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私がいなくても回る国だそうなので、王妃の座をお返しします。復縁?お断りです~有能すぎた元王妃は隣国で大切にされています~  作者: 猫燕


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第三話「仮病者と呼ばれて」

署名を終えたところまでは覚えている。

震える指でペンを置き、機に突っ伏した。

そこから先の記憶は、白く霞んで途切れていた。


瞼を開けると、天蓋の布地がぼやけて見えた。

起き上がろうとして、体が思うように動かないことに気づく。

頭の芯が重く、耳の奥で自分の脈がやけに大きく響いていた。

窓から差す光は、もう午後のものだった。


「――リーゼ様っ」


入ってきたカタリナが、様子に気づいて血相を変え、駆け寄ってくる。

額に触れた手のひらの冷たさで、リーゼは自分の熱の高さを遅れて知った。


「昨夜あれだけ根を詰めたんですから、当然です。すぐに医師を呼びます」


返事も待たずに飛び出していく。

残されたリーゼは、霞む視界で天井を見上げた。


(今夜も、夜会がある)


収穫祭の季節で、この一週間は連夜の催しが組まれている。

休めば、また何か言われるだろう。

陰口が、耳の奥で先回りして聞こえるようだった。


それでも今回ばかりは、体が言うことを聞かない。

身を起こそうとするたび、視界がぐらりと揺れる。

やがて白髪まじりの年配の医師が呼ばれ、脈を取り、額に手を当て、喉を覗いた。

診察のあと、声を落として告げる。


「熱もありますが、根本は疲労でしょうな。ここしばらく、まともにお休みになっていないのでは」


リーゼは答えなかった。

図星で、返す言葉がなかった。

医師はそれ以上追及せず、控えるカタリナに向き直る。


「今日一日は、無理にでも寝かせておいてください。放っておけば長引きますぞ」

「承知しました」


力強く頷くカタリナを、リーゼは霞む視界の端で見ていた。

医師が退室すると、カタリナはいつになく強い口調で言った。


「今夜の夜会は休んでください。当然です」

「ですが……」

「陛下には私からお伝えします。それとも、倒れてまで出たいと仰るんですか」


珍しく譲らない。

反論する気力も、今日は残っていなかった。


「……休みます」


自分の口から出たその言葉に、リーゼ自身が一番驚いた。

強いられなければ、休むという選択肢すら久しく忘れていた。


「それでいいんです。今日ばかりは、大人しく寝ていてください」


濡らした布が額に載せられる。

その手つきは、いつもの軽口とは裏腹に、驚くほど丁寧だった。

カタリナが出ていったあとも、リーゼは天井を見つめていた。

体は休めているのに、頭では昨夜の指示書が引っかかっている。


あの署名で間に合うだろうか。

ゲオルクは、あの一文をどう受け取るだろうか。


(考えても、今は動けない)


そう言い聞かせても、指先は帳面を捲る形のまま、意味もなく布団の端を撫でていた。

目を閉じれば、数字の羅列が瞼の裏をちらつく。

仕事のない静かな時間が、リーゼにはどうにも落ち着かなかった。


☆


その夜、大広間ではいつもどおり夜会が開かれていた。


「王妃殿下は、今宵はいらっしゃらないのですか」


招待客のひとりが、何気なくエーリヒに尋ねる。

エーリヒは苦笑まじりに答えた。


「体調が優れないそうだ」


軽んじるような響きがあった。

心配の色は欠片もない。

隣のミリアベルがすかさず割って入る。


「リーゼロッテ様は、あまり人前がお得意ではいらっしゃらないから」


同情めかした言い方の端々に、「本当に具合が悪いのか」と疑わせる含みがある。

周囲にさざ波のような忍び笑いが広がった。


「まあ、それは……」

「以前も、たしかそのようなことが」


誰かの相槌が、次の誰かへと伝わり、少しずつ形を変えていく。


「この前の夜会でも、似たようなことが」

「社交がお得意でないのは存じておりましたが」

「陛下も、さぞご苦労でしょうねえ」


確かなことは、誰ひとり知らない。

噂は確かさなど必要とせず、独り歩きを始めた。

リーゼの知らないところで、その種は音もなく蒔かれていった。


☆


翌朝、政務報告を控えた私室。

熱はまだ完全には引いていなかったが、リーゼは身支度を進めていた。

カタリナは何度も止めようとした。


「今日くらい休んでもいいんじゃないですか。誰も咎めません」

「休みすぎれば、また何を言われるか分かりません。それに、昨日休んだ分、報告が溜まっているはずです」

「そういうところ、頑固なんですから」


呆れたようにため息をついたが、それ以上は止めなかった。

止めても聞かないことを、長年の付き合いで知っている。

まだ青白い頬に薄く化粧を施しながら、カタリナはぼそりと言った。


「せめて、無理はなさらないでくださいね」


リーゼは小さく頷いた。

足取りだけはいつもどおりを装って、政務報告の場である謁見の間へ向かう。

重臣たちが並ぶ中で、エーリヒが皮肉めかして言った。


「昨夜は仮病で夜会をサボったそうだな。王妃の務めより、自分の気分のほうが大事らしい」


ひそやかなざわめきが走る。

気まずそうに視線を伏せる者もいれば、口元を歪めて面白がる者もいた。

リーゼを庇う声は上がらない。

彼女は表情を変えず、深く腰を折った。


「……申し訳ございません」


言い訳は探さなかった。

反論しても何も変わらないことは、もう知っている。

それに、今の自分に言い争う気力が残っているかどうかも怪しかった。

その淡々とした態度に、ミリアベルが追い打ちをかけるように口を開く。


「まあ陛下、そんな言い方。お加減が悪かったのでしょう?かわいそうなリーゼロッテ様」


庇う言葉に聞こえて、その実「本当に悪かったのか」という含みを補強する話し方だった。

重臣たちの間に、気まずい沈黙と微かな失笑が混じる。

リーゼの静けさに、エーリヒはかえって苛立ったらしい。

手にしていた書類を卓へ叩きつけ、傍らの杯を乱暴に払い落とした。


硬い音を立てて杯が割れる。

咎める者はなく、皆いつものことだというように視線を逸らした。

給仕の少年が慌てて破片を拾い集める中、エーリヒはリーゼを一瞥し、何も言わず顔を背けた。


(私は、何のためにあの夜、無理をしたのだろう)


これまで黙って飲み込めたはずの屈辱が、今回は違う重さで刺さった。

虚しさが、初めてはっきりした輪郭を持つ。

誰にも見せるつもりのない、静かな痛みだった。

それでも表情は崩さず、深く一礼し、物音ひとつ立てずに場を辞した。


背を向けて扉へ向かう間際、視界の端でミリアベルが口元へ手を上げかけた。

その手が届く前の、ほんの一瞬。

唇の端が、確かに持ち上がっていた。

同情の言葉を並べた同じ口が、誰にも見えない角度で笑っていた。


☆


謁見の間を出て、廊下を歩く。

まだ本調子ではない体に、数歩の距離がいつもより重い。

壁に手をつきそうになるのを、辛うじて堪えた。


(こんなところで倒れるわけにはいかない)


窓から差す朝の光が、やけに眩しい。

廊下の角を曲がりかけたところで、リーゼは足を止めた。

角の向こう、窓辺の光の中に、見慣れた赤毛が見えたのだ。

カタリナが、誰かと話し込んでいる。


相手がミリアベルだと気づいたのは、甘やかな声が耳に届いてからだった。

リーゼは思わず壁の陰に身を寄せる。

ミリアベルは声を潜め、何か囁いていた。

金銭のやり取りを匂わせる、意味ありげな仕草だった。


「いい加減、見切りをつけたらどう?」


廊下の静けさに、柔らかな声が滑り込む。

その中に、確かな棘が仕込まれていた。


「悪いようにはしません。あなたのような有能な侍女なら、行き先はいくらでもありますもの」


カタリナの顔から、いつもの飄々とした色が消えた。

リーゼが踏み出すより先に、その唇が何かを言おうと小さく動いた。


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