新たな影
「ハぁ……ハぁ……っ」
残像を残してローレンが掻き消えたボロ小屋の中に、静寂が戻ってくる。
襲撃の衝撃で木片が舞い散る中、オニキスと蛍は呆然と目の前の光景を見つめていた。
刀を鞘へと納めた赤髪の男は、ローレンが消えた空間をしばし冷ややかな瞳で見つめた後、静かに舌打ちを漏らした。
「チッ……逃げ足だけは速い奴だ」
男は低く滑らかな声で呟くと、視線を落とし、床に縛り上げられたままのオニキスと蛍に歩み寄る。
「……ひっ!?」
あまりの圧迫感と圧倒的な剣技を目の当たりにしたオニキスが身をすくめると、男は無造作に腰の刃を抜いた。銀光が一閃し、二人をガチガチに縛り上げていた太い縄が一瞬にしてズタズタに切り裂かれる。
「あ……っ」
自由になった手首を押さえながら起き上がった蛍が、警戒混じりの瞳で男を見上げた。
「あ、ありがとう……。貴方は……誰?」
「俺の名はアルヴァス。あの男――ローレンを追ってきた」
アルヴァスと名乗った男は、感情の読めない瞳で二人の姿を一瞥すると、短く言い放った。
「……立て。ここは奴らの領域だ。いつ下っ端が戻ってくるかも分からん。街の安全な場所まで送ってやる」
「え……いいのか?」
オニキスが驚きに目を丸くするが、アルヴァスはすでに振り返り、ボロ小屋の出口へと歩き出していた。
「嫌ならここに残れ」
「い、行く! 行きます!」
オニキスと蛍は顔を見合わせると、慌ててアルヴァスの後を追って壊れた扉をくぐり抜けた。
◇
外は相変わらず吹雪が吹き荒れ、視界を白く奪っていた。
積もった雪を踏みしめながら、ボロ小屋の敷地を出ようとした、まさにその時――。
「――待てっ!!」
吹雪の向こうから、荒い息遣いと共に聞き覚えのある叫び声が響いた。
雪煙を割って飛び出してきたのは、剣を構えた凪谷と優珠だった。
「蛍! オニキス!!」
「無事だった……!? って、誰その人ー!!」
足跡を追ってようやく辿り着いた二人は、無事に立っている蛍とオニキスの姿に安堵したのも束の間、二人の前に立つ黒いコートの赤髪の男――アルヴァスに気づき、一瞬で緊迫した空気を跳ね上げた。
凪谷は剣の柄を強く握りしめ、優珠もまた、いつでも飛び出せる姿勢で双剣を構え、アルヴァスを強く睨みつける。
「その人から離れろ……! 二人を連れ去ったのは、お前か……!?」
「待てよ、凪谷! 違うんだ!」
一触即発の空気を破るように、蛍が二人の前に飛び出して手を大きく振った。
「この人は敵じゃない! さっきのローレンって奴から僕たちを助けてくれたんだ!」
「助けてくれた……? ローレン……?」
困惑する凪谷に続き、オニキスも縄の痕が残る手首をさすりながら頷いた。
「ああ。さっきのボロ小屋に閉じ込められてた僕らを、縄を切って助け出してくれたのはこのアルヴァスさんだ。怪しい奴らじゃない……あ、いや、怪しい見た目だけど、と、とにかく味方なんだ!」
オニキスの言葉に、凪谷と優珠はゆっくりと構えを解いた。二人は武器を納めると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「……そうだったんですね。疑ってしまってすみませんでした。二人を助けてくれて、ありがとうございます」
アルヴァスは感情の読めない瞳で二人を一瞥すると、短く鼻を鳴らしただけだった。
「礼には及ばん」
「でも……」と、優珠がまだ少し警戒を残した瞳でアルヴァスを見上げる。
「どーしてあなたはここにいるの? さっき『ローレンを追ってきた』って言ってたけど、なんで二人を助けてくれたの?」
優珠の問いかけに、アルヴァスは吹きつける雪の中、黒いコートの襟を少し立てながら口を開いた。
「……とある理由で、あの怪しい連中の動きを追っていた。奴らがクォーツの街の裏路地で妙な動きをしているという情報を掴んでな。潜伏先へと向かったところ、ちょうどお前たちが捕まっているのに出くわした……それだけだ」
「怪しい連中を追って……」
凪谷が呟くと、アルヴァスは鋭い視線をオニキスと蛍、そして凪谷たちへと巡らせた。その瞳には、冷徹でありながらも確固たる探求の光が宿っている。
「……で、今度は俺から聞かせてもらおうか」
アルヴァスは低く滑らかな声で問うた。
「なぜ、お前たちは……あの連中にさらわれた?」
アルヴァスの問いかけに重なるように、凪谷と優珠も真剣な眼差しで二人へと一歩踏み出した。
「そうだよ、二人とも……。一体何があったんだ? 俺たち、路地裏で揉み合った跡と蛍の桜の飾りを見つけて、夢中で追いかけてきたんだ」
「そうそう! もー、めっちゃ焦ったんだよ?」
二人からの問い詰めと、アルヴァスの冷ややかな視線を受け、オニキスはきつく唇を噛みしめた。縄で縛られていた両手首を強く握りしめ、雪の上に視線を落とす。肩が微かに震えていた。
「……僕のせいだ」
絞り出すようなオニキスの声に、凪谷たちは息を呑んだ。
「僕のせいなんだ……! 奴らの狙いは最初から僕だった。蛍は……僕を追いかけてきてくれただけなのに、僕のせいであんな目に遭わせちゃったんだ……!」
「違うよ、オニキス! 巻き込まれたなんて思ってない! 僕が勝手に追っていったんだから――」
「ううん、違うんだよ蛍……っ!」
オニキスは蛍の言葉を遮り、胸の前に大切に抱えていた緑の手帳――自分のメモリーブックを強く強く抱きしめた。
「奴らは……僕がアイドクレースの子孫だっていう情報を掴んでたんだ。僕を捕まえれば、ロゼオ神話のメモリーブックが読めると思って……っ! 僕が変に格好つけて、アイドクレースの末裔だなんて言いふらしてたから……っ! 全部……僕のせいなんだ……!」
溢れ出しそうな涙を必死に堪えながら、絶望に満ちた声を漏らすオニキス。
その言葉を聞いた瞬間、アルヴァスの表情がわずかに強張った。冷徹だったその瞳に、驚きの色がくっきりと浮かび上がる。
「……お前が、アイドクレースの……?」
アルヴァスは小さく呟き、改めてオニキスの顔を、そしてその瞳をじっと見つめ直した。
何かを思案するように一瞬だけ沈黙したアルヴァスだったが、すぐに元の無表情へと戻ると、静かに口を開いた。
「……明日、お前たちを連れていきたい場所がある」
「え……?」
突然の申し出に、凪谷たちが顔を見合わせる。アルヴァスはそれ以上何も語らず、翻した黒いコートの裾を揺らしながら歩き出した。
「話は明日だ。まずはここを離れるぞ」
そのままアルヴァスは一同を安全な街の通りまで送り届けると、「明日、ここで待つ」とだけ告げて、吹雪の闇の中へと姿を消していった。
◇
「……ただいま、かぁさん」
重い扉を開け、吹雪の冷気と共に家へと滑り込んだ二人を、暖かい暖炉の光が包み込んだ。
「蛍! オニキス!!」
心配のあまり生きた心地がしていなかったアゲートが、慌てて玄関へと駆け寄ってくる。雪に濡れ、縄の痕がついた腕を擦る二人を見るやいなや、アゲートは二人を優しく、力強く抱きしめた。
「よかった……! 無事だったのね……本当に、本当によかった……!」
温かいアゲートの体温と包み込むような優しさに触れ、今まで張り詰めていたオニキスの緊張が一気に崩れ去った。
「かぁさんっ……っ……僕、僕……っ」
「いいのよ、何も言わなくていいわ。寒かったでしょう。さあ、中に入って温まりなさい」
アゲートの優しい言葉に背中を押されながら、一同は安堵の息を吐き、静かに暖かなリビングへと足を進めるのだった。




