第六話「涙を見せるのは今だけ」
扉の先に立っていたのは、旅支度を整えたカタリナだった。
肩から大きな鞄を掛け、動きやすさを重視した簡素な旅装。
すでに話は耳に入っていたらしく、迷いのない顔で告げる。
「荷物まとめておきました。お供します」
あまりに当然のような言い方に、リーゼは一瞬言葉に詰まった。
「……いつの間に」
「ここ数日で、少しずつ。リーゼ様がゲオルク様のお部屋に向かわれた頃から、こうなる気がしてましたので。昨夜、便箋を前に座っていらっしゃるのを見て、確信しました」
悪びれもせず言ってのけるカタリナに、リーゼは断ろうとした。
「一人でも行けます」
「存じてます。それでもお供します」
笑って、荷物を担ぎ直す。
有無を言わさぬ態度だった。
断ろうとした自分が馬鹿らしくなるほどに。
「……行き先も、まだ何も決まっていません。いいのですか」
「決まってなくて結構です。むしろ決まってるほうが退屈ですし」
あっけらかんとした答えに、リーゼは思わず小さく息を漏らした。
笑ったのか呆れたのか、自分でも分からなかった。
「――それに」
カタリナが少し声を落とす。
「実家が困ってた時、リーゼ様に目をかけていただいたご恩、忘れたことなんてありません。今度は私が返す番です」
リーゼは何も返せなかった。
恩を返されるようなことをした覚えはない。
当たり前のことをしただけのつもりだった。
それでも、目の前でまっすぐに自分を見てくれる人がいる。
その事実に、ぽっと灯りがともった。
「……あなたの荷物は、それだけで足りるのですか」
「元より大したものは持ってませんから。身ひとつで嫁に行けと言われても平気なくらいです」
冗談めかした言い方に、リーゼは頬をゆるめた。
こんな時にまで軽口を叩ける逞しさに、少しだけ救われた。
☆
その夜、リーゼは自室で荷をまとめた。
私物は驚くほど少なかった。
着替えを数着と、身の回りの品を少し。
小さな鞄ひとつで事足りた。
長年暮らしたはずの城に、自分は何も残さずに生きてきたのかもしれない。
宝飾品は持たずに出ることにした。
衣装箱の奥には、婚礼の折に贈られた首飾りや指輪が、一度も身につけられないまま仕舞われている。
あれは王妃という肩書きに与えられたものであって、自分に贈られたものではない。
それに、持ち出せば、離縁を引き換えにしたと言われかねない。
蓋を静かに閉じた。
路銀は、自分の手当てから貯めたわずかな分だけだ。
決して十分とは言えなかった。
亡き母の形見の帳簿帳だけは、迷わず手荷物に入れた。
色褪せた革を指先で確かめる。
これだけは、どこへ行くにも手放すつもりはなかった。
☆
翌朝、城の裏門には、薄い朝もやが漂っていた。
「これは私が持ちますよ」
カタリナが伸ばした手を、リーゼはやんわり制した。
「いいえ、これは自分で」
不思議そうな顔をしたが、カタリナは詮索せず、自分の鞄を担ぎ直した。
見送りは、ほとんどなかった。
すれ違う使用人たちは気まずそうに目を逸らし、声をかける者はいない。
若い衛兵だけが、二人に気づいて戸惑ったように敬礼しかけたが、誰に確認すればいいのか分からない顔で、中途半端に頭を下げた。
実家の公爵家にも、昨日のうちに通知の使いが出たと聞いている。
返事を待たずに発つことにした。
待っても、来ない気がした。
(役に立つ子でいる間だけ、価値があった)
その事実が、ここでも静かに繰り返されるだけだ。
悲しむには、もう慣れすぎていた。
回廊の途中で、ゲオルクとすれ違った。
何か言いかけて、口を開いたまま、言葉を継げずにいる。
眼鏡の奥に複雑な色が浮かんでいた。
「リーゼ様……」
名を呼んだきり、続きがない。
しばらくして、ようやく絞り出した。
「……道中、お気をつけて」
リーゼは黙って一礼した。
互いに、これ以上言葉を重ねても意味がないと分かっていた。
すれ違いざま、ゲオルクの視線がリーゼの手の古い帳簿帳へ一瞬向けられた気がしたが、気づかないふりをして歩き去った。
寂しさより先に、肩の力が抜けるほどの静けさが占めた。
これだけの年月を過ごして、残るものはこんなにも少ない。
裏門へ向かう前に、リーゼは少しだけ遠回りをした。
大広間の前の回廊を通る。
扉は固く閉ざされ、あれほど賑やかだった夜会の喧騒は嘘のように静まり返っていた。
あの壁際に立っていた自分を、ふと思い出す。
誰にも気づかれず、声もかけられず、ただ立ち尽くしていた夜。
もう二度と、あの場所に戻ることはない。
そう思っても、不思議と惜しむ気持ちは湧かなかった。
☆
カタリナが手配した馬車に乗り込み、裏門を抜ける瞬間、リーゼは一度だけ窓の外を振り返った。
見慣れた尖塔が、朝もやの向こうへ遠ざかっていく。
何年も見上げてきた輪郭を、無言で見つめ続けた。
隣のカタリナも、何も言わず同じ方向を見ていた。
馬車は国境へ向かう街道に入った。
ローゼンヴァルトの城下町が、窓の外を流れていく。
市場の喧騒、行き交う人々、朝の光を浴びる屋根の連なり。
すべてがもう自分と関係のない風景になっていくのを、リーゼはどこか他人事のように眺めていた。
脳裏に、断片的な日々が浮かんでは消える。
功績を奪われた夜会。
深夜、蝋燭の下で数字と向き合った時間。
熱に浮かされながら公務に出た朝。
どの記憶も、色褪せた絵のように遠い。
城が完全に見えなくなった頃、気丈に振る舞っていた肩が、ふいに震え出した。
予期していなかった。
もう涙などとうに涸れたと思っていたのに。
堰を切ったように溢れ出す。
声を殺した嗚咽だった。
(涙を見せるのは、今だけ。次の町に着いたら、顔を上げる)
そう決めた。
だから今は、泣いていい。
カタリナは何も言わなかった。
そっと隣に座り直し、リーゼの手にハンカチを握らせる。
それで十分だった。
声を殺していても、肩の震えは隠せない。
こんなふうに誰かの前で弱さを晒すのは、生まれて初めてだった。
恥ずかしいとも情けないとも思わない。
涙が涸れるまで、このまま泣いていたかった。
どれくらいそうしていただろう。
車輪の音だけが規則正しく響いていた。
時折、カタリナの手がそっと背中を撫でる。
「……リーゼ様」
やがて、カタリナがぽつりと言った。
窓の外へ顔を向けたまま、リーゼの方は見ない。
「はい」
「これからは私が見てますから」
ぶっきらぼうで、不器用な言い方だった。
言ってしまってから、照れ隠しのように鼻を鳴らして付け加える。
「帳簿は見られませんけど。ちゃんと食べてるかとか、寝てるかとか。そういうのは私が」
いつかの夜、蝋燭の下で「見てなくてもいい」と言い切った自分の声が、耳の奥に蘇った。
あの時は、それが本心だと思っていた。
今は、その言葉の虚しさをはっきり知っている。
返事の代わりに、握らされたハンカチをぎゅっと握りしめた。
「……はい」
声にできたのは、それだけだった。
やがて涙を拭い、深く息を吐いて、窓の外の見知らぬ景色へ視線を移した。
田畑が後方へ流れていく。
見たこともない村の屋根、名前も知らない川。
自分がどこへ向かうのか、まだ何も決まっていない。
人生のすべてを手放して、それでも前へ進もうとしている自分に、期待していいのか、不安に思うべきなのか、判断すらつかなかった。
「……さて」
そう呟いて、口を噤んだ。
隣のカタリナが、ふと明るい声で言った。
「新しい土地では何をなさるおつもりですか。まさかまた帳簿仕事なんてことは」
「……他にできることもありませんから」
「まあ、それはそうかもしれませんけど。せめて今度は、ちゃんと誰かに感謝される仕事だといいですね」
その一言に、リーゼは言葉を探した。
誰かに感謝される仕事。
そんなことを望んでもいいのだろうか。
戸惑いがよぎる。
それでも、悪い響きではなかった。
「……そう、なれたらいいですね」
「あら、珍しく素直」
軽口まじりのやり取りに、リーゼの口元がほんのわずか緩む。
これから先は何も分からなくても、隣に軽口を叩いてくれる相手がいる。
それだけで、少しだけ前を向く力が湧いてくる気がした。
車輪の音が、規則正しく響き続けていた。
城壁の影は、もう、どこにも見えなかった。




