第七話「見知らぬ町の」
車輪の音が石畳から土の道へと変わった頃、リーゼは自分がずいぶん長く目を閉じていたことに気づいた。
国境を越えて二日。
窓の外には、これまで見てきたどの景色とも違う、雑然とした活気が広がっていた。
荷馬車が土埃を巻き上げて行き交い、物売りの声が重なり合う。
アルダーシュ公国の、とある宿場町。
馬車が最初に停まった場所だった。
「着きましたよ」
カタリナに促され、馬車を降りる。
踏み出した途端、市場特有の匂いが鼻先を掠めた。
土と汗、焼かれる肉、干した香草。
ローゼンヴァルトの王城では決して嗅ぐことのなかった、生活の匂いだった。
荷を担いだ商人たちが、遠慮なく二人の脇を通り過ぎていく。
誰もリーゼの事を気に留めない。
それがこれほど心を軽くするとは思わなかった。
行き交う人々の装いは、王城で見慣れたものとまるで違った。
飾り気のない実用一辺倒の服、日に焼けた肌、大きな声で値切る女たち。
新鮮で、同時に少し恐ろしくもある。
ここには、自分を守る肩書きも、頭を下げる従者もいない。
ただの名もない一人として、この町の空気に混ざっていかなければならない。
資源には恵まれない国だと聞いていたが、道行く人々の顔つきには、飾らない実直さがあった。
値切りの声にも悪意めいたものはない。
その分、互いに助け合って生きているのかもしれない。
そんな印象を、リーゼは早くも抱き始めていた。
「これからは、何とお呼びすれば?」
カタリナが声を落として尋ねた。
ここでは「王妃様」という呼び名は使えない。
「……リーゼで構いません。ただのリーゼで」
「畏まりました、リーゼ様――いえ、リーゼさん、ですね。慣れませんね、こういうの」
苦笑まじりの言葉に、リーゼも口の端をほころばせた。
「うっかりでも、様付けはやめてください。目立ちます」
「長年の癖ってやつです。努力はします」
言いながら、口調はどこか楽しげだった。
長年の主従関係がこんな形で崩れていくのを、面白がっているのかもしれない。
肩書きを手放す不安より先に、もう誰にも身構えなくていいのかもしれない、という奇妙な解放感が、微かによぎった。
とはいえ、路銀には限りがある。
悠長にはしていられない。
王妃の顔を知る者は、国内ですら数えるほどだった。
まして国境の向こうで、自分の顔を知る者はまずいないだろう。
そんな確信めいた推測はあった。
☆
二人はまず宿を確保した。
案内された部屋は、王城の私室とは比べ物にならないほど質素で、寝台は小さく、壁には染みが浮いている。
粗末だが清潔だった。
リーゼは不思議と嫌な気持ちにならなかった。
誰かに与えられた場所ではなく、自分で選び、自分で得た場所。
それだけで、狭さも古さも気にならない。
「思ったより悪くないですね」
荷を下ろしながら、カタリナも同じことを呟いた。
彼女は宿の女将に掛け合い、朝晩の給仕と皿洗いを手伝う代わりに、宿代を少し安くしてもらう話をまとめてきたところだった。
「私は私で稼ぎますから。リーゼさんは、リーゼさんの働き口を探してください」
当たり前のように言う。
リーゼは小さく頭を下げた。
次は働き口だった。
持ってきた路銀は、いつまでも保つものではない。
「働き口、働き口……」
カタリナが呟きながら、通りの看板を一つずつ見て回る。
リーゼも黙って歩きながら、目に映る店先を無意識に観察していた。
この店は繁盛している。
この店は帳簿の付け方が雑らしい。
そんなことばかりが頭を占めてしまう。
洋品店の店先に「人手求む」の張り紙を見つけ、思い切って声をかけた。
応対に出た恰幅のいい女将は、リーゼの手を一瞥して眉をひそめた。
「悪いけど、やって欲しいのは力仕事なんだよ。その手じゃ、ペンは握れても荷は担げないだろう」
やんわりと、しかし明確に断られた。
リーゼは何も言い返せず、一礼して店を後にした。
「気にすることないですよ。次、行きましょう」
カタリナが肩を叩いてくれるが、ちくりとした痛みが残った。
「……情けないですね。数字のことなら、誰にも負けない自信があったのに」
「力仕事の店で数字の話をしても仕方ないですよ。場所が合わなかっただけです」
頷いてみせた。
分かってはいても、こうして正面から値踏みされ、あっさり断られる経験は、これまでほとんどなかった。
王城では、少なくとも表向き、面と向かって拒絶する者はいなかった。
今の自分には、王妃の肩書きも、公爵家の後ろ盾もない。
この手と頭が何かの役に立つかどうか。
それだけで測られる世界に放り出されたのだと、改めて実感する。
「あ、ここ!人を探しているみたいですよ」
カタリナの指す先に、古びた雑貨と乾物の店があった。
軒先の木札に、拙い字で「人手求む」とある。
近づくと、店主らしい老人が帳面を前に唸っていた。
乾物の匂いが染みついた店内には、雑多な瓶や麻袋が所狭しと並んでいる。
決して裕福な商いではない。
それでも棚の並べ方には妙に几帳面なところがあり、商売への実直さが滲んでいた。
「勘定が合わねぇ……どこで間違えたもんだか」
白髪まじりの、日に焼けた顔。
節くれ立った手で帳面をめくる姿は、飾り気のない叩き上げの商人のものだった。
その手元の数字を、リーゼはつい覗き込んでしまう。
意識するより先に、目が数字を追っている。
肩書きを失っても、染みついた癖は消えていなかった。
「あの、少しよろしいでしょうか」
気づけば声をかけていた。
老人が顔を上げ、胡散臭そうに見る。
「なんだい、嬢ちゃん」
「三行目の仕入れの数と、下の合計が合っていません。ここで一度、桁を書き間違えているのではないでしょうか」
老人は虚を突かれた顔で、慌てて帳面を確かめた。
指先で数字を辿り、しばらくして、本当にその通りだったことに目を丸くする。
「……嬢ちゃん、ただ者じゃねえな。どこで習った、そんな芸当」
「……少し、帳簿仕事をしていただけです」
言葉を濁して答えてから、リーゼは我に返った。
初対面の人の帳面を、断りもなく覗き込んだのだ。
「失礼いたしました。勝手に拝見するなど、無作法でした」
「まあいい」
老人はしばし値踏みするようにリーゼを見つめ、やがて肩をすくめた。
「なんか訳ありなんだろうが、そんなことはどうでもいい。たいしたもんだ」
あっさり言い切られて、リーゼは言葉を失った。
素性を尋ねられなかったことに、緊張が緩む。
理由も肩書きも問わず、ただ腕だけを見て認めてくれた。
王城では一度もなかったことが、こんな市井の片隅であっさり起きた。
戸惑いと安堵が、同時に押し寄せた。
老人は帳面を差し出した。
「他にも、どこか間違ってねえか」
「……お見せいただけるなら」
丁寧にめくっていく。
数分で、あと二か所、細かな計算違いを見つけた。
老人はそのたびに、驚きと感心の混じった声を上げる。
「こいつは驚いた。うちの帳面は、去年からずっと歪んでたのか」
「日々の忙しさの中で、少しずつ誤差が積み重なることはよくあります。誰の落ち度でもありません」
老人は意外そうな顔をして、それから豪快に笑った。
「妙なところで優しいこと言うじゃねえか」
傍らのカタリナが、目を輝かせて口を挟む。
「うちのリーゼ様――リーゼさんは、本当にすごいんです。もっと褒めてあげてください」
「カタリナ」
窘めるように名を呼ぶと、悪びれもせず肩をすくめた。
老人が愉快そうに笑う。
「気の合う連れがいるじゃねえか。俺はハンス。この店の主だ」
「リーゼと申します。こちらは連れのカタリナです」
名乗り合うと、ハンスは値踏みする目をやめ、温かみのある視線を向けた。
「見ねえ顔だな。この町に来たばかりか」
「今日、着いたばかりです」
「そうかい。ならなおさら、これも何かの縁だ」
ハンスは帳面をぱたんと閉じ、顎髭をさすりながら考える様子を見せた。
「そういや、公国の会計処がちょうど臨時の人手を探してるって話を聞いたな……」
リーゼは息を止めた。
カタリナも隣で目を見開く。
「どうだ、嬢ちゃん。行ってみる気は――」
ハンスの言葉は、そこで途切れた。
市場の向こうから、鐘の音が響いてくる。
日暮れ前の、店じまいを告げる鐘だった。
周囲の商人たちが一斉に手を止め、店じまいの支度を始める。
ハンスもそちらへ目をやり、小さく舌を鳴らした。
「もうこんな時間か。……で、どうなんだ」




