第五話「あっけない成立」
翌朝、リーゼは正式な拝謁を願い出た。
支度の間、カタリナは何も聞かなかった。
ただ、いつもより念入りに髪を結い直し、リーゼの背筋を正すように、そっと肩に手を添えた。
一房ずつ丁寧にすくい上げていく指先は、これが最後の身支度になると分かっているかのようだった。
鏡の中の自分と、リーゼはしばらく見つめ合った。
決意してから、もう何日も経っている。
それでも、この日を迎えると指先がわずかに冷たくなった。
「緊張、なさってます?」
鏡越しに、カタリナが静かに尋ねる。
「……多少は」
「らしくないですね。何日も前から覚悟を決めていらしたのに」
「覚悟と緊張は、別のものです」
カタリナは吐息まじりに笑った。
「それもそうですね」
髪を整え終えると、鏡越しに目を合わせ、深く頷いてみせる。
何も言わないその頷きが、ありがたかった。
☆
謁見の間へ向かう回廊は、いつもと変わらず静かだった。
窓から差し込む朝の光が、床に長い影を落としている。
リーゼは懐に昨夜認めた書状を抱き、一歩ずつ進んだ。
この回廊を、何度歩いただろう。
嫁いできたばかりの頃は、右も左も分からず、長い廊下を歩くだけで足がすくんだ。
いつからかその緊張は消え、息をするのと同じくらい当たり前になっていた。
今日を最後にこの道を歩くこともなくなる。
そう思うと、不思議な感慨がよぎった。
怖くないと言えば嘘になる。
でも、もう後戻りはしない。
リーゼは謁見の間の扉をくぐった。
中では、エーリヒが玉座に近い椅子に腰掛け、書類に目を通していた。
傍らにはいつものようにミリアベルが控えている。
壁際には数人の文官が並び、その中に白髪まじりのゲオルクの姿もあった。
リーゼを見て、エーリヒは片眉を上げた。
「珍しいな。何の用だ」
警戒の色すらない。
リーゼがここに立つことなど取るに足らない、といういつもの無関心な口ぶりだった。
リーゼは数歩進み出て、書状を両手で差し出した。
「お目通しいただきたく存じます」
エーリヒは訝しげに受け取り、封を切る。
文面は簡潔で、感情を排していた。
王妃の位をお返しし、離縁をお許しいただきたい。
それだけが記されている。
読み進めるうちに、彼の表情がみるみる強張った。
目を二度、三度と往復させ、文字の意味を疑うような顔をする。
「……これは、冗談か何かか」
「本気でございます」
皮肉の響きはなかった。
ただ、凪いだ諦めだけがあった。
壁際のゲオルクの顔が、わずかに強張る。
この書状の意味を、彼だけが正確に理解している。
それでもこの場で口を挟む権利はない、とでもいうように、唇を引き結んで視線を伏せていた。
リーゼは視界の端でそれを捉えたが、何も言わず、エーリヒへ目を戻した。
エーリヒは鼻で笑い、書状を軽く振った。
「本気か?お前が、この俺に離縁を申し出ると?」
呆れと苛立ちが半々の声だった。
傍らのミリアベルが、驚いたふりで口元に手を当てる。
その目の奥には、隠しきれない喜色があった。
「今まで、何の不自由もさせてこなかったはずだ。それとも、何か不満でもあったか」
本気で理解できない、という苛立ちが滲んでいた。
何の不自由もさせていない。
その言葉に、リーゼは内心で笑いを堪える。
彼にとって不自由とは、衣食住の不足のことだけなのだろう。
認められないこと、見てもらえないことの飢えは、彼の物差しには最初から存在しない。
「お前は、この城で何をしていたつもりだ」
初めて、声に棘が混じった。
文官の何人かが思わず顔を見合わせる。
中にはリーゼが手掛けてきた仕事の一端を知る者もいたが、口にする勇気を持つ者はいなかった。
「……何もしていないように見えたのなら。それで、構いません」
声は平らだった。
反論も言い訳も、するつもりはなかった。
事実を述べただけだ。
その静けさが、かえってエーリヒの神経を逆撫でしたらしい。
指先で書状の端を苛立たしげに叩き、しばらく考える素振りを見せる。
文官たちは固唾を呑んで見守っていた。
結局、面倒事を早く片付けたいという本音が勝ったのだろう。
エーリヒは書状を卓に放り出し、興味を失った声で告げた。
「――好きにしろ。お前がいなくても、この国は回る」
軽い一言だった。
リーゼはそれをゆっくり受け止めた。
安堵より先に、拍子抜けするほどの虚しさが満ちていく。
自分は最初から「いなくてもいい存在」だったのか。
その確認作業にも似た痛みだった。
幾多の夜を費やして守ってきた国の帳尻。
誰にも知られないまま処理してきた不正の芽。
飢饉の兆候をいち早く察して手配した穀物。
北部の村々がこの冬を越せるなら、それは間違いなくあの夜更けの帳簿仕事のおかげだった。
それをここで語っても、誰も信じはしないだろう。
記録に残る指示書は、どれも宰相の名代という体裁で書いてある。
自分の功績として示せる形では、最初から残していない。
すべてが人目につかない場所で完結するよう、自分自身が仕組んできたのだ。
(そう、ですか)
声には出さず、深く一礼した。
傍らのミリアベルは、これで邪魔者が消えるとでも言うように、口元に薄く笑みを浮かべている。
それを見ても、湧くのは怒りではなく、静かな諦めだけだった。
裁可の書類が整えられ、署名がなされていく。
エーリヒの筆は迷いなく紙面を滑った。
些細な事務手続きを片付けるような手つきだった。
「これで、よろしいですね」
立ち会う文官のひとりが、ためらいがちに確認する。
「公爵家へは、追って書面にて通知いたします」
「ああ、構わん。さっさと済ませろ」
王妃の婚姻の解消は、国王の裁可ひとつで成り立つ。
実家の同意は要らず、通知が行われるだけだ。
リーゼもそれを知った上で、この書状を書いていた。
乾いたインクが、書状の上で定着していく。
それを見つめながら、リーゼは自分の中で何かが確かに終わるのを感じた。
結婚してからの日々。
夜ごと帳簿と向き合った時間。
報われることのなかった仕事の数々。
それらすべてが、この一枚の紙で静かに幕を下ろされる。
祝われも労われもせず、ただ事務的な手続きとして。
それがこれまでの自分の扱われ方を、何よりも雄弁に物語っていた。
署名を終えたエーリヒは、書状をぞんざいに文官へ突き返した。
「もういいだろう。下がれ」
もはやリーゼへの関心の欠片もない声だった。
退屈な陳情をひとつ片付けただけ、という態度。
文官たちの間に低いざわめきが広がる。
誰もが、何が起きたのかをまだ飲み込めずにいた。
ただひとり、ゲオルクだけが、視線を上げないまま微動だにせず立ち尽くしていた。
リーゼは一礼し、踵を返した。
扉へ歩く背に、囁き声が届く。
「これで、せいせいしましたわね」
ミリアベルの声だった。
甘えるようで、どこか勝ち誇っている。
エーリヒが何か答えたようだが、もう耳に入らなかった。
一歩ごとに、声は遠ざかっていく。
謁見の間を出るまでのほんの十数歩が、これまでの人生を歩き通すよりも長く感じられた。
誰も引き止めなかった。
当然だ。
誰も、自分を必要となどしていなかったのだから。
ふと、嫁いできた日が脳裏をよぎった。
あの日も、この同じ扉をくぐった。
何も知らない十九の娘が、期待と不安を半分ずつ抱えて。
あれから六年になる。
あの頃の自分に今の景色を見せたら、どんな顔をするだろう。
扉に手をかけたところで、足が止まった。
――本当に、これでよかったのだろうか。
自問しかけて、すぐに打ち消した。
よかったも悪いも、答えはもう出している。
扉の向こうから、庭を渡る小鳥の声がかすかに響いた。
いつもと変わらない穏やかな朝だった。
もう自分には関係のない、城の朝だった。
リーゼは短く息を吐き、扉を押し開けた。
――そこに、見慣れた顔がひとつ、こちらを覗き込んでいた。




