受け継がれた意志
――ドクンッ。
胸の奥で、力強い鼓動が響いた。
ビオッシャは、自分の指先に灯る青白い光を見つめていた。先ほどまで不規則に揺らめいていたそれは、今では小さな炎のように、静かに形を保っている。
「……私、最初から……この力を拒んでいたの……?」
五年前、母を失ったあの日。薄れゆく意識の中で感じた、母から受け継がれたフィアンマの力。あの時、自分は確かに願ったのだ。
――お母さまがいなくなるくらいなら、こんな力いらないのに。
母が残してくれたものを、母を失った証としてしか見ていなかった。そのことに、今になってようやく気づいた。
「……そう、だったのね」
ビオッシャはゆっくりと顔を上げた。
目の前には、かつて叔父と呼んでいた男の成れの果てが聳え立っている。無数の顔が浮かぶ醜悪な肉体。黒く蠢く触手。そして、その首元に埋まった黒い核。
ギブン。
いや、もはやその名で呼ぶべきなのかさえ分からない。
けれど、今なら分かる。五年前、母を殺したのは、目の前にいるこのデルマだ。
その確信とともに、ビオッシャの脳裏に、かつてアルヴァスから聞いた話が蘇った。
◇
それは、ヴェルグラードを脱出してからしばらく経った頃のことだった。雪の降り積もる小さな隠れ家で、ビオッシャはアルヴァスに尋ねた。
「……アルヴァス。お母さまが亡くなった日のこと、教えてくれる?」
暖炉の火が、ぱちぱちと小さな音を立てていた。アルヴァスはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「……あの日、ギブンはデルマの討伐から戻った」
「……叔父さまが?」
「ああ。城の外で発生したデルマの討伐に向かい、帰還した。だが、その直後、女王陛下がギブンを呼び出したんだ」
「お母さまが……?」
ビオッシャは首を傾げた。
「どうして?」
「……分からない」
アルヴァスは、当時の光景を思い返すように目を伏せた。
「帰還したギブンを見た瞬間、女王陛下の表情が変わった。すぐに人払いを命じ、ギブンと二人きりになったんだ」
「……二人きり?」
「ああ。俺たちも近づくことを許されなかった」
ビオッシャは膝の上で、ぎゅっと手を握りしめた。
「……それで?」
「……しばらくして、異変が起きた」
アルヴァスの声が低くなる。
「物音がした。俺たちが駆けつけた時には、すでに女王陛下は……」
そこで言葉が途切れた。ビオッシャは俯いたまま、続きを待った。しかし、アルヴァスはそれ以上何も言わなかった。
「……お母さまは、叔父さまに殺されたの?」
小さな問いだった。アルヴァスはすぐには答えなかった。
「……証拠はない。俺はすぐにお前とラピスラズリの元に向かったからな。だが、あの部屋にいたのは二人だけだ」
「…………」
ビオッシャは、黙って暖炉の炎を見つめた。アルヴァスもまた、それ以上は語らなかった。
あの日、二人の間で何が起こったのか。その真相を知る者は、もういないのだと思っていた。
◇
「……そういうことだったのね」
崩壊した玉座の間で、ビオッシャは小さく呟いた。あの日、ギブンはデルマの討伐に向かった。そして、帰ってきた。母は帰還したギブンを見て、すぐに二人きりになることを選んだ。
ずっと不思議だった。なぜ母は、わざわざ人払いをしたのか。なぜ護衛を遠ざけ、ギブンと二人だけになったのか。
けれど、今ならその理由が分かる。
母もまた、フィアンマだった。人の持つ力を、炎として見ることのできる存在。
帰還したギブンを見た瞬間、母は気づいたのだ。目の前にいる弟が、すでに人間ではなくなっていることに。
「……お母さまは、貴方を止めようとしたのね」
ビオッシャの視線が、巨大なデルマへと向けられる。
「デルマを討伐しに行ったはずの貴方が、デルマになって帰ってきた。……だから、お母さまは貴方を呼び出した」
フィアンマの力を持つ母ならば、異変を見抜けたはずだ。そして、城の人々を巻き込まないために、誰にも知らせず自ら倒そうとした。
しかし――。
「……お母さまは、負けてしまった」
その言葉を口にした瞬間、胸が締めつけられた。
五年前の悲しみが、再び押し寄せてくる。優しく笑ってくれた母。病に伏せる自分の手を、いつも握っていてくれた母。もう二度と会えない、大切な人。
「……っ」
ビオッシャは唇を噛みしめた。けれど、不思議と涙は零れなかった。代わりに、胸の奥から静かな熱が込み上げてくる。
「……ずっと、分からなかった」
彼女は、自分の手を見つめた。
「どうしてお母さまが亡くなったのか。どうして私に、この力が残されたのか……」
指先に、青白い光が灯る。今度は消えない。それどころか、彼女の意思に応えるように、ゆっくりと輝きを増していった。
「……でも、ようやく分かったわ」
ビオッシャは静かに息を吸った。
「お母さまが私に残してくれたのは、悲しみだけじゃなかったのね」
――パキッ。
足元の石畳に、小さな氷の結晶が生まれた。しかし、以前のように無秩序に広がることはなかった。
結晶は彼女の足元で静かに形を変え、まるで花が咲くように、美しい六角形の模様を描いていく。
「……この力は、お母さまが生きていた証……」
ビオッシャは、そっと胸元に手を当てた。
「……そして、お母さまが守ろうとしたものを、私も守るための力なのね」
その瞬間だった。
――ゴオオオオオッ!!
巨大なデルマが、凄まじい咆哮を上げた。無数の触手が一斉に持ち上がり、ビオッシャめがけて襲い掛かる。
「――ビオッシャさん!!」
凪谷が叫んだ。
すでに彼は満身創痍だった。刀を握る腕は震え、肩で荒い息を繰り返している。それでも、ビオッシャを守ろうと駆け出した。
「くそっ……! 間に合え……!!」
だが、その必要はなかった。
「……大丈夫よ、凪谷くん」
ビオッシャが静かに告げる。そして、迫り来る触手へ向かって片手をかざした。
「――止まりなさい」
――パキィィィィンッ!!!!
次の瞬間、空中を覆い尽くすほどの巨大な氷の結晶が、一斉に花開いた。
迫っていた無数の触手が、瞬く間に凍りついていく。
「……なっ!?」
凪谷が目を見開く。
凍結は触手の先端から根元へと広がり、巨大なデルマの動きを完全に封じ込めた。
しかし、驚くべきことはそれだけではなかった。
氷は、ビオッシャの周囲にいる凪谷やアルヴァスを一切巻き込んでいなかった。まるで、彼女の意思を正確に理解しているかのように。
「……ビオッシャ……?」
アルヴァスが呆然と呟く。ビオッシャは、ゆっくりと自分の手を見つめた。
「……できた……」
小さな声が漏れる。
「……私、ちゃんと……」
その指先で、青白い氷の結晶が静かに輝いていた。
今まで何度も暴走し、何度も自分を苦しめてきた力。それが今、初めて自分の意思に従っている。
「……ふふっ」
ビオッシャの口元に、小さな笑みが浮かんだ。
「……ようやく、言うことを聞いてくれたのね」
凪谷はしばらく呆然としていたが、やがて嬉しそうに笑った。
「……すげぇ……! すげぇじゃないですか、ビオッシャさん!!」
「……ありがとう、凪谷くん」
ビオッシャは穏やかに微笑んだ。その隣で、アルヴァスもまた、静かに息を吐いた。
だが、その瞬間。
――バキッ!!
凍りついたデルマの身体に、大きな亀裂が走った。
「……っ!?」
――バキバキバキバキッ!!!!
巨大な氷が、内側から激しく軋み始める。
「……まだ、動けるのかよ……!?」
凪谷が刀を構え直す。しかし、ビオッシャは慌てなかった。静かにデルマを見上げる。
「……当然よね」
その瞳には、先ほどまでの迷いはなかった。
「貴方が、そんな簡単に倒れてくれるとは思っていないわ」
ビオッシャの足元から青白い冷気が立ち上り、彼女の金色の髪を静かに揺らす。
「……でも、もう大丈夫」
彼女は、真っ直ぐに怪物を見据えた。
「今度こそ、私が貴方を止める」
五年前、母が果たせなかったこと。
母が守ろうとした、この国。そして、今も自分のために戦ってくれる仲間たち。
そのすべてを守るために、ビオッシャは静かに宣言した。
「――お母さまの代わりに、私が貴方を倒すわ」




