第十五話「あなたの話をする時だけ」
交易税の改革が動き出してから、ひと月が過ぎていた。
政庁の一室、書類仕事の合間。
窓から差し込む光の中で、リーゼは積み上げられた報告書に目を通していた。
ペンを走らせる音だけが、昼下がりの部屋に響いている。
この一室も、すっかり馴染んだ場所になった。
机の配置も、インク壺の位置も、迷わず手が伸びる。
王城の私室とは比べ物にならないほど手狭で飾り気のない部屋だが、ここでの時間は不思議なほど心地よかった。
誰かに監視されているわけでも、値踏みされているわけでもない。
ただ、仕事をして、それが積み上がっていく。
それだけの、単純な日々だった。
「これも頼む」
声とともに、新しい書類の束が机の上に置かれた。
顔を上げると、フェリクスが軽い足取りでやってきたところだった。
以前のような探るような目つきは、もうどこにもない。
「……お前が来てから、俺の仕事がずいぶん楽になった」
「それは光栄です」
苦笑まじりに答えると、フェリクスは近くの椅子を引き寄せて、すっかり馴染んだ様子で腰を下ろした。
「本当に楽になった。前は、一つの案件を通すのに三日はかかっていた。今は、お前が先に矛盾を潰しておいてくれるから、半日で済む」
「それは、大袈裟です」
「大袈裟なものか」
フェリクスは書類の束をぱらぱらとめくりながら続けた。
「お前が来る前は、この部署の連中、揃いも揃って書類の不備を見逃してばかりでな。俺が一つずつ突き返すのも、いい加減うんざりしていたところだ」
「皆さん、忙しいのだと思います」
「忙しいのはお前も同じだろう。言い訳にはならん」
手厳しい物言いだったが、その声にはどこか親しみが滲んでいた。
こうした何気ない軽口を交わせる相手がいることに、リーゼはあらためて安堵を覚える。
王城では、誰かと軽口を交わすことすら久しくなかった。
皮肉や当てこすりならば嫌というほど浴びせられてきたが、これほど気安いやり取りは、記憶にある限りずっと昔のことのように思えた。
「そういえば」
フェリクスが、思い出したように言った。
「先日の評議で、お前の改革案に難癖をつけてきた貴族がいただろう。あの、東の領地を持つ伯爵とかいう」
「……ええ、覚えています」
開始当初、たびたび異を唱えてきた評議員のひとりだった。
今では表立った反発こそ収まっているが、あの時のやり取りはリーゼの記憶にもまだ新しい。
「あの後、閣下がわざわざその伯爵の元まで出向いて、直々に釘を刺しに行ったらしいぞ」
リーゼは驚いて顔を上げた。
「そんなことが……知りませんでした」
「知らなくて当然だ。閣下は、そういうことをわざわざ本人に言わないからな」
フェリクスは肩をすくめ、意味ありげな笑みを浮かべた。
「本来なら、俺が使いを出せば済む話だ。閣下自ら足を運ぶような案件でもない。だが、あの日は珍しく、俺の言葉も待たずに馬を用意させていた。普段は、余計な後始末なんぞ俺に丸投げしてくる人なのに、お前の名前が絡むと、なぜか自分で動く」
「単に、責任の所在の問題では」
「まあ、それもあるだろうがな」
フェリクスは腕を組んで椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「先々週の視察の件も、そうだ。予定になかった公国北部の集落まで、わざわざ足を延ばされた。理由を聞いたら、『お前が改革案に書いていた地域だ』の一言で終わりだ。あの人が、書類の中の地名一つに、そこまで反応したのを見たのは初めてだった」
「それは……たまたま、近くをお通りになったのでは」
「わざわざ馬で半日走って『近く』とは、便利な言葉だな」
からかうような口調に、リーゼは何も言い返せなかった。
「他にもある。お前が担当した案件の報告書は、他の誰のものより先に目を通す。以前は俺が優先順位をつけて渡していたんだが、最近はお前の名が入っている書類だけ、自分から探して読んでいるらしい」
「……偶然では」
「偶然が、ひと月も続くか」
畳みかけるように言われて、リーゼは言葉に詰まった。
「それに、これは俺の見立てだが」
フェリクスは声を落とし、悪戯っぽい表情を浮かべた。
それから、わざとらしく居住まいを正し、芝居がかった改まった口調に切り替える。
「大公があなたの話をする時だけ、表情が違うんですよ」
リーゼは、動きを止めた。
「他の誰の話をする時とも、違う」
「具体的に、どう違うと」
動揺を押し隠すように、リーゼは努めて平静な声を作った。
だが、それがかえって不自然に響いたことに、自分でも気づいていた。
「普段は、声に抑揚がない方です。感心した時も呆れた時も、大体同じ調子で片付ける。ですが、あなたの名前が話に出ると、僅かにですが声が変わる。柔らかくなる、とでも言いますか。あれだけ言葉数の少ない人が、あなたのこととなると、やけに具体的に話すんです。あの人が、あんなに人の話をするのを、私は初めて見ました」
「……それは、フェリクス様の思い過ごしでは」
「思い過ごしなら、こんなに面白がって話したりしません」
悪びれもせずに言い切られ、リーゼはますます返す言葉を失った。
頭が、一瞬真っ白になる。
「そんな、まさか……」
否定しようとした声が、自分でも驚くほど上ずっていた。
喉が、急に狭くなったような感覚がある。
手にしていたペンを、思わず握り直した。
指先が、じんわりと汗ばんでいる。
これまでの日々を、慌ただしく思い返す。
厳しい指摘をされたこと。
素っ気なく「よくやったな」とだけ告げられたこと。
反発する古参たちを前に、自分の代わりに直談判に行ってくれたこと。
どれも、公正な評価の一環だと思ってきた。
だが、フェリクスの言う「違い」が本当だとしたら、それらの一つ一つに、また別の意味が重なってくる。
フェリクスは、そんなリーゼの反応を面白がるように、目を細めている。
「まさか、と即座に否定するところが、逆に怪しいですね」
「……からかわないでください」
「からかってはいませんよ。ただの、事実を述べたまでです」
紙の上で、ペン先が止まっていた。
インクが滲んで、小さな黒い点が広がっていく。
それに気づいていながら、手が動かなかった。
(そんなことが、あるはずない)
頭ではそう思うのに、胸の奥では、別の何かがざわめいている。
これまで、誰かにこんな感情を向けられたことなど一度もなかった。
エーリヒからは、道具のように扱われこそすれ、こんなふうに個人として意識されたことなど一度もなかったのだから。
だから、それが何を意味するのか、自分でもうまく判別できずにいる。
「まあ、あなたには自覚がないほうが、面白いのかもしれませんが」
フェリクスは楽しげにそう締めくくると、机の端に置いていた自分の書類を、ようやく手元に引き寄せた。
「あの、フェリクス様」
「なんです」
「今の話は……閣下にお伝えになるおつもりですか」
思わず尋ねると、フェリクスは驚いたように目を丸くし、それから盛大に噴き出した。
「まさか。自分から火中に飛び込むような真似はしません。ただ、あなたが気づかないまま、いつまでも知らんぷりを続けるのも、それはそれで見ていて歯痒いので」
「見ていて歯痒い、とは」
「言葉通りの意味です」
はぐらかすように言うと、フェリクスは椅子から立ち上がろうとした。
その時だった。
部屋の扉が、前置きもなく開いた。
「フェリクス、例の件は――」
書類を片手に入ってきたのは、ヴィンだった。
いつもと変わらない、素っ気ない声。
フェリクスとの用件があるらしく、リーゼのほうには目もくれず、まっすぐに歩を進めてくる。
だが、言いかけたヴィンの視線が、ふとリーゼへ向いた。
「……どうした、そんな顔をして」
怪訝そうに、眉が寄せられる。
何でもありません、と答えるべきだと分かっているのに、声が出てこない。
頬が、燃えるように熱い。
フェリクスに指摘されたばかりの言葉が、頭の中で何度も反響している。
「具合でも悪いのか」
ヴィンが、心配そうに一歩、距離を詰めてくる。
他意のない、純粋な気遣いだった。
だが、その距離の近さが、今のリーゼにはかえって毒だった。
「い、いえ。何でもありません。少し、部屋が暑いだけです」
しどろもどろに答えながら、リーゼは思わず一歩、後ずさった。
自分でも、何を言っているのか分からない。
窓は開いていて、風も通っている。
暑いはずなど、どこにもなかった。
ヴィンは訝しげな顔のまま、リーゼをじっと見つめていた。
何かを探るような、あるいは見定めるような視線。
それが、フェリクスの言葉を聞いた後の今のリーゼには、これまでとは違う重みを持って感じられる。
傍らでは、フェリクスが素知らぬ顔で書類を整えながらも、口の端をわずかに持ち上げているのが見えた。
助け舟を出す気配は、少しもない。
むしろ、この状況そのものを面白がっているようだった。
リーゼは、会釈を返すことしかできなかった。
動悸は、まだ収まりそうになかった。




