第十四話「帳簿の異変」
ローゼンヴァルト王国、財務を扱う一室。
遠い隣国の政庁で、一人の女性が交易統計の数字に視線を止めていた、ちょうどその頃のことである。
窓の少ないこの部屋では、朝から蝋燭が灯されていた。
紙とインクと、埃の匂い。
壁に並んだ棚には、何十年分もの帳簿が、背表紙の色褪せた順に詰め込まれている。
かつては誰かが几帳面に整えていたのだろうが、近頃は棚の隙間に無造作に押し込まれた冊子が目立つ。
積み上げられた帳簿の山の向こうで、若い役人のハインツが、ペンを持ったまま首を傾げていた。
「おかしいな……」
小さな呟きは、人の少ない部屋の中で妙によく響いた。
「計算は合っているはずなのに。去年までの数字と、どうにも辻褄が合わない」
今期の税収集計を任されている彼は、何度も算盤を弾き直しては、また帳面と睨み合っている。
眉間に刻まれた皺が、昨日よりも深い。
通りがかったのは、宰相のゲオルクだった。
書類を抱え、財務の部屋に用があって足を運んだだけだったが、若者の独り言に足を止める。
白髪の混じった頭を軽く傾げ、温厚そうな顔にいつもの疲れの色を浮かべて尋ねた。
「何か、ございましたかな」
「あ、宰相閣下。いえ、その……徴税額の集計が、例年と比べて妙に食い違っておりまして」
「ふむ。食い違い、と申しますと」
「たとえば北部の徴収分ですが、記録上は去年より増えているはずなのに、実際に納められた額はこれだけ足りないのです」
ハインツが指差した数字を、ゲオルクは眼鏡越しに眺めた。
確かに、開きはある。
だが、気にするほどの額には見えなかった。
「まあ、事務上の些細な行き違いでございましょう。転記のどこかでずれが生じたとか、そういったことは往々にしてあるものです」
「はあ……しかし、三度確認しても」
「では、私のほうでも後ほど詳しく確認するとお約束いたしましょう。あまり根を詰めすぎませんように」
労うような穏やかな言葉を残して、ゲオルクはその場を立ち去った。
この時点では、まだ深刻な予感などなかった。
面倒な事務処理が一つ増えた、という程度の認識だった。
☆
数日が過ぎた。
同じ部屋に、今度は数人の役人が額を寄せ合っている。
机の上には、五年分の集計帳が広げられていた。
「ここから遡っても、どこで狂い始めたのか、まったく見当がつきません」
「転記の誤りなら、どこかに痕跡が残るはずなんだが。全部、辿ったんだぞ」
「毎年この時期になると、なぜか帳尻が合っていたんですが……」
ぽつりと零したのは、勤続二十年になる古株の役人、ブルーノだった。
誰かに向けたというより、独り言に近い声だった。
「合っていた、とは」
「いえ、その。特に何もしていないのに、いつも最後には、数字が綺麗に収まっていたものですから。今年はたまたま調子が悪いだけかと思っていたのですが」
「そういえば」
隣の机の若い役人が、思い出したように口を挟む。
「私が入ったばかりの頃は、月末に書類を出すと、翌朝にはなぜか不備が直された状態で戻ってきていました。てっきり、上の方の誰かが見てくださっているのだとばかり」
「上の方の誰か、か」
ブルーノが、曖昧に笑った。
誰も、その「誰か」が誰であったのか、考えたことがなかったのだ。
その言葉が、部屋の隅で書類を確認していたゲオルクの耳に、妙に引っかかった。
いつも最後には、数字が綺麗に収まっていた。
何もしなくても。
脳裏に、ひとつの声が蘇った。
「宰相様は、私がこの城で何をしてきたか、ご存知のはずです」
責める響きのない、静かな声だった。
あの日、執務室で彼女はそう言ったのだ。
ゲオルクは首を振り、手元の書類に視線を戻した。
気のせいだろう、と自分に言い聞かせる。
今は、それどころではない。
部屋を出たところで、王の側仕えの侍従が、待ち構えたように書付を差し出してきた。
「宰相閣下。陛下より、来月の夜会に関する追加のご予算の件で」
「追加、でございますか。先月の分が、まだ精算も済んでおりませんが」
「ミリアベル様の新しいご衣装と、楽団の増員、それに東方から取り寄せる果実の代金だそうです。……陛下は、すぐにでもとの仰せで」
ゲオルクは書付に目を落とした。
並んだ数字は、去年の同じ時期のほぼ倍。
「承知いたしました。財務の者に言っておきましょう」
曖昧に頷いて、書付を受け取る。
断る言葉が、喉まで出かかった。
だが結局、それは声にならなかった。
宴の準備に回すべき費用は、膨れ上がる一方だ。
帳簿の些細な食い違いなど、後回しにするしかなかった。
☆
その夜、ゲオルクは執務室に一人で残っていた。
燭台の灯りが、机の上に広げた古い帳簿の頁をぼんやりと照らしている。
結局、後回しにしたはずの件が頭から離れなかったのだ。
過去数年分の帳簿を、一冊ずつ引っ張り出して照合していく。
老眼の目には辛い作業だったが、手を止める気にはなれなかった。
「宰相閣下、まだお残りでしたか」
扉が控えめに叩かれ、ハインツが湯気の立つ杯を盆に載せて入ってきた。
「夜も遅いので、お茶をお持ちしました。……何をお調べで」
「いえ、大したことではございません。昔の記録を、少々見返しているだけでして」
「お手伝いしましょうか」
「お気持ちだけ頂いておきます。若い方は、早くお休みなさい」
やんわりと断ると、ハインツは不思議そうな顔をしながらも、一礼して退室した。
扉が閉まるのを見届けてから、ゲオルクは杯に手をつけず、再び帳簿に視線を落とした。
どれくらい時間が過ぎただろうか。
ある頁で、ゲオルクの手が止まった。
数字の脇に、ごく小さな訂正の跡がある。
元の数字が薄く消され、その上から別の数字が丁寧に書き直されていた。
担当者の署名は、どこにもない。
ただ、本来なら記載漏れになっていたはずの項目が、いつのまにか補われている。
別の年の帳簿を開く。
そこにも、同じような跡があった。
不正な流用と思しき箇所が、いつのまにか正しい形に直されている。
次の年も、その次の年も。
毎年、決まった時期に、決まったように。
誰かが、記録に残らない形で、この国の帳簿の綻びを繕い続けていたのだ。
まさか、と思いながら、さらに繰った。
指先でなぞるうちに、ある癖に気がついた。
数字の「7」の中ほどに、必ず細い横棒を一本入れる書き方。
細く、几帳面で、迷いのない筆致。
(この筆跡を、私は知っている)
机の引き出しの奥を探り、過去数年分の書付の束を取り出した。
毎年この時期に回ってきた、北部の穀物庫へ予備の穀物の早期放出を促す指示書の写しだ。
末尾には「宰相ゲオルクの名代として、緊急時の便宜的な手続きを踏む」という一文があり、その下にリーゼロッテの署名がある。
署名の脇に添えられた日付の「7」に、同じ細い横棒があった。
数年前から、こういう書付は何度か自分の手元に回ってきていた。
いつも、事後の報告として。
署名を求められるでもなく、ただ黙って受け取り、何も言わずに引き出しの奥にしまってきた。
――面倒なことにならなければ、それでいい。
そう思っていた。
末尾の署名の名を、見ないふりをした。
誰の名がそこにあるのか、分かっていたからだ。
深く考えれば、見て見ぬふりをしていた自分の姿が浮かび上がってしまうから。
あの年の冬、北部で餓死者が一人も出なかったのは、この一枚のおかげだったのだ。
誰にも知られないまま、誰にも感謝されないまま、彼女はただ、困る人がいなくなるように動き続けていた。
ふと、ゲオルクは手を止めた。
今年の北部の記録に、早期放出が実行された形跡が一行もない。
去年までなら、この時期には必ず、彼女の手による書付が回ってきたはずだった。
いや、と彼は思い当たった。
今年も、書かれてはいたのだ。
引き出しの奥の、さらに底のほうを、震える手で探った。
一通の封書が出てきた。
北部の穀物庫の蔵番からの、返書だった。
――先日の放出指示について、発令者はすでに王妃の座を離れたと聞き及びます。「宰相閣下の名代」を名乗る権限が今なお有効か、判断いたしかねます。恐れながら、閣下の追認を賜るまで、蔵は開きません。
北部までは、早馬でも十日かかる。
あの夜の指示書が蔵に着いた頃には、離縁の報がすでに蔵番の耳に届いていたのだろう。
返書の日付は、リーゼが城を去って、二十日ほど後だった。
封は切られていた。
切ったのは自分だった。
読んで、そのまま引き出しの奥へ押し込んだのだ。
その時は、手続き上の行き違いだと、自分に言い聞かせた。
追認の署名ひとつで、蔵は開いたはずだった。
それを、自分はしなかった。
面倒なことにならなければ、それでいい。
そう思っていた。
その言葉の意味を、今夜になって初めて、数字の裏側から突きつけられている。
蓄えが尽きる春まで、あと何か月あるだろうか。
喉の奥が、ひやりと冷えた。
数えてみれば、過去五年で、その修正の跡は百を超えていた。
知っているつもりだった。
彼女が誰よりも国の内情に通じていることを。
時折、政務の合間に持ち込まれる的確な指摘のことを。
だが、それは氷山の一角に過ぎなかったのだ。
自分が「知っていた」と思っていたものは、彼女が背負っていたもののほんの一部でしかなかった。
公式な役職でもなく、誰に命じられたわけでもなく、リーゼは長年にわたって、この国の見えない綻びを、たった一人で繕い続けていた。
その事実に、今さらながら愕然とする。
「……彼女は、こんなことまで一人でやっていたのか」
声が、掠れた。
☆
蝋燭は、いつのまにか短くなっていた。
ゲオルクは、机に広げた帳簿を前に、身じろぎ一つできずにいる。
この事実を、誰にどう伝えればいいのか。
国王に報告すれば、どうなるか。
エーリヒのことだ。
激昂して、卓上のものを払いのけるかもしれない。
あるいは、聞かなかったことにするか。
いずれにせよ、この話を持ち出せば、自分がこれまで見て見ぬふりをしてきた事実も白日の下に晒されることになる。
彼女に、なんと言えばいい。
もう、彼女はこの国にいない。
あの日、執務室を訪ねてきた時の、感情を押し殺した瞳が脳裏に浮かんだ。
「このままでは、私は……多分、長くは持ちません」
そう告げた声。
それに対して、自分は何と答えたのか。
今しばらく辛抱を、と。
彼女が繕い続けてきたものの重みも知らないまま、さらに耐えろと告げたのだ。
「辛抱、ですか」と繰り返した、あの短い声の意味が、今なら分かる。
何も言えなかった自分の情けなさが、喉の奥に苦く広がった。
ペンを取ろうとして、ゲオルクの手は止まったままだった。
誰に伝えるべきか。
いや、そもそも、伝えるべきなのか。
蝋燭の炎が、小さく揺れて消えかけている。
その答えを、ゲオルクはまだ見つけられずにいた。




