第十二話「任せると言われて」
「次は、数字の裏にある仕組みそのものを直せ」
ヴィンは机の上の報告書を指先で軽く叩きながら、そう言った。
「換算表の不統一と、あの手数料の項目。あれをこのまま放っておくわけにはいかん。交易税の徴収には、長年見過ごされてきた不透明な部分がある。それを洗い出して直す。やり方はお前が決めろ」
リーゼは一瞬、自分の耳を疑った。
「……私が、ですか」
「他に誰がいる」
ぶっきらぼうな返事だった。
だが、その声の底には、迷いというものが少しもなかった。
「お前になら、任せられると思っている」
「あなた」は、一度きりだったらしい。
ほんの少し惜しく感じた自分に気づいて、リーゼは慌ててそれを打ち消した。
帳簿の誤りを正すことと、仕組みそのものを変えることは、まるで意味が違う。
これは数字の上での作業ではなく、政策そのものへの裁量を与えられるということだ。
その重さを、リーゼは遅れて理解した。
胸に湧いたのは、喜びよりも先に戸惑いだった。
自分に、そんな重責を負う資格があるのだろうか。
つい先日までの自分は、雇われたばかりの、身元も知れぬ臨時雇いだった。
しかも隣国の元王妃という、厄介な素性まで抱えている。
その自分に、公国の徴税の根幹を触らせるというのか。
それに、と心の奥で小さな声がする。
どうせ、任されたところで。
功績を横取りされ続けた年月が、無意識のうちに彼女の中に怯みを作っていた。
任された仕事は、結局他人のものにされる。
その刷り込みは、環境が変わったからといって、簡単に消えるものではなかった。
「……承知いたしました」
それでも、リーゼは深く頭を下げた。
震える声を、どうにか押し殺しながら。
執務室を辞そうとしたところで、扉の脇に控えていたフェリクスが、ひそりと声をかけてきた。
「驚いたでしょう」
「……はい。とても」
「閣下が何もかも人に任せると口にされるのは、珍しいことです。私も、数えるほどしか聞いたことがありません」
軽い口調の中に、確かな真剣さが混じっていた。
リーゼは何も答えられず、もう一度、小さく頭を下げた。
☆
リーゼは政庁の一室で、与えられた資料を前に一人で考え込んでいた。
交易税の仕組みを洗い直せば洗い直すほど、この問題の根の深さが分かってくる。
関所ごとに換算表が違うのは、単なる手違いではなかった。
それぞれの関所を預かる古参の徴税官たちが、長年の慣例として自分たちのやり方を守り続けてきた結果なのだ。
手数料の項目に至っては、誰がいつ、どういう理由で作ったのかすら、記録に残っていない。
昼前に資料の山の隙間から、ヨーゼフがちらりとこちらを覗いた。
「おい。交易税に手を付けるそうだな」
「……お耳が早いですね」
「この部署で知らん奴はおらん。悪いことは言わん、あの古参どもは手強いぞ。先代の頃から関所を仕切ってきた連中だ。理屈で動く相手じゃない」
「承知しています。ですが、理屈で示す以外の方法を、私は知りませんので」
ヨーゼフは鼻を鳴らしたが、それ以上は何も言わなかった。
ただ、去り際に「……無理はするなよ」と、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
これは数字の話ではない。
人と人との、利害の話だ。
既得権益を持つ者たちが、黙って自分の縄張りを明け渡すはずがない。
改革に手をつければ、必ず反発が起きる。
それも臨時雇いの、しかも女の手によるものだと知れば、なおさらだ。
リーゼは、いつのまにかペンの尻を唇に当てていた。
数字と向き合う時だけに出る、無意識の仕草。
考えがまとまらない時ほど、その癖は強くなる。
机の端には、母の形見の帳簿帳が置かれている。
母は数字の扱い方を教えてはくれたが、何かを「決める」権利をリーゼに与えたことは、ただの一度もなかった。
求められたのは、正確に処理することだけ。
方針を決めるのは、いつも別の誰かの役目だった。
決める側に立つことが、こんなにも心許ないものだとは、思ってもみなかった。
(実際の現場を、見ておかなければ)
ふとそう思い立ち、リーゼは席を立った。
☆
午後の市場は、昼の喧騒が少し落ち着いた頃合いだった。
リーゼは目立たない服装で通りを歩きながら、関所から荷を運び込む商人たちの様子を、遠くから観察した。
荷馬車が到着するたび、徴税官が手際よく荷を検分し、書付に何事かを書き込んでいく。
その傍らで、商人たちが時折、渋い顔で懐から銭を取り出していた。
「おう、嬢ちゃんじゃねえか。どうした、市場見物か」
振り向くと、ハンスが店先から手を振っていた。
リーゼは軽く会釈をして、店へ歩み寄る。
「少し調べものです」
「調べもの、ね。……ちょうどいい、愚痴を聞いてくれ」
ハンスは顎髭をさすりながら、ため息まじりに言った。
「関所の手数料ってやつが、どうにも腑に落ちねえんだ。同じ荷でも、通る関所によって払う額が微妙に違う。理由を聞いても、慣例だの何だのとはぐらかされるばかりでな」
「同じ荷でも、ですか」
「ああ。俺みたいな小商人は、泣き寝入りするしかねえ。……もっとも、会計処で働くあんたが、上に掛け合ってくれるってんなら、話は別だがな」
ハンスは意味ありげに片目をつぶった。
リーゼは返答に困った。
改革の話など、口にできるはずもない。
「……お力になれるよう、努力します」
「おう。期待してるぜ」
その一言が、思いのほか沁みた。
数字の向こうにいる人々の顔が、初めて具体的な輪郭を持ったような気がした。
夜、宿に戻ってからも、リーゼは机に向かい続けた。
心配そうに覗き込んできたカタリナが、恐る恐る尋ねる。
「大丈夫なんですか、そんな大きな話」
「分かりません」
リーゼは正直に答えた。
「ただ……任せると言われたのは、初めてなので」
カタリナはそれ以上何も言わず、白湯の杯をそっと机の端に置いて、ひとつ頷いた。
「でも、リーゼ様」
「はい」
「ちょっとだけ、嬉しそうですよ」
指摘されて、リーゼは自分の頬に手をやった。
否定しようとして、うまい言葉が見つからない。
カタリナは、してやったりという顔で笑っていた。
王城では、どれだけ成果を出しても「お前の仕事ではない」と扱われ続けてきた。
裁量を持つということが、どれほど重く、そして得難いものか。
その実感が、彼女の背筋を自然と伸ばしていた。
☆
十日後、リーゼは改革案の草稿を携えて、ヴィンの執務室を訪れた。
この十日間、彼女は関所ごとの換算表の改訂履歴を二十年前まで遡り、いつ、どの関所が、どの表を使い続けているのかを一覧にまとめた。
そのうえで立てた案だった。
全ての関所の換算表を一つに統一すること。
手数料の項目を名目ごとに細かく明細化し、徴収の根拠を明示すること。
それらを現場の徴税官に周知するための段階的な手順と、移行期間中の激変緩和策。
一枚一枚に、数字の裏付けを添えている。
ヴィンは草稿を受け取ると、黙って読み始めた。
傍らでは、フェリクスが腕を組んで壁に寄りかかっている。
沈黙が、しばらく続いた。
「換算表を統一すれば、関所ごとの徴収額に差が出る。損をする者が必ず出るぞ」
「はい。ですので、移行の初年度は、旧表との差額を一定の範囲で調整する仕組みを設けます。急な負担増は生じません」
「手数料の明細化に、古参の徴税官は黙っていない」
「反発は出ると思います。ですので、数字だけで示せる形に整えました。感情の話にならないように」
ヴィンはいくつか鋭い質問を重ねた。
そのたびに、リーゼは淀みなく答える。
最後の一枚を読み終えると、彼は短く頷いた。
「これで進めろ」
そう言って、手にした決裁の書類に、軽く二度、机を叩いてから署名をした。
リーゼは思わず尋ねていた。
「……もしこれで反発が起き、うまくいかなかった場合は」
言ってしまってから、後悔した。
任せると言ってくれた相手に、失敗の話をするなど。
だが、ヴィンは少しも動じなかった。
「そのときは俺の責任だ。お前の責任にはしない」
リーゼは息を呑んだ。
「決めたのは俺だ。お前は、俺が正しいと判断した仕事をしているだけだ」
当然のことのように、彼は言った。
失敗の責任まで分かち合おうとする人間に、リーゼはこれまで出会ったことがなかった。
功績は奪われ、失敗だけを押し付けられる。
それが、彼女の知る世界だった。
それなのに、この人は成功も失敗も、自分の名で背負うと言う。
じんわりと、しかし確かに、胸の内側に温かいものが広がっていく。
守られている、という感覚だった。
壁際で聞いていたフェリクスが、視線を天井へ逸らしながら、口の端をわずかに持ち上げていた。
この主がこういう言葉を飾りもなく口にすることを、彼は誰よりもよく知っている。
ヴィンは続けて別の紙にも署名をし、リーゼの前へ押しやった。
「大公名代の委任状だ。関所の帳簿を開けるのに要る。役職は、形になってから付ける」
紙の端で、彼の署名が乾ききらずに光っていた。
臨時雇いの手に、名代の印を預ける。
その意味の重さに、手の中の紙が思いのほか重く感じられた。
リーゼは深く一礼した。
上手く言葉にできなかった感謝を、せめてその一礼に込める。
顔を上げると、ヴィンは署名の終わった書類の端を、所在なげに揃え直していた。
その手袋の指先を見て、胸の奥がひとつ跳ねた。
理由を考えるのは、後にしようと思った。
☆
翌日、政庁の会議室には、徴税を担う古参の徴税官たちが顔を揃えていた。
長机の向こうに並ぶのは、いずれも年季の入った男たちだ。
日に焼けた顔、深く刻まれた皺、腕を組み、値踏みするような目。
ヴィンは別件で不在だった。
リーゼは、たった一人で彼らの前に立っている。
最前列の中央に座る白髪の老人が、おそらく徴税官たちの長なのだろう。
腕を組んだまま一言も発さず、ただ鋭い目でこちらを見据えている。
その無言の圧力は、王城の夜会で浴びせられた侮蔑の視線とは、また違う質のものだった。
嘲りではなく、これまでの己の歩みを否定されることへの、警戒と拒絶。
手元には、草稿と、数字の裏付けの資料。
喉が、少し乾いていた。
リーゼは、改革の概要を説明し始めた。
関所ごとの換算表の統一、手数料の明細化。
淡々と、順を追って。
説明が半ばに差し掛かった時、古参のひとりが露骨に眉をひそめた。
「臨時雇いの小娘が、何十年も続いてきたやり方に口を出すと?」
会議室に、ざわめきが広がる。
リーゼは一度、深く息を吸った。
ここで怯めば、任されたものすべてが無駄になる。
それだけは、分かっていた。




