第十一話「いい顔してる」
その日の終業の鐘が鳴っても、リーゼは席を立たなかった。
同僚たちが一人、また一人と帰り支度を整えていく中、彼女は机の上で、押し付けられた書類をようやく開いた。
昼の間は他の仕事に紛れて、封を切る勇気が出なかったのだ。
折り畳まれた紙は三枚。
一枚目は、公国の交易税に関する帳簿の写しだった。
関所ごとの徴収額、月ごとの集計、それを取りまとめた総計。
何の変哲もない、ありふれた形式に見える。
だが数行を追ううちに、リーゼの指がぴたりと止まった。
数字が合っていない。
差は大きくなかった。
月ごとに見れば、総額の一分にも満たない。
それが、月をまたぎ年をまたいで、少しずつ、しかし確実に積み重なっている。
数年分。
修正された形跡はなく、誰かが見つけて放置したのか、誰も見つけられなかったのか、それすら判然としない。
二枚目には、走り書きのような一文が添えられていた。
角張った、力強い字だった。
――原因不明。三度、担当を替えて洗わせたが、誰も出せず。
三枚目は、その三度の調査の記録だった。
担当者の名、調べた期間、確認した帳簿の範囲。
目を通して、リーゼは気づいた。
三度とも、調べたのは関所ごとの帳簿の突き合わせだった。
ひとつずつ丁寧に照合し、どの関所の帳簿も単体ではきちんと合っている、と結論づけている。
(会計処で見たのと、同じ型)
先日の不一致は、記録の基準が引き継ぎのたびに歪んでいたことが原因だった。
個々の帳簿の中ではなく、それが受け渡される途中に問題があったのだ。
これは力量を試すための問題ではない。
大公自身が、本当に手を焼いている課題なのだ。
三度も人を替え、それでも解けず、積み上がった食い違いを抱えたまま、それでも正面から向き合おうとしている。
そんな問題を、素性も知れない臨時雇いの手に、彼は迷いなく預けた。
任せるに値するか、試されている。
同時に、任せてもらえている、とも思った。
王城では、任されたことなど一度もなかった。
押し付けられ、都合よく使われ、成果だけを持っていかれる。
その繰り返しだった。
だからこそ、半端な仕事はできない。
指先に、自然と力がこもった。
リーゼは背筋を伸ばし直した。
「まだ残られるんで」
背後から、ヨーゼフの低い声がした。
帰り支度をした初老の役人が、鍵束を手に立っている。
「今夜中に片付けなければならない書類がありまして」
「そうかい」
ヨーゼフはそれ以上何も聞かず、鍵束の中から一本を外して机の上に置いた。
「戸締まりだけはちゃんとしてくれ。明日の朝、鍵は俺の机に戻しておけ。……門番には、話を通しておく」
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことは、しとらん」
ぶっきらぼうにそう言い残して、足早に去っていく。
その背を見送りながら、リーゼは軽く会釈した。
鍵を預けられる。
それが、この場所で少しずつ信用が積み上がってきた証なのだと、今さらのように思った。
☆
夜が更けて、会計処はしんと静まり返った。
蝋燭の下、机いっぱいに帳簿が広がっている。
関所ごとの記録、過去数年分の集計、月ごとの取引の覚書。
指先で行をなぞり、暗算し、別の帳面を開いて突き合わせる。
その構図は、王城の私室で過ごしたあの夜と、ほとんど同じ絵だった。
傍らには、母の形見の帳簿帳まで置いてある。
けれど、あの頃とは何かが違っていた。
王城では、誰にも見られない仕事だった。
褒められることも、感謝されることもない。
困る人がいなくなればそれでいいと、自分に言い聞かせながら数字に向き合っていた。
今夜は違う。
この帳簿の向こうには、明日の朝、結果を待っている人がいる。
あの角張った字を書いた人が、この数字に目を通すのだ。
(――認められたい)
ふと浮かんだその言葉に、リーゼは自分で驚いて、ペンの手を止めた。
そんなことを願っていいはずがない。
願ったところで、また裏切られるだけだ。
頭ではそう分かっているのに、細い灯りは、吹き消そうとしても消えなかった。
軽く頭を振り、ペンの尻を唇に当てたまま、再び数字へ視線を戻した。
関所ごとの帳簿は、どれも単体では合っている。
三度の調査と同じ結果だった。
ずれているのは、それらを取りまとめる段階だ。
(集計の仕組みそのもの――)
与えられた範囲の帳簿だけでなく、リーゼはその数字が生まれる源、交易税の徴収の仕組みそのものまで遡って調べ始めた。
資料室から古い徴収規則を引っ張り出し、関所ごとに定められた税額の換算表を、一枚ずつ照らし合わせていく。
夜半過ぎ、扉が小さく叩かれた。
「失礼します。……やっぱり、まだやってる」
包みを抱えたカタリナだった。
通用口の門番は、ヨーゼフから話を聞いていたらしく、リーゼの連れだと言うとすぐに通してくれたという。
腹が減っていないか、様子を見に来たのだ。
机に広がる帳簿の山と、蝋燭に照らされたリーゼの横顔を見て、苦笑を浮かべる。
「今夜もですか」
「今夜は期日がありますから」
「それは分かってますけど」
言いながら、温かい肉の挟まれたパンを差し出した。
リーゼは礼を言って受け取る。
数口かじって、思い出したように水を飲んだ。
カタリナはそんなリーゼをじっと見つめている。
王城の頃のような心配そうな色は、その顔にはなかった。
代わりにどこか誇らしげな表情が浮かんでいることに、リーゼ自身は少しも気づいていない。
「なんですか」
「いえ。いい顔してるなあ、と思っただけです」
「……顔色は悪いと思いますが」
「そういう意味じゃありません」
カタリナは笑って、机の端に水差しを置いた。
「終わったら、ちゃんと寝てくださいね」
「はい。……ありがとう」
カタリナが帰ったあと、リーゼはもう一度、手元の数字に目を落とした。
疲れはある。
それでも、王城で過ごしたあの夜の疲れとは、手触りが違った。
あの頃は、誰も見ていなくても、と胸の内で繰り返さなければ、ペンを握り続けられなかった。
今は、そう言い聞かせなくても、指がひとりでに動く。
しばらくして、彼女は一つの事実に行き当たった。
関所ごとに使われている換算表が、微妙に異なっている。
ある関所では新しい貨幣の相場に合わせて改訂されているのに、別の関所では十年以上前の古い表が、そのまま使い続けられていた。
一件ごとの差は取るに足らない。
だが、その差が毎月、毎年積み重なることで、総計にじわじわと歪みを生んでいた。
しかも、その差額がどこへ消えているのかを辿ると、帳簿の上では「手数料」という曖昧な項目に吸い込まれ、それ以上は追えなくなっていた。
誰かが意図的に隠しているのか、単なる慣習として長年放置されてきたのか。
少なくとも、不透明であることだけは間違いなかった。
窓の外が、うっすらと白み始めていた。
☆
翌朝、リーゼは仕上げた報告書を携えて、政庁の最上階にある大公の執務室を訪れた。
徹夜の疲れで、足取りは僅かに重い。
廊下の窓から差し込む朝の光が、やけに眩しかった。
この報告書がどう受け取られるのか。
期待と不安が半分ずつ押し合っていたが、背筋は真っ直ぐに保ち、扉の前で深く息を吸った。
執務室には、ヴィンとフェリクスの二人がいた。
ヴィンは机に向かって書類の山を片付けているところで、リーゼの姿を認めると、無言で手を差し出す。
リーゼは報告書を渡した。
ヴィンはざっと目を通し始め、数枚めくったところで眉を寄せた。
「……これを、一晩で」
呟くような声だった。
「本当に、お前が?」
半信半疑の響きがあった。
無理もない。
三度も人を替えて解決できなかった問題が、一晩で解かれたなどと、にわかには信じられないだろう。
リーゼは何も言い返さず、黙って立っていた。
その時、横からフェリクスが一枚の書類を差し出した。
「会計処での彼女の実績記録です。経歴の裏は取りました。彼女の仕事です」
静かな声が、確かな裏付けとして響く。
ヴィンは実績記録に目を通し、もう一度、報告書へ視線を戻した。
沈黙が落ちた。
ヴィンは何度も頁を行き来し、時折、指先で数字をなぞる。
疑いの色が、その顔から少しずつ消えていくのが、リーゼにも分かった。
数字の精度だけではない。
問題の根本原因、換算表の不統一と不透明な手数料項目にまで踏み込んだ分析に、彼は言葉を失ったように押し黙っている。
「手数料の項目に、なぜ目を付けた」
沈黙を破ったのは、ヴィンの問いだった。
「毎月ほぼ同じ日に、同じような端数の額が計上されていました。取引の実態とは無関係に、です。偶然にしては規則的すぎます」
「それだけで」
「はい。それだけで、遡る理由には十分でした」
淡々と答えながら、リーゼは自分の声が少し上ずっていることに気づいた。
ヴィンは何も言わず、該当の頁にもう一度視線を落とす。
フェリクスが横で、堪えきれないように口の端を持ち上げていた。
判定を待つ数秒が、ひどく長く感じられた。
報告書の端を持つ手が、かすかに震えている。
期待して、また何も得られなかったら。
褒められることに慣れていないせいで、期待することすら怖かった。
やがて、ヴィンは書類を机に置き、リーゼをまっすぐに見た。
「……これは、あなたの仕事だ」
いつもの「お前」ではなかった。
短い沈黙のあと、彼は付け加えるように続ける。
「よくやった、としか言えない自分の語彙のなさが情けないが――それでも、よくやった」
リーゼは、息をすることを忘れた。
生まれて初めて、成果そのものを、真正面から認められた。
誰かの功績にされることも、なかったことにされることもなく、自分の仕事として、自分の名で。
その衝撃が、緩やかに広がっていく。
何か言葉を返さなければと思うのに、喉が熱くて声にならなかった。
込み上げるものを堪えるように俯いたリーゼの、結い上げた髪の隙間から覗く耳の先が、ほんのり赤く染まっている。
それに気づいたヴィンは、一瞬だけ目を留めてから、ふいと視線を逸らした。
ぶっきらぼうに、机の上の書類を揃え直しながら続ける。
「だが、これで満足されては困る。次は――」




