名前
首飾りモドキをぷかぷかと宙に浮かべたまま神様は言う。
「簡易聖域はその名の通り、簡易的な聖域じゃ。通常の聖域はある一定のエリアから動かんが、これは移動式。人類みんなが欲しがる便利道具じゃな。わしが最後にこれを見たのは、もう1000年も前になる。巡り巡って帰ってきたとなると、何か運命めいたものを感じるわ。
お前の母親はどんな容姿じゃった?声は?性格は?どんな風に笑って、どんな風に泣いておった?」
突然の質問攻めに、俺は吃ってしまった。
生憎、その全てに対する回答を俺は持ち合わせていない。正直にそう伝えると、神様は静かに「そうか……」と呟いた。その声がとても寂しそうで、俺は慌てて言葉を続けた。
"俺がここに転がり落ちてからまだそんなに時間は経ってないので、まだ近くにいると思います。走るのは早かったけど、赤ちゃんを産んだ直後のお母さんなので、追いかけたらまだ間に合うかもしれません。どっちの方角に走っていったかも分かります。お教えしましょうか?"
「いや、良い。」
"なぜですか?"
神様は少し間を置いて、静かに答えた。
「その簡易聖域は、継続的にマナを消費することでしか発動しない。ここから最も近い聖域まで徒歩 で3日かかる。お前の話を聞いた限りではもう少し早く着くかもしれんが、それでも短く見積もっても2日はかかる。お前がここに来た時点で、簡易聖域の効果は既に切れておった。聖域外で生きる上で絶対的な安全を得られる道具を、赤子に託すような女じゃ。なんの理由もなしに突然その効果を切るとは、到底考えられん。」
神様はそこまで言い切ってから、ほんの少しだけ躊躇うように間を開けた後、それでもはっきりと、こう言った。
「おそらく、お前の母親は既に絶命しておる。」
それを聞いて、俺は絶句した。
な、なんで……。
"なんで俺に簡易聖域を託して、一人でどこかに行ったんですか?一緒にいたら安全だったんじゃないんですか?"
「聖域もそうじゃが、簡易聖域が遠ざけるのは魔物だけじゃ。大方、人にでも追われておったんじゃろ」
"そ、そんな……"
一緒にいた時間はあまり長くなく、その大半を俺は自分自身の苦しみで消費していたため、ぶっちゃけ今の今まで思い入れも何もなかった。だが、俺を守るために命を落としたとなると話は変わってくる。
ショックを受けて黙り込む俺に、神様は静かに言った。
「この世界に、死はありふれておる。そうあまり落ち込むな。考えてもみよ。もしかしたらお前のように、全く違う異世界に転生し、こちらの世界では叶えられなかった願いを叶える人生を謳歌できるやもしれん。お前の話じゃとお前の母親は言葉を話していなかったんじゃろ?原因は複数考えられるが、もしストレス性の失声症だったとしたら、死はある意味で救済じゃ。その感覚は生まれた直後に、もっと言えば生まれる前から死を願っていたお前にもあろう。」
それを聞いて、俺は少しだけ落ち着くことができた。
心の中で手を合わせ、彼女の次の人生がより良いものであることを祈った。
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その後も色々なことを神様と話しているうちに、俺は強烈な眠気に襲われていた。
やはり身体は赤ん坊だからだろうか。大人の身体なら失神と見紛うほどの眠気。
そんな俺を見て、神様は笑いながら言った。
「概念の話で聞き忘れていたが、名前という概念はお前も持ち合わせているだろう。眠る前に名を名乗れ。いつまでも『お前』では不便じゃ。」
そう言われて名乗ろうとして、俺は沈黙した。
この場合、俺の名前は何になるのだろう。前世の名前を名乗るべきなのだろうが、生憎その名前を思い出すだけで己が生まれた背景を思い出し、父親の顔を思い出して気分が悪くなる。さっきまで気絶しそうだった眠気すら薄れてしまうほどに。正直、この人生もその名前で生きていくのは勘弁したかった。
かといって今世では、名付けてもらう前に母親は俺の前から姿を消してしまった。あの母親が考えていたかどうかは別として、今の俺には名前がなかった。
散々迷った挙句、何も言えずにいる俺を見て、神様は何かを察してくれた。
「今世の名がないのは大体予想していたが、前世の名も理由は知らんが名乗りたくないのじゃな?ならばわしが名前をつけてやる。」
神様はそう言うと、しばらく「うーん、うーん」と悩み始めた。
決まるまで眠ってしまわないように、俺はこの時間を寝返りの練習に充てることにした。成功した時のことを思い出して頑張っていると、半回転だけできて仰向けからうつ伏せになった。お腹にさっき作った首飾りの魔石部分がくい込んで痛い。神様は考えるのに夢中で気づいていないらしかった。
悶絶しながら耐えていると、
「決まったぞ!
……………何をしているんじゃお前は。」という呆れた声が、お腹に押しつぶされた魔石からくぐもって聞こえてきた。
神様に体勢を仰向けに戻してもらってから、俺は心の中で姿勢を正した。この人生での俺の名前が決まるのだ。少し緊張する。
ドキドキしていると、神様が言った。
「色々考えたが、『アル』というのはどうじゃ?」
アル。
頭の中で呟くと、驚くほど自然に馴染んだ。
"いい名前だと思います。どんな意味の言葉なんですか?"
「それは秘密じゃ。」
えーっと思いながらも、邪神とはいえ神様がつけてくれた名前だ。少なくとも自分が適当に付けるよりはずっといいだろう。何より響きが気に入った。
「よし! では決まりじゃな。今日からお前の名前はアルじゃ。
それから、わしのことは神様ではなくスウメロプテと呼んでくれ。神様と呼ばれる度に混ざり物でしかないわしは違和感を感じる。かといって邪神と呼ばれるのは不愉快じゃ。」
スウメロプテ。
頭の中で呟く。
驚くほど言いにくい。頭の中でさえこれなのに、口に出したら今後の人生で何回噛んでしまうのだろうか。
かといって、自分を地獄から救い出してくれた大恩人(人ではないけど)に「読みにくいから嫌です。」とはとても言えず、沈黙する俺に神様は語りかけた。
「思考の全てではないにせよ、わしに向けたもののほとんどははっきりと聞こえておるぞ? 呼びにくいならあだ名なり何なり、アルが考えてくれ。」
そう言われて俺は考える。スウメロプテ……先頭の二文字を取って「スウ様」。安直すぎるだろうか? それでも「アル」と同じように、すっと心に馴染んだ。
「スウか! 実際安直じゃが、わしも響きが好きじゃ。気に入った!」
"スウ様。"
「スウじゃ。」
"スウ様。"
「だからスウじゃ!様はつけるな。ついでに下手くそな敬語もやめろ。」
"神様をあだ名とはいえ呼び捨てにする度胸は、自分にはないでございます。"
「良いか、アル。わしとお前は契約を結んだ。わしとお前は利害の一致から対等な立場になったんじゃよ。契約を結んでいる間、わしを敬う必要はない。その代わり、無事にわしを救い出し契約が完了した暁には、力を取り戻したわしを崇拝し崇め奉れ。その後一生、スウメロプテ様と呼び続けろ。良いか?これは願掛けのようなものじゃ。必ずわしを救いに来い。」
不敬罪で地獄行きにならないだろうかと思いつつ願掛けと言われたら仕方がない。
少し迷ってから、心の中で呼びかける。
"分かったよ、スウ。これでいい?"
「実際やられるとさっきとのギャップで違和感がすごくて、少し気持ち悪いな。やっぱり様と敬語をつけろ。」
"なんだこいつ。"
そんなやり取りをしながら、俺の瞼は今度こそ重く閉じていった。
スウの優しい声が聞こえる。
「おやすみ、アル。良い夢を。」
寝る時に誰かにおやすみを言ってもらったのは、いつぶりだろう。そんなことを考えながら、俺の意識は深い深い夢の中へ落ちていった。




