START。の行方
目的の場所へ向かい、二人は城内の静まり返った廊下を慎重に進んでいた。
「資料室…もうすぐかな」
「多分ね~、何か面白い手がかりがあるといいね」
優珠が軽い足取りで前を進むため、オニキスは小走りで後を追う。
やがて突き当たりに見えてきた重厚な木製の扉を押し開けると、そこは天井まで届く巨大な本棚が幾重にも立ち並ぶ、広大な図書資料室だった。
「うわぁ……すごい資料の数……!」
壁一面を埋め尽くす古書や羊皮紙の山に、オニキスは圧倒されて思わず声を漏らした。
二人は一通り部屋の中を探索し、ギブンの企みや城の異変に関する資料がないか探し回った。しかし、棚に並んでいるのは過去の歴史書や古い記録ばかりで、手がかりになりそうなものは見当たらない。
「うーん、ここには何もないな。……優珠、次に行く?」
徒労に終わり、オニキスが肩を落として部屋から出ようと扉へ向かった、その時だった。
「そろそろ出てきたらいいのに」
背後から、優珠の軽やかでどこか楽しげな声が響いた。
「え……?」
誰に話しかけているのか分からず、オニキスはビクッと体を震わせて足を止めた。周囲には自分と優珠の二人しかいないはずだ。
次の瞬間――部屋の奥、月光が差し込む大きな窓際のカーテンの影から、するりと一人の男が姿を現した。
つばの広い黒い帽子を目深にかぶり、繊細なクリスタルや紫の花、鎖飾りが揺れる漆黒のローブを纏った男。その手には、紫色の結晶と花が装飾された長大な杖が握られている。
「驚きましたよ。僕に気がつくなんて、貴方何者ですか?」
窓際から姿を現した男は、つばの広い帽子の奥から金色の瞳を光らせ、優珠をじっと見つめながら問うた。その声は静かで、どこか浮世離れした響きを帯びている。
それに対し、優珠は全く動じる様子もなく、にこりと可愛らしく微笑んだ。
「さっきアジトで会ったじゃん」
悪びれる風もなく、至極当然といった口調で答える優珠。
その答えに男は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべたが、すぐに胸に手を当てて恭しく頭を下げた。
「お初お目にかかります。ヴェルナー・アイゼンベルクと申します」
「それでさっきあたし達からSTART。持っていったのは貴方だよね? 返しに来てくれたの?」
優珠は少しも身構える風もなく、首をちょこんと傾げながら問いかけた。
「えぇ、START。ならここに」
そう答えたヴェルナーの手元には、いつの間にか『START。』が握られていた。
「僕、戦闘はあまり得意ではなくて。提案なのですが手を組みませんか? 私の目的はこの中身。教えていただけるなら本はお返しいたします」
「ふーん、オニキス、どうする?」
突然振られたオニキスは戸惑いながらも、ヴェルナーに問いただす。
「どうって、……それを知ってどうするんだよ」
「ふふっ、それは答えられません」
「なっ、…!」
不誠実な返しにオニキスが思わず声を荒らげた瞬間、優珠が「あはーっ」と軽やかな笑い声を上げた。
「まぁさっきは無理やり取られちゃったし、今度はこっちからやってもいいよね!」
言葉が終わるか終わらないかの刹那、優珠が瞬時に飛びかかり、ヴェルナーの手元の本へと手を伸ばす。
しかし、その手は虚しく空を切った。
優珠の手が触れた瞬間、そこにあった本は黒煙となって消えてしまったのだった。
「ふふっ、いつ、本が入れ替わったか分かりますか?」
ヴェルナーは涼しい顔で尋ねる。
「そのギフト、厄介だね」
「えぇ、僕のギフトとっても便利なんです」
ヴェルナーは手に持った杖を軽やかに揺らしながら、余裕の笑みを浮かべて見下ろしていた。
「へえ、なら――これも避けてみなよ!」
次の瞬間、優珠の周囲から溢れ出た激しい衝撃と圧力が爆発的に弾けた。優珠は間髪入れずに踏み込むと、ヴェルナーの体ごと、その手に握られた大杖ごと、容赦なく資料室の巨大な窓へと叩きつけるように弾き飛ばした。
鋭い破壊音と共に窓ガラスが粉々に砕け散り、ヴェルナーの身体は外の空中へと一気に投げ出される。
優珠は躊躇することなく、割れた窓枠からそのまま外へと飛び出し、宙で体勢を立て直しようとするヴェルナーへ向けて激しい追撃を仕掛けていった。
ガラスの破片がキラキラと夜風に舞う中、二人の激戦の音は遠ざかっていく。
静まり返った資料室に取り残されたオニキスは、開いたままの窓から勢いよく吹き込んでくる風を感じながら、ぽつりと呟いた。
「……木を隠すなら、森の中……」
外からは、優珠とヴェルナーが繰り広げる激しい戦闘の振動と衝撃音が遠く届いている。しかし、オニキスの意識は目の前の空間へと集中していた。
周囲を見渡せば、天井にまで達する無数の本棚。そこを隙間なく埋め尽くしているのは、何千、何万冊もの膨大な書物の山だ。
ヴェルナーは言った――『いつ、本が入れ替わったか分かりますか?』と。
そして優珠が手を伸ばした瞬間、手元にあった『START。』は黒煙となって消えた。
あいつは、本物の『START。』を最初から手元に持ち続けていたわけじゃない。
もし、あの黒煙が本を入れ替えるための目くらましだったとしたら……。そして、ヴェルナーがわざわざこの資料室に姿を現したことにも意味があるのだとしたら――。
「……それなら……」
オニキスは静かに目を閉じ、先程一通り見回したはずの膨大な書棚の配列を脳内で辿っていく。
その瞳は、確かな確信の色を帯びて淡く緑に光っていた。




