初めての食事
目が覚ますと、そこは真っ暗闇だった。
何時間寝ていたのだろう。ストレスから不眠症気味で、普段はうなされながら1時間ほどで起きてしまう俺だが、今回の眠りがいつもより深かったであろうことは何となく理解できた。
硬い石畳が背中に当たって少し痛い。起き上がろうと手足を動かそうとした瞬間、四肢の小ささから、ようやく眠る前に自分に起きたことを思い出した。
身体全体に見えない薄い膜が張っているのを感じながら、スウにおはようを言おうと首元に手を伸ばすと、そこにあるはずの首飾りがなくなっていることに気づいた。
"スウ?"
頭の中で呼んでも、返事はない。
"スウメロプテ様?"
これでもダメだった。なんの反応もない。
少しだけ焦りが広がる。
スウの言葉を信じるなら、ここは聖域という安全地帯なので、スウが魔物に襲われたとかではないはずだ。第一、俺が無事なのがおかしい。
では、人間が侵入して首飾りを外して持っていってしまったのだろうか? キラキラした宝石のようだったし、価値があると思われて持ち去られた可能性は十分にある。それに実際、神様と話せる石だ。価値はあるに決まっている。
……と考えつつも、その可能性はあまりないのでは、とも思っていた。スウは自身の魔法の干渉範囲が魔石を中心とした半径10m程度だと話していた。攻撃魔法に関しては期待するなと言っていたのは距離の話だけで、近距離ならよく分からない侵入者に負けるとは思えない。何より、魔法自体がスウの作ったものなら、おそらくその全てを使えるはずだ。
だから失礼ながら、他の可能性も考えてしまっていた。捨てられたという可能性だ。
前世で家族から忌み嫌われていた俺は捨てられるということに若干トラウマを感じていた。普通に考えればありえないが、悪い妄想は一度始まると止まらない。俺の悪い癖だった。
スウは首飾りを作る際、魔石には干渉できないと言っていた。完成後は紐の部分を浮かせることで、実質的に魔石も一緒に浮かせていた。それはつまり紐さえついていれば魔石ごと自由に移動できるということだ。寝ている間に首飾りを外され遠くまでぷかぷかと浮遊していってしまわれれば寝返りも満足に打てない俺はまず追いつけない。
それでも、俺は不思議と落ち着いていた。
もし仮に捨てられたのだとしても、今は清潔な身体になっている。慢性的に感じていたストレスはなく、気分もそれなりに良かった。このまま寝続けていればいつかは一人で歩けるようになるだろうし、一生この石畳の洞穴の中で過ごしても、この身体なら辛くないと思えた。
そこで、ふと気づいた。
消化系の臓器を全て取り払われ、飲み食いも排泄もしなくて良くなったこの身体は、どうやって栄養を取って成長していくのだろう? 思えばそこを完全に聞き忘れていた。何もしていなくても大きくなっていくのだろうか?
その答えを示すように、しばらくすると全身に強烈な空腹感が襲ってきた。お腹ではなく、全身が空腹を訴えていた。最初はただの空腹感だったが、時間が経つにつれ身体が重くなり、動かなくなってくる。このままだと死ぬと、何となく理解できた。
必死にスウを呼ぶが、相変わらず返事はない。
死にたくない。
はっきりとそう思っていた。
前の人生では常に死にたいと思いながら生き長らえていたというのに、今更なんなんだ。
今死んだとして次の人生でようやく手に入った今の理想の身体がまた手に入るとは到底思えない。そもそもスウの話だと、死の概念がある生き物はみな死んだらそれまでの全てを忘れるのが普通らしい。じゃあ今の俺はこのまま何も成し遂げられず終わるのか。たとえ地続きで俺だったとしても、記憶がなければ別人と同じだ。そいつがどんなに良い人生を送ろうと、俺には関係がない。
それでも死にたくないという俺の叫びを無視して、死は平等にやってくる。脳の機能が低下し、起きたばかりだというのに酷く眠くなり、目を閉じて意識を手放そうとした。その時だった。
視界の端、暗闇の中を赤い光が泳いでいた。そしてそこから声がする。
「アルー、帰ったぞー。お?思っていたより早く起きたな。」
スウの声だった。
一気に安堵が広がる。
「なんじゃ、なんじゃ。心が乱れておるな。うるさいんじゃが。」
"捨てられたのかと思って……"
「契約を結んどいて捨てるわけないじゃろ。ほれ、お土産を持ってきたぞ。」
そう言うと、スウは寝ている俺の目の前に何かをどさりと置いた。なんだろう? 暗くてよく見えない。目を凝らそうとした時、空間に光が灯った。スウが灯りをつけたのだ。
そしてその瞬間、目の前にあるものを理解した。
大量のネズミの死骸。
思わず悲鳴を上げて仰け反ろうとしたが、全く動かない身体はびくともしなかった。視線を逸らそうと首を反対側に向けるが、ネズミの死骸はそれなりの数が山になって積まれていて、可動範囲の狭い俺の首では視界の端に天辺のネズミまで映ってしまう。
怯える俺を見て、スウは言った。
「喰え。時間が経つと鮮度が落ちる。」
怯えながらも聞く。
"飲み食いしなくていい身体にしたって言ってませんでした?"
思わずかしこまった口調になる俺に、スウは言った。
「あ?言っておらんかったか?その身体で『喰う』と言えば、手のひらで触れることを指すんじゃが。腹が減っておるんじゃろ?それ、早く触れろ。死ぬぞ。」
それを聞いてブルブル震えながら、頑張って死骸の山に触れた。まだ生暖かくてドキドキするし、何よりネズミだ。本質的には触れていないからまだマシだが、サルモネラ、レプトスピラ、ハンタウイルス、ペスト、ツツガムシ。挙げればキリがないほどに菌を運ぶ動物としてのイメージが強すぎる。前世なら天地がひっくり返ってもとらない行動だった。
そしてこんなに心を奮い立たせ頑張って触れているのに何も起きない。
「喰いたいと思わねば喰えるもんも喰えんわ。喰いたいと心の底から思え。しっかり見て目を逸らすな。」
これに食欲を湧かせるのは無理だろうと思った。そもそも前世では排泄を嫌いすぎてサプリで栄養を取っていた俺だ。食事に興味があるわけがなかった。それに見つめると、こちらを向いている何匹かと目が合う。あまりにも怖い。
スウは続ける。
「魔物は人を食い、人は魔物を食うと言ったが、あれは含まれているマナが原因じゃ。手のひらでよく感じろ。死骸にも、そしてお前自身にも流れているのがわかるじゃろ?」
目を瞑ってしばらくすると、確かに感じ取ることができた。
「それを喰いたいと思え。見た目に騙されるな。喰うのはそのマナじゃ。」
そう言われ、息を整えて集中する。確かにマナは空腹の身体にはとても美味しそうに感じられた。
"いただきます。"
瞬間、手のひらに触れていたネズミの死骸が一瞬で砂に変わった。そのまま下の方まで一匹残さず触れると、ネズミの山は小さな砂の山に変貌を遂げた。
俺が驚いたのは視覚的な変化よりも、手のひらから全身に流れ込んできた熱い何かの感覚だった。一瞬で空腹感は消え、身体全体を覆っていただるさも消える。腕を振れば驚くほどよく動いた。
"ごちそうさまでした。"
スウが言う。
「今お前が喰らったのは非常に弱い小さなネズミじゃが、もっと大きな獲物ならもっと大量のマナを摂取できるし、もっと美味いだろう。お前が一人で狩りができるようになるまではわしが狩って取ってくるが、近い将来お前自身の手で狩って喰え。良いな?」
"はい。"
「それから、飛ばしておったマナと魔法についても説明してやる。」
"お願いします。"




