↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私がいなくても回る国だそうなので、王妃の座をお返しします。復縁?お断りです~有能すぎた元王妃は隣国で大切にされています~  作者: 猫燕


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/28

第九話「人を見る目には」

フェリクスは、書類の端を指先で軽く叩いていた。

政庁の一角、内政を取りまとめる者だけが使える手狭な執務室。

窓から差し込む午後の光の中で、机には新規雇用者の身上書が束になって積まれている。


公国では、新しく人を雇い入れると、その全員について身元を確認する決まりだった。

人の出入りが激しい宿場町を抱える国である以上、怠れば何が紛れ込むか分からない。

その束の一番上に、「リーゼ」という名の臨時雇いの書類があった。


「経歴欄は、これだけか」


フェリクスが呟くと、傍らで別の書類を仕分けていた部下が顔を上げた。


「はい。『元帳簿係』とだけ。出身は『北方』と曖昧で、推薦人は市場の雑貨商ハンスです」

「ハンスか。あの人の目利きは確かだが、身元の保証にはならんな」


流れ者の多い宿場町では、経歴の曖昧な働き手など珍しくない。

それ自体を怪しむ理由にはならなかった。

問題は、その隣に添えられた報告書のほうだ。


「会計処ではずいぶん評判のようですよ。あのヨーゼフ殿が、珍しく人を褒めていたとか」

「あの偏屈がか。それは天変地異の前触れだな」


皮肉めいた口調で返しながら、フェリクスは報告書を手に取った。

数年来、誰も原因を突き止められなかった不一致を、着任して三週間で洗い出している。

引き継ぎの過程で基準が歪んでいたという、構造的な原因にまで踏み込んでいた。


数字の精度だけではない。

問題の切り分け方、修正案の組み立て方、そのどれもが、現場の下働きの手癖とは明らかに違う。


(単なる帳簿係が、これほど正確に、これほど速く仕事を仕上げられるものか)


人当たりのよい笑みを浮かべることの多い彼の顔から、その時ばかりは笑みが消えていた。


「……妙だな」


☆


それからの数日、フェリクスは表に出ず動いた。

まず、会計処の廊下から、リーゼの働く様子を遠目に観察した。

机に向かう背筋の伸ばし方。

書類を受け取る時の指先の運び。

声をかけられた際の、ほんのわずかな礼の角度。


考え込むと無意識にペンの尻を唇に当てる癖もあったが、そんな仕草でさえ、不思議と品よく見えた。

あれは、市井で帳簿仕事をしていた者の動きではない。

長い年月をかけて、礼法そのものを叩き込まれた人間のものだ。


(人を見る目には、多少の自信がある)


昼の休憩に、何気ない顔でヨーゼフの机へ立ち寄った。


「あの新入りは、どうです」

「どうもこうもねぇ。手を抜かねぇし、余計な口も利かねぇ。……ただ、昼飯を抜きやがるのが気に食わんがな」

「昼を?」

「仕事に夢中になると忘れちまうらしい。見てて危なっかしくて仕方ねぇ」


ぶっきらぼうな口調の奥に、彼なりの気遣いが滲んでいた。

フェリクスは軽く礼を言って辞した。


人を疑うことに長けた自分の目から見ても、あの女性に悪意や企みの匂いはない。

それでも、いや、だからこそ腑に落ちない。

悪意のない人間が、これほど不自然なまでに有能であるほうが、よほど説明がつかなかった。


その夜、フェリクスは資料室に籠もり、隣国ローゼンヴァルトの情勢を扱った報告書を、最近のものから遡って洗い直した。

国境の関所には、隣国の人の出入りを知らせる書状が毎週のように届く。

外交筋からの覚書、行商人が持ち帰った噂の書き付け、通行記録。

膨大な紙の山の中から、一つの文言が目に留まった。


――王妃が、離縁を経て忽然と姿を消した。


噂の域を出ない、ごく短い一文だった。

だが日付を確かめた瞬間、指が止まる。

離縁の時期、そして街道を通ってこの国へ入りうる日程が、リーゼの現れた時期と驚くほど符合していた。


念のため、国境の関所の記録も引っ張り出した。

通行者の人相を控えた簡素な書き付けが残っている。

淡い銀灰色の髪、二十代半ばの年恰好、随伴する侍女が一人、赤毛の若い女。

王妃は公式の場にほとんど姿を見せず、肖像画も出回っていない。

顔で特定することはできない。


だが髪の色、年恰好、連れの侍女、宮廷仕込みの所作。

それらを並べれば、確度の高い推測として結論づけるには十分だった。


(これが事実なら……)


歓迎すべき人材か、国家の危機か。

天秤が揺れる。

隣国の元王妃を、身分を伏せたまま自国の会計処に置いていたとなれば、政治的な火種になりかねない。

ローゼンヴァルトが返還を求めてくれば、外交問題にもなる。


一方で、あれほどの才が自分たちの手の中にある、という事実も軽くなかった。

財政に余裕のない公国にとって、あの精度で仕事をこなす人材は、金を積んでも容易には手に入らない。

窓の外を、夜警の灯りが遠く横切っていく。

フェリクスは書類を閉じ、椅子の背に体を預けて、しばらく天井を見つめた。


主である大公ヴィンフリート閣下なら、この件をどう判断するだろうか。


(肩書きではなく、仕事を見る)


あの男なら、おそらくそう言う。

だが、それを承知した上で、主の代わりに危険を見積もるのが自分の役目だった。

感情ではなく、職務上の判断として。

フェリクスは、直接本人に確かめる道を選んだ。


☆


「終業後、政庁の小部屋までお越しください」


簡潔な呼び出しの書付を受け取った時、リーゼは何気ない顔でそれを懐にしまった。

書付を持った手が一瞬こわばったのを、自分でも隠せなかった。


その日の午後は、いつもの半分も仕事が進まなかった。

数字を追っているはずなのに、同じ行を何度も読み返している。

隣の席のヨーゼフが、ふと手を止めてこちらを見た。


「おい。今日は飯を食ったのか」

「……いえ」

「だろうと思った」


ヨーゼフは鼻を鳴らし、引き出しから固焼きのパンを取り出して、無造作にリーゼの机へ放り投げた。


「食え。腹が減っては数字も逃げちまう」


素っ気ない言い方なのに、その不器用な優しさに、リーゼは思わず目を瞬かせた。


「ありがとうございます。……頂きます」


齧ったパンは硬く、素朴な味がした。

これから何が起きるのか分からない不安の中で、その硬さだけが妙に確かなものに感じられた。


終業の鐘が鳴り、政庁の門の前まで来ると、迎えに来ていたカタリナがすぐに異変に気づいた。


「どうしたんです?顔が強張ってますよ」

「……呼び出しを受けました。フェリクス様から」

「あの、報告書を読んだっていう?」


リーゼは頷く。

カタリナは眉を寄せ、腰に手を当てて片眉を上げた。


「私は門のところで待ってます。何かあったら大声で呼んでくださいね。何があっても駆けつけますから」

「ありがとう。……大丈夫です。おそらく話をするだけですから」


そう答えながら、自分の言葉を信じきれずにいた。

あの廊下の向こうから感じた視線。

あれは、ただの好奇心ではなかった。


☆


指定された部屋には、他に人の姿はなかった。

夕暮れの光が、窓際の机を斜めに照らしている。

机に軽く寄りかかるようにして、黒髪を隙なく整えた青年が立っていた。


フェリクスだった。

人当たりのよさそうな微笑みを浮かべているが、目は少しも笑っていない。


「お呼び立てして申し訳ありません」

「いえ」


勧められるまま、向かいの椅子に腰を下ろす。

机の上には、見覚えのある報告書が広げられていた。

着任して三週間でまとめた、あの報告書だ。

端に置かれたフェリクスの指が、こつ、こつと規則正しく音を立てている。


フェリクスは前置きなしに、静かに切り出した。


「単刀直入に伺います。あなたは――ローゼンヴァルトの元王妃殿ですか」


その瞬間、リーゼの息が止まった。

取り繕う言葉を必死に探した。

フェリクスの目に迷いがないのを見て、無駄だと悟った。


彼は確信を持ってこの問いを口にしている。

沈黙が、ひどく長く感じられた。


「……はい」


短く、認めた。


「やはり、そうでしたか」


勝ち誇る響きはなかった。

確認を終えた者の、淡々とした声音だった。


「疑いを持ったきっかけは、あなたの報告書です。経歴に不釣り合いなほど、精度が高すぎた。ここまで隠してこられた方が、あの一通で足がつくとは、皮肉なものですね」

「……仕事に手を抜けなかっただけです」


言い訳ではなく、本心だった。

手を抜いていれば、素性を疑われることもなかったかもしれない。

けれど、目の前に矛盾した数字があれば見過ごせない。

それが、リーゼという人間のどうしようもない性分だった。


「目的は」

「ありません。ただ、静かに暮らせる場所が欲しかっただけです」


声が、思ったより震えていた。

これまで積み上げてきたものが、この一言で崩れ去るかもしれない。

そう思うと、身体の芯が冷える。


だが同時に、もう隠し通さなくてもいい、という奇妙な安堵も混じっていた。

張り詰めていた糸が、ふっと緩むような。

リーゼは立ち上がり、深く頭を下げた。


「どうか、しばらくの間だけでも、伏せておいていただけませんか。ご迷惑をおかけするつもりは決してありません」


これまでの気丈さとは違う、素の弱さがその声に滲んでいた。

今の自分には、頭を下げることしかできない。

地位も後ろ盾もない。

ただ、この場所で、もう少しだけ働かせてほしかった。


フェリクスは何も答えなかった。

しばらく無言でリーゼを見つめる。

両方の眉がわずかに持ち上がった。

相手を値踏みする時の、彼の癖だった。


何を考えているのか、表情からは少しも読み取れない。

探るような視線を最後にもう一度リーゼへ向けてから、踵を返した。


「……少し、考えさせてもらう」


そう言い残して、彼は部屋を出ていった。

残されたリーゼには、遠ざかる足音が、やけに長く尾を引いて聞こえた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。