第二話「誰も知らない仕事」
「北部の穀物庫の帳簿に、例年と合わない数字がございまして。担当の者たちでは原因が掴めず」
侍従は声を潜め、帳面を人目を避けるように抱え直した。
「本来、私が口を出す立場にないことは承知しております。ですが以前、目を通していただいたご恩がありまして。こんな夜分に、申し訳ございません」
「構いません。見せてください」
リーゼは言葉を遮って手を差し出した。
先ほどまでの凪いだ表情はもうなかった。
声の調子も目の据わり方も、別人のように切り替わっている。
侍従は少し驚いたが、すぐに帳面を渡した。
「担当の方々は、何と」
「原因は分からなくても、来月までに埋め合わせられる額だろうと。ですが私には、そうは思えず」
「その勘は、正しいかもしれません」
紙面に目を落とし、指先で数字を追う。
夜会の喧騒も、扇を持つ手の冷たさも、もう頭から消えていた。
数字と向き合っている間だけは、余計なことを考えずに済む。
それはリーゼにとって逃げ場であり、生きがいでもあった。
「詳しく見る必要があります。今夜のうちに」
侍従がほっと肩の力を抜く。
「何とお礼を申し上げれば」
「礼は要りません。困っている人がいるなら、できることをするだけです」
侍従は一瞬、不思議なものを見る目をリーゼに向け、深く頭を下げて去っていった。
夜会はまだ続いていたが、リーゼは人の少ない裏廊下を通って私室へ戻った。
灯りの落ちた廊下に、自分の足音だけが規則正しく響く。
すれ違ったのは、居眠りをこらえる夜番の衛兵がひとりだけだった。
誰も待っていない部屋に、それでも少し安堵する。
ここでだけは、誰の目も気にしなくていい。
羽織を重ねて机に向かい、夜会用の扇を引き出しの奥にしまった。
☆
深夜。
蝋燭の下、机いっぱいに帳簿が広がっていた。
北部の穀物蔵の払い出し記録、各地の税収記録、過去五年分の気候の覚書。
複数の資料を並べ、リーゼは黙々と数字を照合していく。
蔵からの払い出しは、去年より一割ほど増えていた。
種籾や食糧を村々へ貸し出した量だ。
一方、村から上がる収穫の報告は、例年並みのまま変わっていない。
収穫が例年どおりなら、村が蔵に頼る理由はない。
ペンを置き、額を押さえる。
ふたつの帳簿は、それぞれ受け取った報告を忠実に写しているだけだ。
どちらにも写し間違いはない。
間違っているのは、報告そのもののほうだった。
去年の気候の覚書を開く。
夏の終わりに、例年より長い日照りが続いたと記されていた。
(不作の兆候を数字に反映させず、例年どおりの見積もりで帳尻を合わせている)
不正ではない。
悪意のない怠慢に近い。
悪い報せを上げれば、自分の管轄の落ち度になる。
だから多少の誤差は「例年どおり」の中に押し込められる。
誰も嘘をついているつもりがない分、誰も気づかないまま事態だけが進んでいく。
いちばん性質が悪かった。
(このまま放置すれば、春には北部の村がいくつか飢える)
そう確信した瞬間、疲労より使命感が勝った。
机の端に、母の形見の帳簿帳が置いてある。
表紙の革は色褪せ、角は丸くなっていた。
指先で撫でると、子供の頃の書斎が浮かぶ。
帳面に向かう母の隣で、数字も読めないまま見よう見まねで頁をめくっていた。
「役に立つ子は、偉いのよ」
母はそう言って頭を撫でてくれた。
何かを覚えるたびに、目を細めて褒めてくれた。
ただしそれは、決まって「できたこと」に対してだけだった。
庭をぼんやり眺めていたときに、母が笑いかけてくれたことは一度もない。
役に立つ間だけ、価値がある。
その考えは、いつからか呼吸のように根を張っている。
あの言葉が良いものだったのか、今のリーゼには判じられない。
手の温かさだけは、はっきり覚えていた。
考え込むと、気づけばペンの尻を唇に当てている。
この癖だけは、何年経っても直らない。
リーゼは口の端だけで苦笑した。
控えめに扉が叩かれた。
「失礼します」
カタリナが、白湯の杯と皮を剥いた果物を載せた盆を持って入ってきた。
散らかった帳簿と、リーゼの目の下の隈を見て、呆れと心配の混じった声を上げる。
「また、こんな時間まで。誰に頼まれたわけでもないのに」
「頼まれていなくても、放っておけば困る人が出ます」
帳面から目を上げずに答える。
「そんなに根を詰めて、誰も見てないのに」
「見てなくてもいい。困る人がいなくなるなら」
カタリナは何か言いかけて口を開いたが、蝋燭に照らされた横顔があまりに静かで、踏み込めなかった。
代わりに白湯を机の端に置く。
「せめて少しは召し上がってください。倒れられたら、困るのは私なんですから」
「……そうですね。ありがとう」
「珍しい。素直にお礼を言われると、調子が狂います」
軽口を返しながらも、その顔には安堵が浮かんでいた。
「冷めないうちに、どうぞ」
足音を殺して、カタリナは出ていった。
扉が閉まる音を聞きながら、リーゼの手が止まる。
見てなくてもいい。
自分の口から出た言葉が、ひどく空っぽに響いた。
(本当は――)
見ていてほしい。
その願いを、リーゼはまだ自分自身にすら認められずにいる。
認めてしまえば、積み重ねてきた諦めが根こそぎ崩れてしまうから。
白湯に伸ばしかけた手を引き、もう一度帳面へ視線を戻した。
今は数字だけを考えよう。
ほかのことは、また今度でいい。
☆
窓の外は闇に沈み、遠くで夜警の交代を告げる鐘が二度鳴った。
蝋燭は短くなり、蝋の垂れる音がやけに大きく聞こえる。
リーゼは何度も帳面を読み返し、裏付けに矛盾がないことを確かめた。
指示書の書き出しを間違え、羽根ペンの先を紙の上で止めたまま、しばらく動けなくなる。
焦っているのかと思ったが、違う。
ただ疲れているだけだ。
そう自分に言い聞かせた。
書き上げたのは、北部への予備穀物の早期放出を促す指示書だった。
本来の決裁者は宰相ゲオルクだが、彼は今朝から地方の視察に出ていて、戻りは三日後になる。
三日待てば、その分だけ冬支度が遅れる。
王妃には、緊急時に限って宰相の職務を仮に代行できる慣例がある。
追認は後日、宰相の署名で補えばいい。
リーゼは末尾に「宰相ゲオルクの名代として、緊急時の便宜的な手続きを踏む」と一文を添えた。
慣例の範囲を、ぎりぎりまで広く解釈した使い方だと分かっている。
正規の手順を踏む間に村が飢えるなら、責めを負うのは自分でいい。
その覚悟は、とうに決めていた。
ペン先を紙に落とした瞬間、視界の端が白くかすんだ。
数日来まともに眠れていなかった疲れが、ここへきて一気に押し寄せる。
文字が一瞬、二重に揺れた。
目を閉じ、こめかみを押さえる。
(大したことはない。いつものこと)
震える指で、どうにか署名を書き終える。
誰にも悟られるわけにはいかなかった。
けれど、ペンを置いた手は、思うように紙から離れなかった。




