第一話「壁際の王妃」
鏡の中の自分と、リーゼロッテはしばらく黙って向き合っていた。
淡い銀灰色の髪は、いつものように低い位置でひとつにまとめた。
飾りのない結い方も、装飾を抑えた灰青色のドレスも、誰かに強いられたものではない。
リーゼ自身が選んだものだ。
「今日も、それだけですか」
背後で、カタリナが不満げな声を上げた。
手には小さな装身具箱を抱えている。
「せめて髪飾りの一つくらい。せっかく整ったお顔立ちなのに、もったいないです」
「いいの。目立つ必要はありません」
鏡越しに答えると、カタリナは肩をすくめて箱の蓋を閉じた。
「リーゼ様がそう仰るなら、もう何も言いませんけど。ほんとに、もったいない」
そう零しながらも、箱をしまう手つきには名残惜しさが残っている。
この赤毛の侍女は、いつも軽口の裏で、誰よりもリーゼの扱われ方を案じていた。
鏡の中の顔を、もう一度だけ見る。
目の下に、うっすらと隈が浮いていた。
化粧でも隠しきれない。
(今夜も、長くなりそう)
リーゼは鏡台の前から立ち上がった。
☆
ローゼンヴァルト王国の王宮では、夜会が週に一度は開かれる。
今夜もシャンデリアの灯りが大理石の床に光の粒を散らし、楽団の舞曲に貴族たちの笑い声が重なって、大広間はひとつの生き物のように賑わっていた。
リーゼは、太い柱の陰に近い壁際に立っていた。
入場してすぐ、エーリヒに「お前はあちらで控えていろ」と言われたのだ。
ミリアベルと並べば見劣りする、とでも言いたいのだろう。
理由は聞かなかった。
色とりどりのドレスが行き交う中で、灰青色は風景の一部のように誰の目も引かない。
それでいい、と思う。
王妃の顔を知る者は、宮廷にもほとんどいない。
婚礼のとき、エーリヒが肖像画を「地味過ぎる」と取りやめさせたせいで、名前だけの「王妃」が独り歩きしている。
壁際の女が王妃だと気づかないまま、前を通り過ぎていく客も、この広間には混じっているはずだった。
扇を持つ指先が冷たい。
立ちっぱなしの脚も重くなってきた。
顔には出さない。
出したところで、気に留める者はいない。
視線を巡らせても、誰とも目が合わない。
目が合いかけた相手のほうが、気まずそうに逸らしていく。
リーゼの顔を知る数少ない者ほど、そうだった。
傷つく気力は、いつのまにか失くしてしまった。
そのことのほうが、少し怖い。
(北部の穀物庫の在庫、今朝の数字はどうだったかしら)
夜会の真っ只中で、頭の片隅はもう帳簿へ戻っている。
思考が自由に動くのは、誰にも見られていない場所だけだった。
離れた給仕の列の傍らに、カタリナが控えている。
今宵は傍に侍ることを許されていない。
目が合うと、赤毛の侍女は眉を下げた。
リーゼは小さく首を振る。
大丈夫、の合図だった。
「失礼いたします、王妃殿下」
年配の伯爵夫人が、通りすがりに会釈をした。
挨拶と呼ぶには短い、義務だけの一礼だった。
リーゼも同じだけの丁寧さで返す。
夫人は人混みに消えていった。
(あの方は先月、南部の水路の件で陛下に嘆願状を出していた。まだ通っていない)
儀礼的な挨拶の裏でさえ、頭は勝手に政務の記憶を引き出してしまう。
会場の中央に、ひときわ厚い人垣ができていた。
国王エーリヒと、その腕に寄り添う寵姫ミリアベル。
エーリヒの整った顔には、絶やさぬ愛想のよい笑みがある。
「ですから、わたくし陛下にご提案いたしましたの。このままでは民が苦しむばかりですから、税を少し軽くして差し上げては、と」
華やいだ声が、壁際まで届いた。
「まあ、ミリアベル様はお優しい」
「陛下も良い方を見出されましたこと」
エーリヒが満更でもなさそうに、ミリアベルの肩を抱き寄せる。
「彼女は聡明でね。私も驚かされてばかりだ」
その減税案をまとめたのは、リーゼだった。
北部の凶作の兆しを早くから摑み、これ以上税を重くすれば冬を越せない村が出ると、幾晩もかけて資料を作った。
ミリアベルの思いつきではない。
それを知る人間は、この広間に一人もいなかった。
リーゼの表情は動かなかった。
扇の骨を握る指に、少しだけ力が入る。
怒りと呼べるほどの熱はない。
もっと乾いた、見慣れた感覚だった。
同じ場所を何度も踏まれて、痛みの輪郭がぼやけている。
(いつものこと)
誰に評価されるためにやったのでもない。
この冬、北部で飢える子供が一人でも減るなら、それでいい。
――本当に、それでいいのだろうか。
そう囁く声を、リーゼはすぐに押し込めた。
今、考えることではない。
通りかかった老侯爵が、一瞬だけこちらを見た。
財政の立て直しで、人知れず世話になった相手だ。
何か言いたげに口を開き、結局は軽く頭を下げただけで去っていく。
王妃に親しく声をかければ、どんな噂を立てられるか分からない。
その恐れは、遠目にも見て取れた。
リーゼは同じだけの礼を返す。
誰もが、こうして通り過ぎていく。
ふと、エーリヒが視線を巡らせ、壁際のリーゼに気づいた。
一瞬、気まずげな色がよぎり、すぐに人当たりのよい笑みに塗り替えられる。
「ああ、リーゼも来ていたのか」
自分で控えていろと言ったことなど、忘れたような口ぶりだった。
周囲の視線が、いっせいに集まる。
「……お招きにあずかりました」
背筋を伸ばして一礼する。
声は落ち着いていた。
エーリヒはその素っ気なさが気に入らなかったのか、あるいは座興のつもりか、周りに聞こえる声で言った。
「お前も少しはミリアベルを見習え。愛想よく人前に出るのも、王妃の務めだぞ」
忍び笑いが広がった。
ミリアベルが、慌てたふりで口元に手を当てる。
「陛下、リーゼロッテ様に失礼ですわ」
窘める声。
だがリーゼに向けられた目には、一瞬だけ勝ち誇った光が浮かんだ。
誰も気づかないほどの一瞬を、リーゼだけが見逃さなかった。
「……そうですね」
それしか返さなかった。
言いたいことは頭の中でいくつも浮かび、形になる前に消えた。
王妃の務めとは、夜会で愛想よく笑うことなのか。
それとも、誰も見ていない場所で帳簿と向き合い、飢えを防ぐ算段を立てることなのか。
口にはしない。
言っても届かないことは、もう知っている。
エーリヒが、わずかに苛立った。
通りかかった給仕の少年から乱暴にグラスを奪い、中身を一息に呷る。
些細な仕草だった。
誰も気に留めない。
ただ、その荒い手つきに、リーゼは小さな影が差すのを感じた。
一礼して、会場の隅へ下がる。
途中、遠くのカタリナと目が合った。
今度は案じる色がはっきりと出えている。
リーゼはまぶたを伏せて応えた。
人混みを抜け、バルコニーへ続く回廊まで来て、ようやく息を吐く。
夜風が火照った頬に心地よい。
窓の外には庭園の闇が広がり、月がひとつ浮かんでいた。
会場の喧騒は、ここまで来るとくぐもって聞こえる。
自分が抜けたことに気づいた者は、おそらくいない。
窓に映る姿に、ふと目が留まった。
地味なドレス、目立たないように結った髪、目の下の隈。
夜更けまで帳簿と向き合う日々が、そのまま顔に出ている。
(少し休んだら、戻ろう)
そう思ったとき、背後から控えめな声がかかった。
「リーゼ様……夜分に申し訳ございません。少し、よろしいでしょうか」
振り返ると、いつになく硬い顔の若い侍従が立っていた。
帳面を抱える腕に、切迫したものがある。
以前、内密にリーゼへ相談を持ちかけた人物だった。
「……何かありましたか」
会場から流れる楽団の音が、ふいに遠のいた。




