第十三話「よくやった、その一言」
「これまでのやり方を否定するつもりはありません」
リーゼの声は、思いのほか静かだった。
ざわめく会議室の中で、彼女は声を荒げることも視線を逸らすこともなく、手元の資料を一枚、長机の中央へ滑らせた。
「ただ、この数字が示す不均衡を、このまま見過ごすことはできません」
最前列の古参が、不機嫌そうに紙を睨む。
そこには、三つの関所で同じ種類の荷を扱った場合の、徴収額の比較が記されていた。
同一の荷、同一の量。
それが、ある関所では銀貨三枚、別の関所では銀貨三枚と銅貨五枚と計上されている。
「関所ごとの事情がある。土地柄というものが」
「土地柄で説明のつく差であれば、記録にその根拠が残っているはずです。ですが、この二十年分の換算表の改訂記録を遡っても、差の理由を記した項目は一つも見当たりませんでした」
淡々と、事実だけを並べる。
相手を打ち負かすつもりはなかった。
感情を交えれば、それはたちまち、若造の理屈に対する年長者の意地の張り合いにすり替わってしまう。
だからこそ、数字だけで示す。
示された数字は、誰の意見でもない。
「手数料の項目も同様です。この額がどこへ流れ、何に使われたのか。明細を残すだけで構いません。責めるつもりも、遡って罰するつもりもありません。これからは記録に残す。それだけのことです」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
古参たちは互いに顔を見合わせ、あるいは腕を組み直し、あるいは資料を睨み続ける。
感情で反論するには、目の前の数字はあまりにも整然としすぎていた。
かといって、完全に納得したわけでもない。
それ以上の反論を続けることができず、押し黙っている。
やがて、最前列の白髪の老人が、低くぼそりと言った。
「……数字は、事実だからな」
認めたわけではない、と言外に告げる声。
だが少なくとも、その場で議論を打ち切る者はいなかった。
リーゼは一礼して、淡々と資料をまとめた。
声を荒げず、相手を打ち負かすのでもなく、ただ事実で粘り強く押し通す。
そのやり方は、王城での屈辱の日々の中で、彼女が唯一磨き続けてきた武器だった。
皮肉なものだと思う。
あの場所で耐えてきた時間が、今こうして役に立っている。
会議室を出て、廊下の角を曲がった途端、膝から力が抜けそうになった。
壁に手をついて、細く息を吐く。
掌が、じっとりと汗ばんでいた。
「……あの爺さんを、黙らせたか」
いつのまにか隣にいたヨーゼフが、独り言のように呟いた。
会議の様子を、部屋の外でこっそり窺っていたらしい。
「黙らせたのではありません。数字が語っただけです」
「そういうところが、可愛げがないと言うんだ」
そう言いながら、ヨーゼフの口元はほんの少しだけ緩んでいた。
☆
改革は、少しずつ動き出した。
最初のひと月は、目に見える変化はほとんどなかった。
換算表の統一は段階的に進められ、古参の徴税官たちは不満げな顔のまま、書式に従って記録を書き換えていった。
リーゼは現場を回り、疑問が出るたびに足を運んでは、根気強く説明を重ねた。
「またあんたか。毎度毎度、飽きもせんな」
「お手数をおかけします。もう一箇所だけ、確認させてください」
悪態をつきながらも、老徴税官は帳面を差し出してくる。
その手つきが以前より僅かに柔らかいことに、リーゼは気づいていた。
ある関所では、まだ二十歳そこそこの若い徴税官が、おずおずと声をかけてきた。
「あの……新しい換算表の、端数の丸め方なのですが。この場合は、切り上げでよろしいのでしょうか」
「はい。ただし、単位が変わる箇所では切り捨てです。こちらの例をご覧ください」
リーゼが書き添えた例を、若者は真剣な顔で書き写す。
「助かります。今までは、先輩方の見よう見まねでやるしかなくて、正直、誰も理由を教えてくれなかったので」
その言葉に、リーゼは少し驚いた。
理由を教えてもらえなかった。
それは、かつての自分が感じ続けていた孤独と、どこか似ている気がした。
ハンスの店に立ち寄った日は、店先で商売をしていた彼が、帳面を掲げてにやりと笑った。
「見ろよ、嬢ちゃん。今月から、関所の手数料がぴたりと一定になった。理由もちゃんと書いてある。こんなの、生まれて初めてだ」
「それは、よかったです」
「よかったですじゃねえよ」
ハンスはしばらくリーゼを見つめ、それから何も言わずに顎髭をさすった。
感心した時の、彼の仕草だった。
言葉を並べるより、その手つきのほうが、よほど気持ちが伝わった。
☆
それは、数週間が過ぎた頃のことだった。
仕事の合間に立ち寄った市場で、リーゼは野菜を並べた露店の前で足を止めていた。
積み上げられた根菜の色つやが、以前より少し良くなっているような気がしたのだ。
商人たちの声にも、どこか張りがある。
値切る客と、笑いながら応じる店主。
以前は関所の手数料の重さに眉をひそめていた露店の女将が、今日は鼻歌まじりに秤を扱っていた。
数字の上では小さな変化でも、人の暮らしの中に降りてくると、こんなにも違って見えるのか。
リーゼは、そのことに小さく目を見張っていた。
「あんた」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、腰の曲がった老婆が籠を抱えて立っている。
見覚えのない顔だった。
「会計処の、銀色みたいな髪のお嬢さんだろう。税の取り方が変わったのは、あんたのおかげだってね」
「……私、ですか」
「役所の人に聞いたんだよ」
老婆はしわくちゃの顔をほころばせて、リーゼの手を取った。
ごつごつとした、働き者の手だった。
「今月は、孫に新しい靴を買ってやれたんだ。ありがとうね」
リーゼは、言葉に詰まった。
見返りを求めて始めたことではなかった。
名前も顔も、誰も知らないはずの仕事だった。
それなのに、顔も知らない人から、飾り気のない感謝がこうして真っ直ぐに向けられている。
思わず、涙腺が緩みかけた。
深く頭を下げることしかできなかった。
老婆が去ったあとも、掌に握られた温かさがまだ残っていた。
その晩、宿でその話を聞いたカタリナは、目に涙を浮かべて笑った。
「よかったですね。……本当に、よかった」
「大袈裟です」
「大袈裟じゃありません。ずっと、見てる人がいなかったんですから」
カタリナは目元を袖で乱暴に拭って、わざとらしく咳払いをした。
リーゼは何も言えず、ただ目尻を下げた。
☆
翌朝、リーゼの机の上に、一枚の辞令が置かれていた。
――会計官に任ず。
大公ヴィンフリート。
角張った字で、それだけだった。
臨時雇い、という札が外れた朝だった。
「……ようやく、か」
隣の席から覗き込んだヨーゼフが、鼻を鳴らす。
それから、聞こえるか聞こえないかの声で付け足した。
「遅いくらいだ」
肩書きを渡されるのは、王妃になって以来のことだった。
ただ、あの時与えられたのは、人から貼られる札だった。
今、手の中にあるのは、積み上げたものに付けられた名前だ。
そう思うと、紙の軽さが不思議なほど手に馴染んだ。
その日の午後、政庁の廊下で、リーゼは向こうから歩いてくるヴィンの姿に気づいた。
書類の束を脇に抱え、いつもの足取りで真っ直ぐに進んでくる。
リーゼは足を止め、道を空けるように壁際へ寄って会釈をした。
ヴィンは足を止めなかった。
すれ違いざまに、視線を前に向けたまま、一言だけ告げる。
「よくやったな」
それだけ言って、そのまま歩き去っていく。
リーゼは、しばらく動けなかった。
あの朝の執務室で受け取ったのと、同じ言葉だ。
けれど、あれは正面から真っ直ぐに渡された言葉だった。
今のは、日常の途中でふと零れ落ちたような一言。
気負いのないその軽さが、かえって深いところに沁みた。
ヴィンの背中は、すでに廊下の角を曲がって見えなくなっている。
耳の先が熱いことに気づいて、リーゼは慌てて手で押さえた。
「まあ、そういう顔をなさる気持ちは分かる」
背後から、皮肉めいた声がした。
振り返ると、フェリクスが腕を組んで、面白そうにこちらを見ている。
「閣下があれだけ言葉を惜しんで、それでも言った。あれは、相当な賛辞のうちに入る」
「……存じております」
「なら結構」
フェリクスは肩をすくめ、声を潜めて付け加えた。
「ちなみに、閣下は会議の結果を、私に三度も聞き直された。三度だぞ。あの方が同じ報告を二度以上聞くなど、まずないことだ」
「……そう、ですか」
「そうだ。本人には言うなよ。機嫌を損ねる」
悪戯っぽく片目をつぶってから、苦笑まじりに続ける。
「お前を推した俺の判断は、間違っていなかったな」
警戒していた頃の面影は、もうどこにも見当たらない。
以前は「あなた」と呼んでいた彼が、人目のない場ではいつのまにか砕けた口調になっていることに、リーゼは今さら気づいた。
それは、確かな信頼の証だった。
認められることに、少しずつ慣れ始めている自分がいる。
それが嬉しくて、同時に少し怖かった。
この温かさは、いつか終わってしまうのかもしれない。
幸せに慣れた頃に、また何かが奪われるのではないか。
そんな不安を、彼女はまだ完全には捨て切れずにいた。
☆
その日の夕方、日が傾いて会計処の窓が橙色に染まる頃には、他の役人たちはあらかた帰り支度を終えていた。
静けさの中、リーゼは机に残って、政庁に届いた近隣諸国の交易統計を、仕事の一環として確認していた。
各国の関所を通過した荷の量、主な品目、前年との比較。
淡々と並ぶ数字を、順に目で追っていく。
そのうちの一行で、視線が止まった。
ローゼンヴァルト王国の交易量。
例年と比べて、明らかに落ち込んでいる。
見間違いだろうかと思うほどの落ち込み方だった。
思わず前年の欄と見比べようとして、指先が別の頁へ伸びかける。
穀物の搬出量、関税の総額、主要街道の通行数。
あの国の帳簿の癖なら、誰よりもよく知っている。
この落ち込み方は、単なる不作や天候の影響とは少し違う。
その数字に、リーゼの視線が一瞬だけ止まった。
けれど、それはもう自分には関係のない国の話だ。
そう思い直し、伸ばしかけた手を引っ込めて、静かに紙をめくった。
今の自分には、守るべき別の仕事がある。
振り返る理由は、どこにもないはずだった。
めくった指先が、ほんの少しだけ震えていたことには、気づかないまま。




