氷の城塞
「……は?」
ビオッシャの言葉が、凪谷の脳内で静かに反芻される。
自分が『フィアンマ』――?
言われている意味が一瞬理解できず、凪谷はまばたきを繰り返しながら、間抜けな声を漏らすことしかできなかった。
「ちょっと、すみません……理解が追いついていなくて、 ……俺がフィアンマって……」
突然の指名に戸惑う凪谷に対し、ビオッシャは組んでいた腕を解き、脚を組み替えながら静かに語り始めた。
「私がお母さまからフィアンマの力を受け継いだあの時から……私の目には、人の魂に纏う『特別な力』が、炎のようなオーラとなって見えるようになったのよ」
「炎のオーラ……?」
「ええ。ギフトを持っている者や、メモリストのように特殊な資質を持つ者の周りには、微かに揺らめく色のついた炎が見える。そしてね……その炎の大きさや密度の違いで、その者が持つ潜在的な力の強さが測れるの」
ビオッシャはそう言うと、冷ややかな青い瞳を凪谷の全身へと滑らせた。
「私はね、過去に一度だけ……自分以外の『フィアンマ』に出会ったことがあるわ。その者が纏っていた炎は、普通のギフト保持者とは比べものにならないほど大きく、目を見張るような圧倒的な輝きを放っていた」
ビオッシャの言葉に、周囲にいた蛍や優珠、そしてオニキスまでもが息を呑む。
息詰まるような静寂の中、ビオッシャはふっと妖艶でどこか恐ろしい笑みを唇に浮かべ、凪谷を直視した。
「今、目の前にいる貴方みたいにね」
息をのむ凪谷を前に、ビオッシャは指先で軽く自分のあごをなぞりながら、神話の続きを語るように言葉を重ねる。
「ロゼオはね、貴方みたいな無自覚のフィアンマ達を見つけて、デルマから人々を守ったの。具体的には、フィアンマに桜の木による結界の貼り方を伝え安全な土地、所謂国を作った。そしてその国と国とを繋ぐ道を作ったのよ。……ここに届くまでに、桜と呼ばれる木が沢山生えていたでしょう?」
その言葉に、凪谷と蛍は思わず顔を見合わせた。
道中で自分たちが目にしてきた、鮮やかな薄桃色の花を咲かせる美しい樹木の列。
「あれはね、デルマが寄ってこない不思議な木なの。それを辿って作られた道を……後の世の人間は『ロゼオ・トレイル』と呼んだ」
ロゼオが遺した軌跡と、いま自分たちが歩んできた道が一本の線で繋がっていく。
「ヴェルグラードに近づくにつれて桜の木は、ほとんど枯れてしまっていたのは……」
蛍が恐る恐るその言葉を口にする。ビオッシャは少しだけ眼差しを落とし、物悲しさを孕んだ声で呟いた。
「ええ、私がフィアンマとして未熟だからよ。おそらく他の土地も……。だから今、世界のあちこちでデルマの被害が深刻化しているんじゃないかしら」
凪谷たちは、自分たちが道中で目にしてきた、どこか寂しげに佇む古い桜の幹や、まばらにしか咲いていなかった木々の姿を思い出していた。
かつて人々を守る安全地帯として機能していたその道が、今や崩壊の危機に瀕している理由を悟り、一同に重い沈黙が流れる。
「でも……」
ビオッシャは再び鋭い青い瞳を上げ、凪谷を真っ直ぐに見据えた。
「ロゼオに憧れて旅をする少年、その貴女がフィアンマだなんて……偶然だとは、到底思えないわ。まるで貴方がロゼオみたい」
昔からロゼオの物語に憧れ、その背中を追うように旅に出た凪谷にとって、自分がその「フィアンマ」であるという事実はあまりにも大きく、胸を突いた。憧憬と誇らしさ、そして背負うものの重さに対する戸惑いが混ざり合い、凪谷は言葉を詰まらせる。
「フィアンマの力を自覚していないから……」
言葉にできない思いを抱えて立ち尽くす兄の姿を見て、蛍が静かに一歩前へと出た。
かつて守られるだけだった弟の瞳には、しっかりと力強い光が宿っている。蛍は動揺する兄に代わり、まっすぐな視線でビオッシャへと問いかけた。
「……ビオッシャさん。ちなみにその『フィアンマの力』って……ビオッシャさんは、どうやってお母様から継承したんですか?」
蛍の問いに、ビオッシャはふっと目を伏せ、遠い日を慈しむような、けれどどこか哀切を帯びた瞳で微笑んだ。
「そうね……あれは、5年前のことよ」
静かに紡がれ始めた彼女の言葉とともに、記憶の扉がゆっくりと開かれていく――。
◇
――フィアンマとなった者は、その魂に宿る強大な力によって『寿命』という概念そのものから解き放たれる。
だが、幼い頃のビオッシャはそれとは真逆に、あまりにも儚く脆い存在だった。生まれつき体が弱く、宮廷の医者からは「15歳まで生きることは難しいだろう」と余命を宣告されていたのだ。
幼い娘の命の灯火が消えかけているのを知った母親――当時のヴェルグラード女王は、ある重大な決意を固めた。
自身が持つフィアンマの力を、娘へと継承することを。幼き愛する我が子を救いたいと。
――5年前。当時12歳だったビオッシャは、その日朝から体調が優れず、ベッドの上で寝込んでいた。
全身が燃えるように熱く、指先ひとつ動かすことすら思い通りにならない。病床の彼女の傍らには、いつもと変わらず静かに看病を続けるラピスラズリの姿があった。
だが、その平穏は突然破られた。
重々しい廊下の奥から、聞き捨てならない喧騒と足音が近づいてくる。ラピスラズリが不審に思って顔を上げた瞬間、バタンと大きな音を立てて部屋の扉が開け放たれた。
飛び込んできたのは、当時ビオッシャの専属護衛騎士を務めていたアルヴァスだった。
常に冷静沈着な彼にしては珍しく、その表情は切迫し、声は焦りに震えている。
「ラピスラズリ! ビオッシャを連れて逃げるぞ……!!」
何が起きているのか。外の騒ぎとアルヴァスの焦燥に、意識が朦朧とするビオッシャの思考は追いつかない。
けれど、その狂乱の只中で――ビオッシャは突如、自身の身体の奥底から、膨大で凄まじい『何か』が爆発的に溢れ出してくるのを感じた。
熱かった身体が、一瞬で凍てつくような冷気へと塗り替えられていく。
身体の冷気と同期するように、彼女は悟ってしまった。
(――あぁ、お母様が……)
大好きな母の命の灯火が、今この瞬間に完全に消え去ったのだということを。
理由も分からぬまま、溢れ出る涙がビオッシャの頬を静かにつたう。
その一滴の涙が床へとこぼれ落ち、――パチン、と小さな音を立てて透明な『氷の粒』へと姿を変え、地面に弾けた。
直後。
――ドドドドド……ッ!!!!
地鳴りのような凄まじい轟音がヴェルグラード全土を揺らし、首都の周囲に絶望的なまでの高さを誇る巨大な『氷の城壁』が聳え立った。外界のすべてを拒絶するように、一瞬にして国を閉ざした絶対不可侵の氷壁。
だが、自身の放ったその絶大な力を確かめる間もなく、当時12歳だったビオッシャの意識は深い闇へと沈んでいったのだった。
◇




