第九話「人を見る目には」
フェリクスは、書類の端を指先で軽く叩いていた。
政庁の一角、内政を取りまとめる者だけが使える手狭な執務室。
窓から差し込む午後の光の中で、机には新規雇用者の身上書が束になって積まれている。
公国では、新しく人を雇い入れると、その全員について身元を確認する決まりだった。
人の出入りが激しい宿場町を抱える国である以上、怠れば何が紛れ込むか分からない。
その束の一番上に、「リーゼ」という名の臨時雇いの書類があった。
「経歴欄は、これだけか」
フェリクスが呟くと、傍らで別の書類を仕分けていた部下が顔を上げた。
「はい。『元帳簿係』とだけ。出身は『北方』と曖昧で、推薦人は市場の雑貨商ハンスです」
「ハンスか。あの人の目利きは確かだが、身元の保証にはならんな」
流れ者の多い宿場町では、経歴の曖昧な働き手など珍しくない。
それ自体を怪しむ理由にはならなかった。
問題は、その隣に添えられた報告書のほうだ。
「会計処ではずいぶん評判のようですよ。あのヨーゼフ殿が、珍しく人を褒めていたとか」
「あの偏屈がか。それは天変地異の前触れだな」
皮肉めいた口調で返しながら、フェリクスは報告書を手に取った。
数年来、誰も原因を突き止められなかった不一致を、着任して三週間で洗い出している。
引き継ぎの過程で基準が歪んでいたという、構造的な原因にまで踏み込んでいた。
数字の精度だけではない。
問題の切り分け方、修正案の組み立て方、そのどれもが、現場の下働きの手癖とは明らかに違う。
(単なる帳簿係が、これほど正確に、これほど速く仕事を仕上げられるものか)
人当たりのよい笑みを浮かべることの多い彼の顔から、その時ばかりは笑みが消えていた。
「……妙だな」
☆
それからの数日、フェリクスは表に出ず動いた。
まず、会計処の廊下から、リーゼの働く様子を遠目に観察した。
机に向かう背筋の伸ばし方。
書類を受け取る時の指先の運び。
声をかけられた際の、ほんのわずかな礼の角度。
考え込むと無意識にペンの尻を唇に当てる癖もあったが、そんな仕草でさえ、不思議と品よく見えた。
あれは、市井で帳簿仕事をしていた者の動きではない。
長い年月をかけて、礼法そのものを叩き込まれた人間のものだ。
(人を見る目には、多少の自信がある)
昼の休憩に、何気ない顔でヨーゼフの机へ立ち寄った。
「あの新入りは、どうです」
「どうもこうもねぇ。手を抜かねぇし、余計な口も利かねぇ。……ただ、昼飯を抜きやがるのが気に食わんがな」
「昼を?」
「仕事に夢中になると忘れちまうらしい。見てて危なっかしくて仕方ねぇ」
ぶっきらぼうな口調の奥に、彼なりの気遣いが滲んでいた。
フェリクスは軽く礼を言って辞した。
人を疑うことに長けた自分の目から見ても、あの女性に悪意や企みの匂いはない。
それでも、いや、だからこそ腑に落ちない。
悪意のない人間が、これほど不自然なまでに有能であるほうが、よほど説明がつかなかった。
その夜、フェリクスは資料室に籠もり、隣国ローゼンヴァルトの情勢を扱った報告書を、最近のものから遡って洗い直した。
国境の関所には、隣国の人の出入りを知らせる書状が毎週のように届く。
外交筋からの覚書、行商人が持ち帰った噂の書き付け、通行記録。
膨大な紙の山の中から、一つの文言が目に留まった。
――王妃が、離縁を経て忽然と姿を消した。
噂の域を出ない、ごく短い一文だった。
だが日付を確かめた瞬間、指が止まる。
離縁の時期、そして街道を通ってこの国へ入りうる日程が、リーゼの現れた時期と驚くほど符合していた。
念のため、国境の関所の記録も引っ張り出した。
通行者の人相を控えた簡素な書き付けが残っている。
淡い銀灰色の髪、二十代半ばの年恰好、随伴する侍女が一人、赤毛の若い女。
王妃は公式の場にほとんど姿を見せず、肖像画も出回っていない。
顔で特定することはできない。
だが髪の色、年恰好、連れの侍女、宮廷仕込みの所作。
それらを並べれば、確度の高い推測として結論づけるには十分だった。
(これが事実なら……)
歓迎すべき人材か、国家の危機か。
天秤が揺れる。
隣国の元王妃を、身分を伏せたまま自国の会計処に置いていたとなれば、政治的な火種になりかねない。
ローゼンヴァルトが返還を求めてくれば、外交問題にもなる。
一方で、あれほどの才が自分たちの手の中にある、という事実も軽くなかった。
財政に余裕のない公国にとって、あの精度で仕事をこなす人材は、金を積んでも容易には手に入らない。
窓の外を、夜警の灯りが遠く横切っていく。
フェリクスは書類を閉じ、椅子の背に体を預けて、しばらく天井を見つめた。
主である大公ヴィンフリート閣下なら、この件をどう判断するだろうか。
(肩書きではなく、仕事を見る)
あの男なら、おそらくそう言う。
だが、それを承知した上で、主の代わりに危険を見積もるのが自分の役目だった。
感情ではなく、職務上の判断として。
フェリクスは、直接本人に確かめる道を選んだ。
☆
「終業後、政庁の小部屋までお越しください」
簡潔な呼び出しの書付を受け取った時、リーゼは何気ない顔でそれを懐にしまった。
書付を持った手が一瞬こわばったのを、自分でも隠せなかった。
その日の午後は、いつもの半分も仕事が進まなかった。
数字を追っているはずなのに、同じ行を何度も読み返している。
隣の席のヨーゼフが、ふと手を止めてこちらを見た。
「おい。今日は飯を食ったのか」
「……いえ」
「だろうと思った」
ヨーゼフは鼻を鳴らし、引き出しから固焼きのパンを取り出して、無造作にリーゼの机へ放り投げた。
「食え。腹が減っては数字も逃げちまう」
素っ気ない言い方なのに、その不器用な優しさに、リーゼは思わず目を瞬かせた。
「ありがとうございます。……頂きます」
齧ったパンは硬く、素朴な味がした。
これから何が起きるのか分からない不安の中で、その硬さだけが妙に確かなものに感じられた。
終業の鐘が鳴り、政庁の門の前まで来ると、迎えに来ていたカタリナがすぐに異変に気づいた。
「どうしたんです?顔が強張ってますよ」
「……呼び出しを受けました。フェリクス様から」
「あの、報告書を読んだっていう?」
リーゼは頷く。
カタリナは眉を寄せ、腰に手を当てて片眉を上げた。
「私は門のところで待ってます。何かあったら大声で呼んでくださいね。何があっても駆けつけますから」
「ありがとう。……大丈夫です。おそらく話をするだけですから」
そう答えながら、自分の言葉を信じきれずにいた。
あの廊下の向こうから感じた視線。
あれは、ただの好奇心ではなかった。
☆
指定された部屋には、他に人の姿はなかった。
夕暮れの光が、窓際の机を斜めに照らしている。
机に軽く寄りかかるようにして、黒髪を隙なく整えた青年が立っていた。
フェリクスだった。
人当たりのよさそうな微笑みを浮かべているが、目は少しも笑っていない。
「お呼び立てして申し訳ありません」
「いえ」
勧められるまま、向かいの椅子に腰を下ろす。
机の上には、見覚えのある報告書が広げられていた。
着任して三週間でまとめた、あの報告書だ。
端に置かれたフェリクスの指が、こつ、こつと規則正しく音を立てている。
フェリクスは前置きなしに、静かに切り出した。
「単刀直入に伺います。あなたは――ローゼンヴァルトの元王妃殿ですか」
その瞬間、リーゼの息が止まった。
取り繕う言葉を必死に探した。
フェリクスの目に迷いがないのを見て、無駄だと悟った。
彼は確信を持ってこの問いを口にしている。
沈黙が、ひどく長く感じられた。
「……はい」
短く、認めた。
「やはり、そうでしたか」
勝ち誇る響きはなかった。
確認を終えた者の、淡々とした声音だった。
「疑いを持ったきっかけは、あなたの報告書です。経歴に不釣り合いなほど、精度が高すぎた。ここまで隠してこられた方が、あの一通で足がつくとは、皮肉なものですね」
「……仕事に手を抜けなかっただけです」
言い訳ではなく、本心だった。
手を抜いていれば、素性を疑われることもなかったかもしれない。
けれど、目の前に矛盾した数字があれば見過ごせない。
それが、リーゼという人間のどうしようもない性分だった。
「目的は」
「ありません。ただ、静かに暮らせる場所が欲しかっただけです」
声が、思ったより震えていた。
これまで積み上げてきたものが、この一言で崩れ去るかもしれない。
そう思うと、身体の芯が冷える。
だが同時に、もう隠し通さなくてもいい、という奇妙な安堵も混じっていた。
張り詰めていた糸が、ふっと緩むような。
リーゼは立ち上がり、深く頭を下げた。
「どうか、しばらくの間だけでも、伏せておいていただけませんか。ご迷惑をおかけするつもりは決してありません」
これまでの気丈さとは違う、素の弱さがその声に滲んでいた。
今の自分には、頭を下げることしかできない。
地位も後ろ盾もない。
ただ、この場所で、もう少しだけ働かせてほしかった。
フェリクスは何も答えなかった。
しばらく無言でリーゼを見つめる。
両方の眉がわずかに持ち上がった。
相手を値踏みする時の、彼の癖だった。
何を考えているのか、表情からは少しも読み取れない。
探るような視線を最後にもう一度リーゼへ向けてから、踵を返した。
「……少し、考えさせてもらう」
そう言い残して、彼は部屋を出ていった。
残されたリーゼには、遠ざかる足音が、やけに長く尾を引いて聞こえた。




