崩れゆく仮面と絶望の胎動
「がっ……あ、あぁぁッ……!!」
玉座の間に、苦痛に満ちた絶叫が響き渡った。
腹部を無数の異形の触手に貫かれ、鮮血を吐きながら崩れ落ちるローレン。その背後には、愉悦に顔を歪めたギブンが立っていた。
「くくくっ……はははははっ!」
耳障りな笑い声が、冷え切った空間に反響する。
ギブンの背中から伸びる触手は、まるで生き物のように脈打っていた。さらに、その周囲には晶氷のように透き通った不気味な波動が渦巻き、内側には苦悶の表情を浮かべる無数の人々の顔が浮かび上がっている。
声にならない悲鳴。助けを求めるように伸ばされた手。それらは現れては消え、互いに絡み合いながら、ギブンの背後で蠢き続けていた。
「っ……!」
玉座の間へ踏み込んだビオッシャ、凪谷、ラピスラズリの三人は、その光景を前に完全に足を止めた。
ビオッシャは青い瞳を大きく見開き、言葉を失う。凪谷もまた、目の前で繰り広げられる惨劇を理解できずにいた。
「ハッ……? なんだよ、これ……」
掠れた声が漏れる。
「なんで……仲間同士で殺し合ってんだよ……?」
ローレンは、ギブンと同じ側に立っていたはずだ。それなのに、ギブンは何の躊躇いもなく、その腹部を貫いている。しかも、まるでその苦痛を楽しんでいるかのように。
「ギ、ブン……ッ! 貴様……ッ!」
ローレンが血に濡れた手を伸ばす。しかし、ギブンはその手を一瞥しただけで、さらに口角を吊り上げた。
「何をそんなに驚いている? お前はもう、十分に役目を果たしただろう?」
「っ……ふざ、けるな……ッ!」
そのやり取りを聞きながら、ラピスラズリはギブンの背中に目を凝らしていた。
骨のように硬質な表面。生きた肉のように脈打つ触手。そして、その背後に渦巻く無数の魂。
「……まさか……」
ラピスラズリの顔から、すっと血の気が引いた。
「……あれは、デルマ……なのでしょうか……?」
「……え?」
凪谷が振り返る。
「デルマって……あのデルマか!?」
「ええ……。デルマは人間の魂を取り込み、成長する存在です。進化を重ねれば、人間に近い姿になることもあるとされていますが……」
ラピスラズリは、目の前のギブンを静かに見据えた。
「……あそこまで完全に人間の姿を再現する個体は、私も見たことがありません。少なくとも、これまでの記録には……」
その声には、普段の穏やかさの奥に隠しきれない動揺が滲んでいた。
その言葉を遮るように、ビオッシャが静かに口を開いた。
「……凪谷くん」
「っ……なんだよ……?」
「貴方も、ここに入った時から見えていたでしょう?」
ビオッシャの視線は、ギブンの背後に向けられていた。
「あいつの背後に……無数の魂が溢れているのを」
「……っ!」
凪谷は息を呑んだ。
確かに、見えていた。あの男の背後で蠢く、無数の顔。それらが人間の魂なのだと、頭のどこかでは理解していた。
しかし、認めたくなかった。あまりにも、おぞましかったからだ。
「……あれ、全部……人なのか……?」
「えぇ……」
ビオッシャは唇を噛みしめた。
「デルマは人間の魂を取り込み、その力を増していく。取り込んだ魂が多いほど、より人間に近づく個体もいると聞いていたけれど……」
そこで言葉を切る。
「……こんなもの、想像もしていなかったわ」
凪谷は再びギブンを見た。
あの男は王として振る舞い、言葉を話し、笑い、怒り、人々を欺いていた。だが、もしその正体がデルマなのだとしたら。
「……じゃあ、あいつは……」
その先を口にすることができなかった。
本物のギブンはどうなったのか。いつから、あの姿だったのか。そして――あれほど多くの魂を、一体どこで取り込んだのか。
疑問ばかりが頭を駆け巡る。
「――あははははっ!!」
突如、ギブンが大きく笑い出した。
「やはり見えていたか……! くくくっ、忌々《いまいま》しいフィアンマどもめ……!」
先ほどまで人間らしく整っていた表情が、醜く歪んでいく。その瞳には、もはや人間らしい理性など感じられなかった。
「……貴方……」
ビオッシャの声が低くなる。
「お母さまを殺したギブンは……本当に、貴方なの……?」
その問いに、ギブンは答えなかった。ただ、ひどく愉快そうに笑った。
「さあなぁ……? お前には、どう見える?」
「……ッ!」
ビオッシャの指先が震える。
怒りか、恐怖か。それとも、長年信じてきた過去が揺らぐことへの戸惑いか。自分でも分からなかった。
だが、その視界の端で、ローレンの身体が大きく痙攣した。
「ぐっ……がはっ……!」
口から鮮血が溢れる。触手は今も腹部に突き刺さったままだ。このままでは、確実に死ぬ。
「――凪谷くん!」
ビオッシャが叫んだ。その手には、すでに銃剣が握られている。
「っ……!」
凪谷が顔を上げた瞬間、銃声が轟いた。
――ダンッ! ダンッ! ダンッ!!
放たれた弾丸が、ローレンを貫く触手へ次々と命中する。硬質な表面が砕け、黒ずんだ破片が飛び散った。
「なっ……!?」
ギブンが顔を歪める。
「お前たち……何を……!」
「決まってるでしょう! 目の前で人が殺されそうになっているのよ!」
「――そういうことだッ!!」
凪谷が床を蹴った。黒い刀身が月光を受け、桜の意匠が一瞬だけ煌めく。
「ふざけやがって……ッ!」
一閃。続けざまに二閃。
凪谷の刀が、銃撃で脆くなった触手を次々と断ち切っていく。
――バキィッ!!
最後の一本が砕けた。
支えを失ったローレンの身体が、石畳へと投げ出される。
「――ローレン!」
ラピスラズリが駆け出した。倒れ込む身体を受け止め、そのまま引きずるようにして後方へ退く。
「っ……ぐ、あ……」
ローレンの顔は青白く、呼吸は浅い。腹部からは今も大量の血が流れ続けていた。
「……動かないでください。今、傷を塞ぎますから」
ラピスラズリは穏やかに告げると、傷口へ掌をかざした。
次の瞬間、柔らかな光が溢れ出す。
「……っ!?」
裂けた皮膚が、ゆっくりと閉じていく。抉られた肉が再生し、流れ出ていた血が次第に止まっていった。
ラピスラズリが持つ、回復のギフト。
しかし、傷が深すぎる。一度にすべてを治しきることはできない。
「……これは、随分と深い傷ですね……」
ラピスラズリの額に汗が滲む。それでも、その掌から溢れる光が途切れることはなかった。
「な……ぜ……」
ローレンが掠れた声を漏らす。
「……なぜ、俺を……助ける……?」
ラピスラズリは一瞬だけ彼を見た。
「……今は無理に話さないでください」
「だが……俺は……」
「貴方が何をしてきたのかは、私も承知しています」
静かな声だった。
「ですが、それと目の前で命を落とそうとしている貴方を見捨てることは、別の話でしょう?」
「…………」
「……話は、傷が治ってからにしましょう」
ラピスラズリは柔らかく微笑み、再び治療に意識を集中させた。
ローレンは何も言えなくなった。ただ、信じられないものを見るようにラピスラズリを見つめていた。
その時だった。
「――小賢しい人間どもがァッ!!」
ギブンの咆哮が玉座の間を揺らした。
背中から新たな触手が生え、凄まじい勢いで凪谷たちへ襲い掛かる。
「――来るよ、凪谷くん!」
「おうッ!!」
二人は同時に動いた。
凪谷が前へ。ビオッシャが斜め後方へ。
無数の触手が床を叩き砕く中、凪谷はその隙間を縫うように駆け抜けた。
「遅ぇんだよッ!」
振り下ろされた刀が、ギブンの脚を捉える。
――ガキィンッ!!
硬いものを斬りつけたような衝撃が、腕を駆け抜けた。
「っ……硬っ……!」
だが、ギブンの体勢がわずかに崩れた。
その瞬間を、ビオッシャは見逃さなかった。
「――そこッ!」
床を蹴り、宙へ跳ぶ。金色の髪が大きくなびいた。
銃剣を逆手に構え、ギブンの死角へ回り込む。
そして――。
――ズシュッ!!
鋭い刃が、異形の身体へ深々と突き刺さった。
「がっ……あああッ!?」
初めて、ギブンの口から苦痛に満ちた悲鳴が上がった。黒ずんだ血が飛び散り、巨体が大きくよろめく。
「……っ!」
ビオッシャはすぐさま銃剣を引き抜き、後方へ跳んだ。
その青い瞳は、ただ敵を見ているのではなかった。
ギブンの身体を取り巻く、無数の魂。その奥にある、異質な気配。そして、首元に一瞬だけ覗いた、小さな黒い染み。
「……見つけた……!」
ビオッシャの瞳が鋭く細められる。
デルマには必ず、核となる黒ずんだ部分が存在する。どれほど身体を変えようと、どれほど多くの魂を取り込もうと、その弱点まで完全に消すことはできない。
首元。
肉の奥深くに隠された、微かに脈打つ黒い核。
――あれが、奴の急所。
「凪谷くん……!」
ビオッシャが視線を送る。凪谷はすぐにその意図を察した。
「……あぁ、分かった」
刀を握り直す。
二人は再び構えた。狙うべき場所は、ただ一つ。ギブンの首。
「……終わらせるわ」
ビオッシャが小さく呟いた。
しかし――。
「……く……くく……」
不意に、ギブンが笑った。
「……?」
凪谷が眉をひそめる。
「何がおかしいんだよ……」
「くくく……はは……ははははっ!」
その笑い声は、次第に大きくなっていった。
「まさか……ここまでやるとはなぁ……!」
ギブンの身体が、不自然に震え始める。
「……だが……!」
その背後で、無数の魂が一斉に蠢いた。
「お前たちは……まだ何も分かっていない……ッ!!」
――ドクンッ。
奇妙な音が響いた。心臓の鼓動に似た、重く鈍い音。
――ドクンッ、ドクンッ。
ギブンの身体が膨れ上がる。
「……っ!?」
ビオッシャが息を呑んだ。
「凪谷くん、離れてッ!!」
「うおっ!?」
凪谷が飛び退いた、その直後。
――ゴオオオオオオッ!!
凄まじい暴風が、玉座の間を吹き荒れた。
「っ……なんだよ、これ……!!」
凪谷は腕で顔を覆い、必死に足を踏ん張る。床石が砕け、巨大な柱が軋み、天井からは無数の瓦礫が降り注いだ。
「……くっ!」
ビオッシャもまた、吹き飛ばされそうになる身体を必死に支えていた。
その視線の先で――。
ギブンの身体が、変わっていく。
骨が軋み、肉が膨れ上がり、皮膚の下で無数の何かが蠢いていた。背中から伸びる触手は次々と枝分かれし、異様な速さで巨大化していく。
そして、その身体の表面には――。
「……あ……」
ビオッシャの唇が震えた。
人の顔が、浮かび上がっていた。
一つ。二つ。十。百。
数えることすらできないほどの顔が、苦悶の表情を浮かべながら、その肉体に現れては呑み込まれていく。
「……そんな……」
無数の魂が、渦を巻くように怪物の身体へ吸い込まれていった。
「……いったい……」
ビオッシャは、目の前の光景から視線を逸らせなかった。
「いったい何人の人を……取り込んだの……?」
答える者はいない。ただ、異形の肉体が膨れ上がる音だけが響いていた。
――メキメキメキッ!!
「っ……!」
巨大な亀裂が天井を走る。柱が折れ、壁が崩れ、玉座が瓦礫の下へと呑み込まれていった。
「ビオッシャさん! 危ねぇッ!!」
凪谷が叫ぶ。
次の瞬間――。
――ドゴォォォォォンッ!!!
玉座の間の天井が、内側から爆ぜるように砕け散った。
冷たい夜風が吹き込み、無数の瓦礫が宙を舞う。
月明かりの下に現れたのは、もはや人間の面影すら残していない、巨大な異形の怪物だった。その身体には無数の顔が浮かび、幾本もの触手が夜空へと伸びている。
凪谷は、その姿を見上げたまま動けなかった。
「……嘘……だろ……」
これまで倒してきたデルマとは、何もかもが違う。
大きさも。気配も。そして、その内側に取り込まれた魂の数も。
ビオッシャは唇を強く噛みしめた。
母が愛したヴェルグラード。その国の中心で、これほどおぞましいものが育っていたというのか。
「……絶対に……」
震える手で、銃剣を握り直す。
「……絶対に、ここで止める……!」
その声に応えるように、凪谷もまた刀を構えた。
二人の前にそびえ立つ、巨大なデルマ。
月光の下で、その無数の瞳がゆっくりと開かれていく。
そして――。
ヴェルグラード城を揺るがす、絶望の咆哮が響き渡った。




