アイドクレースの著書
「あ、オニキスのことなら大丈夫です! 僕、ちょっと追いかけてきますね!」
お盆を手に首を傾げるアゲートにそう短く告げると、蛍は返事を待つ間もなく、開け放たれたままの玄関から雪の散らつく外へと飛び出していった。
静まり返った玄関に、冷たい外気がすうっと流れ込んでくる。
遅れて階段を降りてきた凪谷と優珠は、遠ざかる蛍の足音を聞き送りながら、階段の脇で佇むアゲートの前で足を止めた。
「あらあら……あの子たちったら、あんなに慌てて。外は冷えるのに……」
アゲートは困ったように、けれどどこか愛おしそうに目を細めると、手にしていたお盆を近くの机にそっと置いた。ふわりと立ち上るスープの温かい湯気が、張り詰めていた空気を優しく和らげていく。
「二人も、急に驚かせてしまってごめんなさいね。……もしかして、あの子、また昔の話をして部屋を飛び出しちゃったのかしら?」
アゲートの穏やかな言葉に、凪谷は少し申し訳なさそうに視線を泳がせながら答えた。
「……いえ、僕たちがメモリーブックのことや、目の色のことをいろいろ聞いちゃって。オニキス、すごく真剣に自分の気持ちを話してくれたんですけど……途中で正気に返って恥ずかしくなっちゃったみたいで」
それを聞いて、アゲートは「まあ」と小さく声を漏らすと、クスッと上品に微笑んだ。
「あの子ったら、相変わらずね……。昔から根が真っ直ぐだから、一度熱が入ると周りが見えなくなっちゃうのよ」
アゲートは二人をリビングの温かいソファへと促し、スープが入った椀をそれぞれの手元へと差し出した。優珠は丁寧にそれを受け取ると、ふと真面目な眼差しでアゲートを見つめた。
「ねえ、アゲートさん。オニキス……『アイドクレースの子孫』だって言ってた。伝説の英雄ロゼオと一緒に旅をしたっていう……」
その名を聞いた瞬間、アゲートの手が一瞬だけピタリと止まった。
窓の外で静かに舞い落ちる雪を見つめるその瞳には、懐かしさと、どこか切ないような深い色が宿っている。
「……ええ。あの子のおばあちゃん……私の母がね、幼いオニキスにずっと聞かせていたのよ。私たちの先祖であるアイドクレースが、どれほど誇り高く、英雄ロゼオの傍らでその旅路を記録し続けたか……という話をね」
「じゃあ、本当に……! オニキスは、あのアイドクレースの子孫なんですね。すごい……!」
凪谷は驚きで目を丸くし、思わず身を乗り出した。おとぎ話だと思っていた伝説の英雄の記録者が、まさか目の前にいる少年の先祖だったとは思いもしなかったのだ。
「ええ。小さな頃からそのお話をずっと聞かされていたから……あの子にとってアイドクレースは、ずっと憧れのヒーローだったのよ」
アゲートは優しく目を細め、静かにうなずいた。
その言葉を聞いた凪谷と優珠は、顔を見合わせた。凪谷はそっと胸元に手をやり、抱えてきた熱い想いを打ち明けるように言葉を紡ぎ始める。
「……実は、僕たちもなんです。僕たち双子も……ロゼオの冒険譚に憧れて、村を出て旅を始めたんです。母さんの形見の本――このメモリーブックに記されたロゼオの足跡を確かめたくて、北の大図書館を目指してて……」
凪谷は大事に抱えていた白く分厚いメモリーブックを、そっとアゲートに見せた。
その本を目にした瞬間、アゲートの顔から笑みが消え、その瞳が大きく見開かれた。
「……その本……まさか、ロゼオの神話……?」
思わず本について明かした凪谷の後ろで、優珠は少し呆れた顔をしながら二人の会話を黙って聞いていた。
「……はい。僕たち双子の母親が、昔から読み聞かせてくれてて。今は僕たちだけじゃ白紙で読めないんですけど……」
「……少し、その本を見せてもらってもいいかしら?」
アゲートは震える手で、恐る恐るそのメモリーブックへと手を伸ばした。
その瞬間、アゲートの『赤』の瞳が強い光を放つ。
「っ……!」
「目が……!」
アゲートが表紙に手を当てている部分が眩しく輝き始めるが、やがてその光は静かに収まっていった。
「凄いわ……。私ではこのメモリーブックの中身を見ることはできない。少なくとも、『赤』の瞳では見られないということね」
アゲートの言葉に、今度は凪谷と優珠が息を呑んだ。
「この本がもし本当に本物なのだとしたら……先祖の書いた本が今、巡り巡ってあなたたちの手にあるなんて……」
アゲートは目元を滲ませながら、深く、深く感銘を受けたように胸元をぎゅっと押さえた。
「……ありがとう。この本は返すわね。ただし、もし本物だったとしたら、ロゼオ神話を狙う悪党にはくれぐれも気をつけるのよ」
「はい。でも、アゲートさんでも読めないなんて……」
「そりゃ、アイドクレースくらいになると『白』か『黒』の瞳なんじゃない? 伝説のメモリストだし」
優珠の言葉に、アゲートは少し考える素振りを見せた。
「それがね……私達に伝わっている伝承では、アイドクレースの瞳の色は『緑』なの」
「「えっ!?」」
凪谷と優珠は思わず声を揃えた。最底辺とされる『緑』のメモリストが、伝説の記録者だったというのか。
「もう何百年も前の話だから、嘘か本当かも分からないけれど……私達の先祖もアイドクレースについては、若い時に当時人間だったロゼオと出会い、彼の旅について行ったとしか伝えられていなくて……」
申し訳なさそうな顔でアゲートが言った。
「いえ! 僕たちにとって、ロゼオやアイドクレースが本当に実在したって分かっただけで十分です!」
「ふふっ、優しいのね。……ヴェルグラードの大図書館には、『黒』の瞳を持つメモリストがいるはずだから、会えるといいわね」
「ヴェルグラードに……!?」
「ますますどうにかして入らないとね!」
優珠の頼もしい呟きに、凪谷が力深くうなずいたその時だった。
「それにしても……二人とも帰ってくるのが遅いわね」
ふとアゲートが窓の外に視線をやると、先ほどよりも雪が強まり、しんしんと街を白く染め上げていた。
「蛍のことだから、夢中になってオニキスを探し回ってるのかも……」
「外は一段と冷え込んできたわ。念のため、様子を見てきましょうか」
不安を覚えた凪谷たちが立ち上がろうとした、まさにその頃――。
◇
「はぁ……っ、はぁ……っ!」
雪が舞うクォーツの街の裏路地を、オニキスは夢中で駆け抜けていた。
冷たい空気に肺がキリキリと痛み、息が白く乱れる。胸にはペラペラの、けれど自分にとって世界で一番大切なメモリーブックを強く抱きしめていた。
(……やっちまった。穴があったら入りたい……!)
思い出すだけで、顔が火吹きそうなほど熱くなる。
初対面同然の双子と優珠の前で、積もりに積もったコンプレックスと恥ずかしい夢を大声でぶちまけてしまったのだ。
(アイドクレースの子孫だなんて……『緑』のくせに格好つけて……! きっと、バカにされてるに決まってる……!)
悔しさと恥ずかしさで視界が滲む。足を止めようとした、その時だった。
「――待てって、オニキスーーっ!!」
背後から、荒い息遣いと共に自分を呼ぶ声が響いた。
ハッとして振り返ると、雪を蹴立てながら必死の形相で追いかけてくる蛍の姿があった。
「なっ……!? なんで追いかけてきてんだよ!?」
「当たり前だろ! 急に飛び出すから……っ、はぁっ、待てって言ってるだろ!」
「来ないでくれよ! 恥ずかしくて死にそうなんだからさぁ!」
オニキスはさらに速度を上げようとしたが、慣れない雪道に足をとられ、大きく体勢を崩してしまった。
「うわっ……!?」
「あ、危ない――っ!」
すかさず手を伸ばした蛍がオニキスの腕を掴み、二人はそのまま積もった雪の上へと倒れ込んだ。
バサッと雪が舞い散り、冷たい感触が頬を打つ。
荒い呼吸だけが静かな路地に響く中、先に体を起こした蛍が、雪まみれになった顔をぬぐいながらオニキスを見下ろした。
「……っつあぁ……痛たた……。でも、やっと追いついた……!」
「……なんでだよ」
雪の中に倒れ伏したまま、オニキスは胸の本をぎゅっと抱きしめ、顔を背けた。
「なんで追ってきたんだよ……。僕の言ったこと、おかしかっただろ? 最底辺の『緑』のくせに、英雄の冒険を記録したいなんて……身の程知らずだって、笑いに来たのか……?」
悔しそうに唇を噛みしめるオニキス。
だが、その頭上から返ってきたのは、嘲笑でも呆れ声でもなかった。
「笑うわけないだろ!」
蛍のまっすぐで、どこか怒ったような声に、オニキスは思わず目を見開いた。
「僕、すごく格好いいと思ったよ。オニキスの夢――」
蛍が言葉を続けようとした、その時だった。
背後の暗がりで、かすかな足音が響いた。
「……ん?」
蛍が振り返ろうとした、その瞬間。
何者かの腕が、暗闇から勢いよく伸びてきた。
「んぐっ……!?」
「な、なんだ――っ!?」
二人の叫びは、甘ったるい香りを放つ布によって無理やり塞がれた。
必死に抵抗しようとするが、急激に身体から力が抜けていく。
「んっ……! んんっ……!」
視界がぼやけ、足元がふらつく。
オニキスは胸に抱えたメモリーブックを守ろうとしたが、思うように腕が動かない。
蛍も何とか振りほどこうともがいたものの、次第に意識が遠のいていった。
薄れゆく意識の中、二人の身体は何者かによって素早く拘束され、そのまま路地の奥へと引きずり込まれていく。
やがて、路地には再び静寂が訪れた。
雪の上に残されたのは、二人が必死にもがいた痕跡だけ。
その痕跡さえも、音もなく降り積もる白い雪が、少しずつ覆い隠していった。
――二人が姿を消したことに、まだ誰も気づいていなかった。




