地下の影
東側の地下牢郭と研究区域へと向かう通路。
アルヴァスと蛍が足音を殺して石造りの床を踏みしめていくが、すぐにアルヴァスは足を止め、険しい目を細めた。
「……どうしたんですか、アルヴァスさん?」
蛍が不安そうに足を止めると、アルヴァスは低く唸るように言った。
「……気配がない」
「え?」
「城内の兵や使用人の気配がほとんどしない。これほど広大な城だというのに、あまりにも静かすぎる」
その通りだった。どれほど進んでも見張り兵の姿はなく、聞こえてくるのは自分たちの足音と遠くの風の音だけ。まるで巨大な城そのものが死に絶えたかのような、不気味な静寂が覆っていた。
「……っ。なんだか、空気がどんどん重くなっていきます……」
蛍が身震いしながら周囲を見回す。進むにつれて肌を刺すような悪寒が走り、背筋を這う嫌な感覚は気のせいなどではないと訴えていた。この城の深部で、得体の知れない悪意が脈打っているような異様な気配が漂い始めている。
アルヴァスは無言で大剣の柄に手を掛け、さらに警戒を深めた。
やがて、東側の最深部へ続く、地下へ降りる冷たい石段の前にたどり着いた。
壁の灯はまばらにしか点いておらず、階段の先は底知れない闇に飲み込まれている。
「ここから先は地下牢郭だ。足元を警戒しろ、蛍。俺から離れるな」
「はい……っ」
アルヴァスを先頭に、二人は慎重に地下へ続く階段を降りていった。
階段を降りきり、湿った冷気が漂う地下廊下に足を踏み入れた、その時。
――カタン……。
静まり返った地下廊下に、小さな異音が響いた。
鉄格子の並ぶ薄暗い一角、古びた処刑具や木箱が積まれた物陰の奥から聞こえた微かな物音に、アルヴァスは即座に反応した。
「……誰だ」
アルヴァスが低い声で威圧し、大剣を構えながら音のした方へ歩み寄る。蛍も息を呑み、その後をぴったりと追った。
物陰をそっと覗き込んだアルヴァスの視線の先。
そこにいたのは、一人の子供だった。
ボロボロの衣服をまとい、木箱の裏に必死で身を縮こまらせて隠れていたものの、恐怖と寒さのあまり震えた足が近くの鉄骨に当たって音を立ててしまったらしい。
木箱の裏で怯える子供の姿を見た蛍は、武器を下ろし、そっとその場に膝をついた。
「怖がらなくていいよ。僕たちは君を傷つけたりしない。……ねえ、こんなところで一人でどうしたの? ここにいた大人たちはどこに行ったの?」
蛍が声音を柔らかくし、優しく問いかける。
しばらくの間を置いて、子供はゆっくりと顔を上げた。ガタガタと震える唇が、掠れた声でぽつりと言葉を紡ぎ出す。
「……デルマに……みんな、食べられた……んだ……」
「……っえ?」
蛍が息を呑んで固まる。
地下牢郭に響いたその言葉は、あまりにもおぞましく、現実味のないものだった。
「デルマ……だと?」
アルヴァスが険しい顔のまま一歩前に出る。
人を襲う怪物――デルマ。それがなぜ、厳重な警備に守られたはずの城の内部、しかも地下牢郭にまで入り込んでいるのか。
「馬鹿な。デルマが、どうやって城の中に……」
アルヴァスが驚愕に目を見開いた、その瞬間。
背筋を凍らせるような、ねっとりと湿った異様な気配が二人の肌を撫でた。
じっとりとした悪寒に背中を押されるように、アルヴァスと蛍、そして震えていた子供が同時に背後へと視線を巡らせる。
そこにあったのは――暗がりから這い出るようにして、静かに、しかし確実に牙を剥きながら迫り来る、おぞましい姿だった。
「……っな……!?」
アルヴァスが思わず息を呑み、わずかに目を剥く。
そこに姿を現したのは、無数の人間の顔や無数の腕が黒い蔦と泥のように絡み合い、おぞましくうねる――優に3メートルはあろうかという、巨大な異形のデルマだった。無数の虚ろな目が一斉に爛々と赤く輝き、天井すれすれまで達する巨体が冷気を飲み込むように重圧を放っている。
「子供を抱いて下がれ、蛍」
アルヴァスは低く短く告げると、怯える子供を庇う蛍の前に一歩踏み出し、大剣を構え直した。
ぬらり、と巨大な泥の腕がうねり、天井の石壁を削りながらアルヴァスたちへと振り下ろされる。
「……小賢しいな」
アルヴァスが低く吐き捨てた瞬間、その巨躯を纏う黒い鎧の隙間から、ごうっ、と激しい熱量が吹き上がった。彼が宿す、すべてを焼き尽くす「炎」のギフトが、漆黒の夜の闇を紅蓮の光で照らし出す。
彼は踏み込みと同時に大剣を閃かせた。
灼熱の炎を纏った一閃が、迫り来る巨大なデルマの腕を容赦なく焼き払い、両断する。
「くっ……! 蛍、コアを探せ!」
「っ! は、はい!」
蛍は「コア」という言葉に、以前優珠から教えられた黒く変色している部分のことだと悟ると、目を凝らしながらそれを探した。
一方のデルマも、炎に焼かれてもなお、斬り裂かれた巨体が黒い粘液で修復され、さらなる数の歪んだ顔がうめき声を上げながら襲い掛かってくる。圧倒的な質量と呪詛のような冷気が周囲を凍てつかせていた。
「黒って言われても、色々黒いからわからない……!」
蛍が弱音を吐きながら凝視する。
そのとき、蛍に抱かれた子供が、怯えながらも震える指で怪物の脇腹あたりを指さした。
「……あそこ……! 黒い芯みたいなのが、光ってる……!」
「あ、あそこか……! ……ナイス! アルヴァスさん、右の腕がたくさん生えているところの少し下です!」
アルヴァスはチラリとその場所を確認するが、急所を守る怪物の腕が邪魔になり、なかなか刃が届かない。
「……ちっ」
アルヴァスにとって、この閉ざされた地下という環境も悪かった。空気が滞留する空間で炎を思う存分使えば、たちまち酸素が欠乏してしまう。
「アルヴァスさん、そのままもう少しだけ引き付けてください!」
「……!」
蛍の鋭い声に、アルヴァスは一瞬だけ瞳を細めて頷いた。
次の瞬間、暗がりを切り裂く銃声が地下牢郭に轟く。
放たれた弾丸は正確無比にデルマの脇腹を捉え、不気味に脈打つ黒いコアを蜂の巣のように撃ち抜いた。
「ぐ、あぁあぁあ――ッ……!」
デルマの絶叫のような水音を伴った澱んだ声が響き渡り、撃ち抜かれたコアを中心に、紅蓮の炎と黒い粘液が激しく交ざり合って、灰となって崩れ去っていく。
撃ち抜かれたコアから立ち上る黒煙と紅蓮の炎が、ゆっくりと消えていく。
静まり返った地下牢郭に、冷たい空気が戻ってきた。
アルヴァスは大剣を納めると、息を整えながら振り向き、蛍へと視線を向けた。
「助かった。……ありがとう」
アルヴァスからの真っ直ぐな謝意に、蛍は少しだけ目を丸くし、それから照れくさそうにはにかんだ。
だが、感傷に浸っている暇はない。
アルヴァスはすぐに険しい表情に戻り、まだ震えている子供へと向き直った。
「……にしても、何故城内にデルマが……」
アルヴァスは低く呟くと、蛍の背中にしがみつくようにして縮こまっている子供に歩み寄り、片膝をついた。威圧感を与えないよう、あえて視線を低くして語りかける。
「お前は……ここで何があったのか話せるか?」
アルヴァスが静かに問うと、子供は怯えたようにびくりと肩を震わせたが、ゆっくりと顔を上げ、掠れた声でぽつりぽつりと語り始めた――。




