迫る黒影
テーブルの中央に置かれた一冊の古びた本。
そこに刻まれた『START。』の文字を目にした瞬間、室内の空気が凍りついた。
「まさか……ロゼオ神話のメモリーブック……!?」
ビオッシャの美しい青い瞳が大きく見開かれる。常に冷徹な態度を崩さなかった彼女が、あからさまに動揺の色を露わにしていた。
そばに控えるラピスラズリも、息を呑んだまま言葉を失っている。
「どうして……どうして君たちがこれを持っているんだ!?」
オニキスに至っては、信じられないものを見るかのように目を丸くし、置かれた【START。】と凪谷たちの顔を何度も往復させていた。
凪谷と蛍が覚悟を決めた眼差しで頷き合おうとした、まさにその時――。
――ドガンッッ!!!!
背後の重厚な扉が、凄まじい衝撃音とともに内側へ向かって吹き飛んだ。
「――っ!?」
飛散する木粉と猛烈な爆風が地下室を吹き抜ける。一瞬にして立ち込める煙の中、揺らめく影がひとつ、目にも留まらぬ速度で室内に滑り込んできた。
「よう、昨日ぶりだな、ガキ共!」
冷酷で禍々しい声が響く。
煙を切り裂いて一直線に襲いかかってきたのは、黒い外套を翻した男――ローレンだった。
彼の狙いは、ただ一人。
まだ事態を把握できず立ち尽くす、緑の瞳のメモリスト――オニキス。
ローレンの鋭く伸びた手が、爪を立てるようにしてオニキスの首元へ目掛けて一直線に迫る。
だが、その爪が届く――まさにその一瞬前。
――ガギィィンッッ!!!!
金属同士が激しくぶつかり合う重厚な衝撃音が地下室に轟いた。
眩い火花が散り、強烈な衝撃波が立ち込める煙を吹き飛ばす。
「……なっ!?」
目を見開くローレンの目前。鋭い刃を受け止めていたのは、いつの間にかオニキスの前に割り込んでいた巨躯――アルヴァスだった。
身の丈ほどもある大剣を易々と片手で構え、ローレンの手甲を力任せに押し返す。ローレンは舌打ちを漏らしながら、空中で軽やかに身を翻して後方へと着地した。
「ア、アルヴァスさん……!」
間一髪で命拾いをしたオニキスは、腰を抜かしたまま荒い息を吐く。
ローレンは狙いを阻まれた苛立ちを隠さずに肩をすくめたが、その視線が向かった先――静かに立ち上がったビオッシャの前に止まる。
ビオッシャは腰に差した美しく精巧な銃剣の柄に静かに手を添え、戦闘態勢に入っていた。
カチリ、と引き金が引かれる冷たい金属音が室内に響く。
ビオッシャの瞳に凍てつくような殺意が宿り、全身から溢れ出る冷気が地下室の空気を一瞬で氷点下へと叩き落とした。
ビオッシャは乱れた髪を指先で優雅に払い整えると、見知らぬ侵入者に向けて冷徹な眼差しを向けた。
「……一人で乗り込んでくるなんて、いい度胸ね」
氷のように冷ややかな彼女の声が、静まり返った室内へ鋭く響き渡る。
「ローレンと言ったかしら。『聖痕の旅路』の鼠が、私の目の前で好き勝手できるとでも思っていて?」
しかし、初対面であるはずのビオッシャから放たれる凄まじい冷気と威圧感を前にしても、ローレンは恐れるどころか、口元をさらに歪めて肩を揺らした。
「ハッ、おっかねぇ冷気だねぇ……あんたが噂のビオッシャ様か」
ローレンはあざ笑うように両手を広げ、時間を稼ぐように言葉を伸ばしながら不敵な視線を一同へ向ける。
「だがよ……俺が『たった一人で』こんなところに乗り込んできたと、本気で思ってんのか?」
「――何?」
ビオッシャの眉がぴくりと動いたその瞬間、ローレンの足元から突如として禍々しい濃密な黒い煙が立ち上り、一気に室内を満たし始めた。
「わわっ! すごい煙……! 凪谷、蛍、あたしから離れないでね!」
「ゲホッ、わ、わかった優珠ちゃん……!」
「逃がさん……ッ!」
視界が黒煙で満たされる中、アルヴァスが踏み込み、大剣を引き抜いてローレンの背後へ肉薄しようとした――その途端。
「……つっ!?」
アルヴァスの動作が、唐突に狂ったようにピタリと停止した。
まるで目に見えない糸で全身を縫い付けられたかのように、あるいは何かを察知して自ら踏みとどまったかのように、剣を振りかぶった姿勢のままぴくりとも動かなくなる。
ほんの一瞬の、けれど異様で決定的な『静止』。
「……ヒハハッ! 用は済んだんでね! ……ヴェルグラードで待ってるぜ、お互い無事に会えるといいな!」
渦巻く黒い煙がローレンの全身を包み込み、頭上からその高笑いだけが響く。そして次の瞬間、黒煙が弾けて霧散すると同時に、ローレンはその場から掻き消えるように姿を消していた。
ローレンが去り、異様な黒煙が薄れ始めたことで、ようやくアルヴァスはハッと弾けたように追撃の体勢を解いた。だが、その額には薄っすらと冷や汗が滲んでいた。
「……逃がしたか。すまん、ビオッシャ。……あの黒煙……チッ、もう一人いたか」
悔しげに頭を下げるアルヴァス。ビオッシャも銃剣から手を離し、冷ややかな溜息をつく。幸いにもオニキスや凪谷たちに大きな怪我はなさそうだった。
「みんな、大丈夫かい?」
ラピスラズリが全員の無事を確認するように声をかけた、その時――。
「……あ」
テーブルのすぐ脇に立っていた蛍が、血の気の引いた声を出した。
「……ない」
「え?」
凪谷が蛍の視線の先――テーブルの上へと目を向ける。
先ほどまでそこにあったはずの一冊の本。
【START。】のメモリーブックが、跡形もなく消え去っていた。
「……しまっ……!! 奴の狙いはオニキスだけじゃなく、最初からこれだったのか……!?」
凪谷が青ざめた顔で叫ぶ。
「……ヴェルグラードで待ってる、か」
消えた【START。】の跡を見つめたまま、蛍がぽつりと呟いた。その声には、怒りと確信めいた冷たい色が含まれている。
「ヴェルグラードってことは……ギブンとあいつらは手を組んでるってことで間違い無いってこと……?」
「……ごめんなさい」
静まり返る地下室に、ふと、小さく澄んだ声が落ちた。
一同が視線を向けると、ビオッシャがいつもの冷徹な表情を僅かに崩し、どこか痛ましそうな陰を瞳に宿して凪谷と蛍を見つめていた。
「油断していたわ。あなたたちの大切な『【START。】』を奪われることになってしまった……。私の警戒が甘かったせいよ。本当に……ごめんなさい」
誇り高く、弱みを見せないはずのビオッシャが頭を低くして放った謝罪の言葉に、凪谷と蛍は思わず目を丸くした。
「ビオッシャさん、頭を上げてください!」
凪谷が慌てて手を差し伸べ、首を大きく横に振る。
「ビオッシャさんのせいなんかじゃないですよ。敵が卑怯で、一枚上手だっただけです」
「そうです! 奪われたなら奪い返してやりましょう!」
蛍もまっすぐな眼差しで力強く言葉を重ねる。
二人の温かい言葉に、ビオッシャは目を瞬かせ、やがてふっと氷が解けるような小さな微笑を浮かべた。
「……えぇ、そうね。ありがとう、凪谷、蛍」
そこへ、優珠がふと眉を下げて周囲を見回しながら口を開く。
「でもさ……それよりこのアジトの場所がバレちゃったよね。これからどうするの?」
敵の襲撃を受け、安全だったはずの潜伏先が割り出されてしまった事実。重い空気が流れかけたが、ビオッシャは小さく首を横に振った。
「いいのよ。いずれバレることはわかっていたし、アジトなんてまだいくつかあるから問題ないわ」
彼女は銃剣の柄を軽くなぞり、視線を静かに巡らせる。その瞳には、すでに迷いや動揺の色は一切なかった。
「私たちもこの5年間、潜伏しながら色々嗅ぎ回っていたの。ギブンが私から王座を奪って以降、デルマの目撃情報が多くなったり、街の近くまで寄ってくるようになったわ。ここ最近では、行方不明者の情報も増えてきた……」
「それって……どういう……?」
「私自身、王位なんてどうでもいいけれど……お母さまが愛したこの国に何かが起こってるなら確かめたい。それにギブンが関わってるならなおさら……」
ーーー「行きましょう。ヴェルグラードへ」




