう。空想の世界を旅してから見る夢はきっといつもよりマシになる。
そんなことを考えながら腹の辺りを洗う。視覚的には少し気持ち悪いくらいには凹んでしまっていて、あまり見ていて気分の良いものではない。そっと撫でながら、人間ってこんなところに骨があるんだな、とぼんやり思う。小学生の頃、まだお母さんが少し優しかった頃、一緒に入ったお風呂で見た彼女のお腹を思い出す。鏡のないこの部屋で自分の顔も身体も鏡越しには見ていなくても、自分が確実にそれに近づいてきてしまっているのは、はっきりとしていた。
…………ところで、入浴中に失われる水分の量、それに伴う脱水症状の危険性をあなたはご存知だろうか。年齢や性別によって細かい差はあるものの身体の半分以上を水分が占める人間の身体はその水分量の10〜20%を失うと死に至る危険性があるとされている。
俺は焦っていた。いつの間にここまで抜けてしまっていたのか。シャワーを浴びてから何分、何時間経過していたのか分からない。
やばい、ふらつく。
でもまだ洗い足りない。あと少しだけ。あと少しだけ……。
擦る。擦る。擦る。擦る。
……よし、完璧。
出ようとしてシャワーを止めたその瞬間、視界の端に黒い影がちらりと映った。
いるはずのない生き物。だってこの家で一人暮らしを始めて3年間、1度も見たことがないし。何より、他の誰よりもどの家よりも丁寧に清潔にしているはずなのに。そいつは人類の予想を遥かに超えて、するりと住宅に入り込んでくる。特徴的な細い二本の触覚、なぜか少し飛ぶ機能まで備えた、黒光りする化け物。
「ぃぃいいいいいやあああああああ!!!!!」
喉から女の子みたいな声を出しながら俺は悲鳴を上げた。慌てて浴室から出ようとするが、ここは水場。当然のように、足が滑る。
つるっ。
転倒は一瞬だった。世界がぐるりと回り、頭を強く打って倒れ込む。
朦朧とする意識の中で、なんとか浴室から這い出ることはできたが、それが精一杯だった。
力尽き横たわる俺の頭に、相棒のロボット掃除機がコツンコツンとぶつかりながら普段はそこに落ちていないゴミを掃除しようと体当たりを繰り返すのを感じながら俺の意識は完全に落ちた。




