第八話「下働きの実績」
ハンスの誘いに、リーゼは少し間を置いて頷いた。
「……お願いできますか」
鐘の音が鳴り止み、通りが元の喧騒に戻ると、ハンスは満足そうに頷いて、店の奥から紙と羽根ペンを取り出した。
「会計処の連中とは多少の付き合いがある。腕は俺が保証してやるから、心配すんな」
慣れた手つきで、紹介状代わりの一筆をしたためていく。
達筆とは言えない、しかし力強い字だった。
「本当によろしいのですか。私のことなど、何も知らないのに」
「知らねえからいいんだよ。知りすぎると余計なことを考えちまう。俺は目の前で見たものしか信じねえ主義でな」
リーゼは言葉を失った。
素性も過去も問わず、目の前で示した腕だけを信じる。
そんな考え方があることを、これまで知らなかった。
「若い頃、行商で嫌というほど苦労したもんでな。肩書きだけ立派で中身が空っぽの奴も、見た目は冴えなくても仕事は本物の奴も、腐るほど見てきた」
書き終えた紹介状を折りたたみ、リーゼの手に握らせる。
「あんたは後者だ。俺の目はそうそう間違わねえ」
リーゼは深く頭を下げることしかできなかった。
これほどまっすぐな言葉で信頼を示されたのは、いつ以来だろう。
☆
宿への帰り道、カタリナが唇を尖らせた。
「臨時雇いだなんて、リーゼ様には勿体ないです。本当なら、もっと立派な地位にいらしても不思議じゃないのに」
「勿体なくなんてありません」
リーゼは珍しく目元を和らげた。
「ちゃんと働いて、認めてもらえるなら、それで十分です」
王城では、どれだけ成果を出しても「王妃の仕事ではない」と扱われてきた。
ゼロから、ただの帳簿係のひとりとして評価される。
それが不安であると同時に、どこか清々しくもあることに、リーゼ自身が戸惑っていた。
「あなたも、慣れない場所で苦労させてしまっています。ごめんなさい」
「何言ってるんですか。私は好きでお供してるんです。謝ることなんてありません」
言い切られて、リーゼは小さく頭を下げた。
ありがとう、と言うのは何度目だろう。
何度言っても、温かくなる感覚だけは薄れなかった。
翌朝、リーゼは紹介状を懐に、慣れない町並みを歩いた。
政庁へ続く道は、市場の喧騒とはまた違う、張りつめて整然とした空気に満ちている。
働けるかどうかは、まだ分からない。
久しぶりの緊張は、不思議と嫌なものではなかった。
会計処の責任者は、痩せた中年の男だった。
ハンスの紹介状に目を通すと、無言で一枚の紙を差し出す。
「身上書だ。書ける範囲でいい」
氏名、出身、経歴、推薦人。
リーゼは筆を止めた。
出身地の欄に、国名は書けない。
少し考えて、「北方」とだけ記した。
経歴は「元帳簿係」。
嘘ではない、と自分に言い聞かせる。
推薦人の欄には、ハンスの名を書いた。
男はそれを一瞥し、棚から古い帳面を一冊取り出した。
「試しに、これを見てくれ。誤りがあれば直せ。時間は半刻だ」
リーゼは机に向かい、頁をめくった。
四半刻もかからなかった。
誤りは三か所。
桁の取り違えがひとつ、転記漏れがひとつ、数年前の改定を反映していない古い換算率がひとつ。
男は確認し、しばらく黙ってから、短く言った。
「……臨時雇いで、明日から来い」
☆
翌日から、リーゼは公国の会計処で働き始めた。
案内された執務室は、王城の一室とは比べ物にならないほど手狭で、机も年季の入ったものばかりだった。
並ぶ帳面の数だけは、王城と変わらない。
数字と向き合う場所は、どこでも同じなのかもしれない。
そう思うと、肩の力が抜けた。
「新入りかい。まあ、せいぜい邪魔にならんようにな」
隣の机の初老の役人が、ぶっきらぼうに言った。
名をヨーゼフという。
値踏みするような一瞥のあとは、関心を失ったように自分の仕事へ戻った。
最初の数日は、簡単な計算や書類整理など、下働きに近い仕事ばかりだった。
同僚たちの反応も、好意的とは言えない。
「どうせ臨時雇いだろう。しばらくすりゃいなくなる」
聞こえよがしの囁きも耳に届いた。
リーゼは反応せず、黙々と仕事をこなした。
感情を波立たせる暇があれば、その分の集中を数字に向けたほうがいい。
長年、王城で培った処世術だった。
誰も気づかなかった帳簿の些細な矛盾を、リーゼだけが淡々と拾い上げた。
照合の速さ。
誤字脱字ひとつ見逃さない几帳面さ。
聞かれてもいないのに過不足なく仕上げる報告書。
細部の積み重ねが、少しずつ周囲の目を変えていった。
昼の鐘が鳴っても席を立たず、数字に没頭していることもしばしばだった。
ヨーゼフも、最初は素っ気なかったが、仕事ぶりを間近で見るうちに態度を変えていった。
ある日、リーゼの提出した書類の束を横目で見て、ぼそりと言った。
「……お前さんの書いた書類は、見直す手間がねぇな」
皮肉屋なりの精一杯の賛辞だった。
リーゼは軽く一礼するだけで応えたが、腹の底が温まるような充足感があった。
ここでは、成果がちゃんと成果として積み上がっていく。
当たり前のはずなのに、久しく忘れていた感覚だった。
夜、宿に戻ってからも、その日の仕事の反芻をやめられなかった。
今日はどの帳簿に矛盾があったか、明日はどの資料を確認すべきか。
考えているうちに眠りに落ちる自分に、カタリナは呆れつつ、どこか嬉しそうだった。
「ここでは、ちゃんと寝てくださいね。倒れられたら、また私が困るんですから」
「……分かっています」
そう答える口元には、隠しきれない充実感が滲んでいた。
「リーゼ様、なんだか王城にいた頃より顔色がいいですよ」
言われて、リーゼは自分の頬に触れた。
目の下の隈も、以前よりは薄くなっている気がする。
同じように夜遅くまで数字と向き合っていても、その質はまるで違う。
ここでの疲れには、報われる見込みがあった。
☆
働き始めて三週目に入ったある日、月末の集計作業で、リーゼは長年未解決の小さな不一致に行き当たった。
「またこれか……毎年この時期になると、なぜか帳尻が合わなくなる」
同僚のひとりが諦め混じりに零すのを、リーゼは聞き逃さなかった。
「毎年、ですか」
「ああ。俺が来る前からそうだったらしい。原因は誰も突き止められなくて、無理やり帳尻を合わせて終わらせるのが恒例になっちまってる」
何かが引っかかった。
単発の誤りではなく、毎年繰り返されるなら、構造的な原因が潜んでいるはずだ。
夜を徹して過去の記録を洗い、数年分の帳簿を突き合わせていく。
搬入と搬出の時期のずれ、記録を付ける役人の交代時期、季節ごとの取引の偏り。
一つひとつを丹念に照らし合わせるうちに、ある一点に行き当たった。
特定の時期にだけ、記録の付け方の基準がわずかに違っている。
誰かが意図的に誤魔化しているわけではない。
引き継ぎのたびに、基準そのものが少しずつ歪んで伝わっていたのだ。
原因と修正案をまとめた報告書を、リーゼは会計処の責任者に提出した。
「これは……」
責任者は目を通しながら、驚きを隠せない様子で唸った。
何度も頁をめくり返し、リーゼと報告書を交互に見比べる。
「毎年、頭を悩ませてきた件だぞ。働き始めて三週間のお前が、これを?」
「たまたま目についただけです」
控えめに答えたが、責任者は納得しかねる様子で首を振った。
「これは上に上げるべき内容だな」
リーゼの緊張が高まる。
誰かに評価されるための仕事ではなかったはずなのに、報告書が上へ渡ると聞いた瞬間、期待していいのか分からないまま、ささやかな高揚を抑えられなかった。
「上」がどこを指すのか、このときのリーゼにはまだ分からなかった。
その日の午後、報告書の写しは会計処で回し読みされたらしい。
書類を返しに廊下へ出ると、給湯場の陰から同僚たちの潜めた声が漏れ聞こえた。
「この報告書、誰が作った?妙に正確だ」
「あの新入りだろう。ヨーゼフの隣の」
「臨時だぞ。そんな腕があるものか」
リーゼは足を止めなかった。
聞こえなかったふりで書類を抱え直し、通り過ぎる。
ただ、背中に集まる視線の温度が昨日までと違っていることは、分かった。
数日後、会計処の廊下で、同僚のひとりが声を潜めて教えてくれた。
「聞いたか?お前の書いた例の報告書、フェリクス様のところまで回ったらしいぞ」
「フェリクス様……ですか」
聞き覚えのない名だった。
「公国の内政を統括なさっている御方だよ。あの方の目に留まったってことは、悪い話じゃねえと思うがな」
そう言い残し、同僚は足早に去った。
ヨーゼフも隣の机から興味深げにこちらを見ていたが、何も言わずに視線を戻した。
残されたリーゼは、廊下の向こうを見つめた。
この数週間、自分なりに積み上げてきたものが、思いがけない形で誰かの目に留まった。
それ自体は、悪くない兆しのはずだった。
それでも、名前も顔も知らない相手に見られているという事実に、ひりつく緊張が疼く。
廊下の向こうから、こちらをじっと見ている視線がある。
そんな気配だけを、微かに感じていた。




