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私がいなくても回る国だそうなので、王妃の座をお返しします。復縁?お断りです~有能すぎた元王妃は隣国で大切にされています~  作者: 猫燕


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第十話「対面」

執務机の書類に署名する前に、軽く二度、机を叩く。

それが、この公国の若き大公――ヴィンフリートの癖だった。

革の手袋をはめたままの手が乾いた音を二度立て、それからようやくペンが紙の上を走り出す。


政庁の最上階にある執務室は、大公の部屋と呼ぶにはあまりに飾り気がなかった。

壁を埋めるのは絵画ではなく地図と帳簿棚で、机の脇には、街道の補修現場から戻ったばかりの泥だらけの長靴が、無造作に脱ぎ捨てられている。

フェリクスが「考えさせてもらう」とリーゼに告げてから、三日目の夕刻だった。


「終わったぞ。次は」

「その前に、一件だけご報告が」


控えていたフェリクスが、常より少し改まった声で言った。

ヴィンは顔も上げないまま、最後の一枚に署名を終える。


「面倒な話か」

「面倒な話です。ですが、面白い話でもあります」

「お前がそう言う時は、大抵ろくなことにならん」


軽口を叩き合えるのは、この主従の間だけだった。

ヴィンは背もたれに体を預け、ようやくフェリクスを見る。

長身で肩幅の広い体つき。

書類仕事だけでなく現場にも出るせいで、手袋の隙間から覗く手のひらには、薄くまめの跡が残っている。


鋭い目つきは、初対面の者を萎縮させるに十分だった。

家臣の多くが陰で「怖い人」と評するのも、無理はない。


「街道の補修は、どうでした」

「予定より二日早い。ただし、現場の親方が石の買い付けで足元を見られていた。あとで帳簿を洗い直させる」

「相変わらず、机の上より現場のほうがお忙しい」

「机の上だけで済むなら、とうに済ませている」


先代が放漫な経営で傾けた公国を、若くして継いだ。

就任当初は「若造に何ができる」と侮られ、実力を示すまで誰ひとり彼を信用しなかった。

だから彼は、肩書きよりも行動と結果でしか人を測らない。

フェリクスは、その来歴を誰よりもよく知っている。


「例の臨時雇いの件ですが――ローゼンヴァルトの元王妃で、ほぼ間違いないかと。本人にも確認しました。認めています」


室内の空気が、ほんの僅かに張り詰めた。

ヴィンは机の上の報告書――会計処から上がってきた、あの一通に目を落とす。

無言のまま数行を追い、低く問うた。


「……それで、お前はどう判断した」

「密告するにせよ放逐するにせよ、まずは実力を見極めるべきかと」


フェリクスは、いつもの皮肉めいた笑みを引っ込めて答えた。


「害意があるようには見えません。素性を隠したのも、追われる身だからではなく、静かに暮らしたかったからのようです。何より、この報告書の精度は本物です」


ヴィンはしばらく数字を睨んでいた。

政治的なリスクが頭の中で天秤にかけられていくのが、フェリクスには手に取るように分かる。

隣国の元王妃を匿えば、面倒は避けられない。

だが、それ以上に、ヴィンの中には譲れない一線があった。


「肩書きで人を測るな、か。お前の提案は、俺の流儀そのものだな」

「主の教えが行き届いておりますので」

「調子のいいことを言うな」


ヴィンは報告書の数字にもう一度だけ目をやった。

誰にも認められないまま、黙々と数字に向き合い続ける。

その積み重ねがどれほど孤独で、どれほど報われないものか。

彼には、覚えのある感覚だった。


窓の外は、すっかり暗くなっていた。

ヴィンは一度それを見やってから、振り返らずに言った。


「明日の朝、会計処へ行く。自分の目で確かめる」

「明朝は、街道沿いの視察のご予定では」

「後回しだ」


即答だった。

フェリクスは思わず口の端を上げる。

この主が、予定を後回しにしてまで誰かに会いに行くなど、そうそうあることではなかった。


☆


リーゼは何も変わらないふりをして、会計処で働き続けた。

数字を追い、書類を仕上げ、ヨーゼフの無愛想な相槌を受け流す。

ただ、夜になると、寝台の上で天井を見つめたまま眠れない時間が続いた。


廊下で足音がするたび、心臓が跳ねる。

あの黒髪の側近が衛兵を連れて、自分を連れ出しに来るのではないか。

そんな想像をしては、馬鹿らしいと首を振り、また数字に目を落とした。

同じ行を三度読み返して、ようやく我に返ることもあった。


「顔色が悪いな」


三日目の昼、ヨーゼフがぼそりと言った。


「大丈夫です」

「大丈夫な奴は、そういう顔をせん」


それきり何も聞かず、リーゼの机の端に、湯気の立つ茶の杯を置いていった。


「もう荷造りは済ませてあります」


三日目の夜、カタリナが部屋の隅の鞄を軽く叩いた。


「いつでも出られます。どこへだってお供します」

「……あなたは、いつもそうですね」

「今さらですよ」


肩をすくめて笑う。

リーゼも思わず吹き出した。

追い出されるかもしれない不安は消えなくても、隣に並んで荷造りをしてくれる人がいる。

それだけで、足元が少しだけ確かになった。


翌朝、宿を出る間際、カタリナは無言でリーゼの襟元を整え、乱れた後れ毛をそっと耳にかけた。


「今日は、何かある気がします」

「……根拠は」

「勘です。でも悪い勘じゃありません」


軽く背中を叩かれ、リーゼは苦笑しながら宿を出た。

悪い勘ではない、という言葉を、素直に信じてみたくなった。


会計処に出勤したリーゼを迎えたのは、いつもと違うざわめきだった。


「おい、聞いたか。大公閣下が、こっちへ向かっておいでだそうだ」


同僚が慌てた様子で耳打ちする。

ヨーゼフでさえ、珍しく手を止めて姿勢を正していた。

やがて、廊下の向こうから足音が近づいてくる。

規則正しい、迷いのない歩調。


扉が開いた瞬間、会計処の空気が一斉に張り詰めた。

入ってきたのは、長身の青年だった。

装飾を嫌う実用的な服、使い込まれた革手袋、鋭い目つき。

その後ろに、見覚えのある黒髪の側近が控えている。


会計処の責任者が慌てて頭を下げるのにも、ヴィンは短く「続けろ」とだけ告げ、部屋の中を一瞥すると、真っ直ぐリーゼの席へ歩み寄ってきた。

机の上の几帳面に揃えられた帳簿の並びに、視線が一瞬だけ止まる。


「お前が、例の報告書を書いた人間か」


丁寧さも配慮もない、素っ気ない問いかけだった。

リーゼは一瞬、身構える。

だが気圧されることなく、すっと立ち上がって一礼した。


「はい」


値踏みされているような居心地の悪さは、確かにあったが、不思議と恐怖は湧かない。

この男の目は、こちらを見下してもいなければ、探ろうともしていない。

ただ、ありのままの何かを見定めようとしている。

そんな気がした。


「フェリクス。奥の部屋を借りる」

「承知しました」


ヴィンの一言で、フェリクスがすぐ動く。

他の役人たちの視線を遮るように、リーゼは会計処の奥の小さな応接室へ案内された。

扉が閉まると、外のざわめきが遠のく。

室内には、大公と、フェリクスと、リーゼの三人だけ。


ヴィンは腕を組み、しばしリーゼを観察するように見つめていた。

リーゼは視線を逸らさなかった。

逸らせば、これまでの自分が、また元の場所へ戻ってしまう気がしたからだ。


「フェリクスから、話は聞いた」


低い声だった。

リーゼの指先が、僅かに強張る。


「お前が、ローゼンヴァルトの元王妃だということも」

「……はい」


もう、隠すつもりはなかった。

糾弾されるのか、追放されるのか。

覚悟を決めて、次の言葉を待つ。

ヴィンは声を荒げず、しかしはっきりと言った。


「お前が元王妃だろうと、俺にはどうでもいい」


リーゼは思わず目を見開いた。


「仕事を見せろ。それだけだ」


部屋の隅で、フェリクスが短く息を吐く。

この男は、こういう人間なのだ。

そんな諦めと誇らしさの混じった笑みが、その口元に浮かんでいた。


リーゼは言葉を失っていた。

組んでいた指が、いつのまにかほどけている。

強張っていた肩から力が抜けていくのを、他人事のように感じた。

公爵家では「役に立つ娘」として、王城では「愛想のない王妃」として。

どこへ行っても先に貼られた札があり、人はその札越しにしか自分を見なかった。


この人は、札を見なかった。

称賛でも同情でもない。

仕事だけを見ると言い切られて、何かが小さく揺れた。

その揺れの名前を、リーゼはまだ知らなかった。


「……承知いたしました」


絞り出した声は、かすかに震えていた。

何か気の利いたことを言わなければと思うのに、頭に浮かぶのは数字のことばかりだった。


「あの報告書は」


ヴィンが、ふいに問う。


「何日かけた」

「着任から提出まで、三週間です。調査に充てたのは延べおよそ六十刻、うち二十刻ほどは過去の記録の突き合わせでした」


言ってから、リーゼは気づいた。

聞かれたのは日数だけで、時間の内訳までは求められていない。

感情が乱れると数字の話にすり替えてしまう、いつもの悪い癖だった。

頬が熱くなる。

だが、ヴィンは笑いも呆れもしなかった。


「……そうか」


短く頷いただけだった。

その反応の淡白さが、かえってリーゼの緊張をほぐした。

この人は、余計な言葉で人を測らない。

ヴィンは話を切り替えるように、懐から一枚の書類を取り出した。


「これを、明日までに片付けてみせろ」


書類をリーゼの手に押し付ける。

中身が何であるのか、説明の一言もなかった。


「閣下、少しくらい説明を」

「必要ない。見れば分かる」


フェリクスの苦言を短く切り捨て、ヴィンは返事も待たずに踵を返した。

広い背中が、あっという間に扉の向こうへ遠ざかっていく。

フェリクスは小さく肩をすくめ、リーゼに向き直った。


「失礼な人でしょう。ですが、あれでも最大限の歓迎です。気に入らない相手のために、足を運ぶような方ではありませんから」


そう言い置いて、彼も主の後を追っていった。

残されたリーゼの手の中で、書類はまだ、その中身を明かさないままだった。


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