第四話「静かな決意」
壁の陰で息を詰めていたリーゼの耳に、カタリナの声がはっきり届いた。
「お心遣いはご無用です。私は、リーゼ様以外にお仕えするつもりはございませんので」
片手を腰に当て、片眉をわずかに上げる。
カタリナがここぞという時に見せる仕草だった。
ミリアベルは一瞬鼻白んだが、すぐに余裕の笑みを取り繕った。
「あら、そう。まあいいわ。気が変わったら、いつでも声をかけてちょうだい」
優雅な足取りで去っていく。
その後ろ姿が見えなくなるまで、カタリナは腰に手を当てたまま睨みつけていた。
リーゼが声をかけようとして踏みとどまっているうちに、カタリナがふと振り返り、リーゼに気づいて肩をすくめる。
「聞いてました?はしたない話で失礼しました」
あっという間に、いつもの調子に戻る。
先ほどのやり取りなど大したことではない、という顔で。
「……ありがとう」
続く言葉は、喉につかえて出てこなかった。
得体の知れない不安が溶けていく。
自分にもまだ味方でいてくれる人がいる、という事実に、柄にもなく喉が熱くなった。
こんな些細なことで詰まるのは大袈裟だと分かっている。
それでも、誰かが自分のために何かを断ってくれた。
それがどれほど久しぶりのことだったか。
カタリナは何でもないことのように笑って、話題を変えた。
「それより、今日はもう休まれたほうがいいですよ。まだ本調子には見えません」
「……分かりました」
珍しく素直に頷くリーゼに、カタリナは少し驚いた顔をした。
ただ、そのあと口元が嬉しそうに緩んだことには、リーゼは気づかなかった。
☆
その日もいつもどおり公務をこなしたが、リーゼはどこか上の空だった。
書類に目を通しても、文字が頭を素通りしていく。
いつもなら一目で気づく誤字を、二度も見落としかけた。
「リーゼ様、これで四度目です。同じところをお読みになっています」
書記官が遠慮がちに指摘したとき、リーゼは自分でも驚くほど動揺した。
「……失礼しました。少し、考え事を」
書記官は怪訝な顔をしただけで、追及はしなかった。
夕刻、日課の報告を終えて自室へ戻る頃には、体の疲れよりも、沈んだ重さのほうが強くなっていた。
夜、ひとりの私室。
功績を奪われ続けたこと。
体を壊してまで守った国が、自分には冷たいこと。
それでも笑って耐えてきたこと。
積み重ねてきたものが、堰き止めていた縁を一つずつ削っていく。
蝋燭の灯りだけが部屋を淡く照らしていた。
いつもならすぐ帳面を開いて仕事へ逃げるところを、今夜はその気になれない。
椅子に座り、自分の手を見つめる。
指先には、長年ペンを握り続けた者のたこができていた。
こんな夜は、初めてではない。
数えるのをやめて、もう何年になるだろう。
今日はその最後の一滴にすぎなかった。
号泣はしない。
ただ、これまで感じないようにしてきたものを、初めて自分に許して感じてみる。
静かな時間だった。
誰かが見ていてくれたら、と思ったことは一度もない。
そう言い聞かせてきた。
でも本当は、ずっと見ていてほしかった。
その事実を認めた瞬間、何かがかすかな音を立てて崩れた。
涙は出なかった。
胸が空っぽになったような静けさだけが残った。
窓の外に月が浮かんでいる。
見上げながら、子供の頃を思い出した。
役に立つ間だけ褒められた記憶。
何かを成し遂げるたびに向けられた笑顔と、何もしないでいる時の、ひどく静かな無関心。
あの頃から自分は、同じ場所に立ち止まったままなのかもしれない。
夫となったエーリヒも、結局は同じだった。
成果を出している間だけ、都合よく扱われる。
ただそこにいるだけの自分には、誰も価値を見出さない。
分かっていたはずなのに、いつか変わるかもしれないと期待していた自分が、どこかにいた。
(もう、期待するのはやめよう)
その一言が、目立たぬまま、しかし確かに根を下ろした。
☆
それから数日、リーゼは公務をこなしながら、離縁の手順と、行き先のことを静かに考え続けた。
迷いは日ごとに薄れていった。
三日目、視察から戻って間もない宰相ゲオルクの執務室を訪ねた。
書類の山に囲まれた部屋には、紙とインクの匂いが染みついている。
白髪まじりのゲオルクは、来訪を告げられて顔を上げた。
温厚な顔の奥に、隠しきれない疲れが滲んでいる。
リーゼの姿に少し驚きながらも、すぐに椅子を勧めた。
長年この国の内政を裏で支えてきた男の顔だった。
「珍しいですな、リーゼ様がこちらへ直接いらっしゃるとは」
机の隅に、見覚えのある紙の端が覗いていた。
あの夜の指示書の写しだ。
どちらもそれには触れなかった。
腰を下ろしたリーゼは、珍しく自分の内を明かした。
「このままでは、私は……多分、長くは持ちません」
「離縁」という言葉は使わなかった。
それでも意志は透けて見える言い方だった。
ゲオルクは息を呑み、痛ましげにリーゼを見た。
しばらく黙ったあと、絞り出すように言う。
「陛下も、いずれお気づきになるはずです。今しばらく、辛抱を……」
歯切れの悪い言葉だった。
窮状を理解しながら、自分の立場を守ることを優先してしまう。
そんな迷いが声に滲んでいた。
「宰相様は、私がこの城で何をしてきたか、ご存知のはずです」
責める響きはなかった。
事実を確かめるだけの静けさだった。
「……存じております。誰よりも」
ゲオルクは目を伏せたまま答えた。
その先は続かない。
「辛抱、ですか」
短く繰り返し、リーゼはそれ以上何も言わなかった。
眼鏡の奥の目に、後ろめたさのようなものが浮かぶ。
しかしゲオルクがそれを言葉にすることは、最後までなかった。
失望はするが、驚きはしない。
この人も結局は、自分の身がいちばん大事なのだ。
そう理解しながら、彼を責める気になれない自分にも、リーゼは気づいていた。
「お時間をいただき、ありがとうございました」
「……いえ。何もして差し上げられず、申し訳ない」
声に、隠しきれない苦さが滲んでいた。
廊下を歩きながら、リーゼは不思議と心が凪いでいくのを感じた。
落胆はあったが、確かめるべきことは確かめたという区切りのほうが大きい。
「……誰かが助けてくれるのを待つのは、もうやめます」
誰にともなく零した声が、人気のない廊下に吸われて消えた。
あとは、自分で決めるしかない。
☆
その夜遅く、私室。
リーゼは白紙の便箋を前に、長く座っていた。
蝋燭の炎がかすかに揺れている。
何を書くかは、もう迷っていない。
ただ、それを言葉にする重さを、静かに噛み締めていた。
これを書けば、後戻りはできない。
王妃という肩書きも、この城で築いたわずかな居場所も、すべて手放すことになる。
恐ろしくないと言えば嘘になる。
けれど、このまま留まれば、自分という人間がすり減って消える。
その予感のほうが、後戻りの恐怖より確かだった。
机の端には、母の形見の帳簿帳がある。
数字だけを綴ってきた帳面とは違う、まったく別の意味を持つ言葉を、これから白紙に刻もうとしている。
(母だったら、この選択をどう思うだろう)
役に立つことだけを望んだ母なら、諫めたかもしれない。
それでも、役に立つためだけに生きるのは、もう終わりにしたかった。
リーゼはペンを取り、インクに浸した。
誰にも相談せず、自分ひとりで決めたこと。
それだけが、彼女自身の覚悟だった。
ペン先が、白紙に触れた。




