第十六話「都落ちと呼ぶなら」
「……ならいい。それより例の件だが」
頬を赤らめたリーゼに、ヴィンは怪訝な顔をしながらも、それ以上は深く追及せず、ぶっきらぼうに話題を進めた。
差し出された書類に視線を落とし、フェリクスと短いやり取りを交わす。
フェリクスはもう、いつもの皮肉な調子に戻っていた。
あっけないほどあっさりした流れだった。
追及されなかったことに、リーゼは安堵する。
同時に、どこか肩透かしを食らったようなもどかしさが残った。
もっと何か言われるだろうと身構えていた分、その反動が取り残されている。
用件を終えたヴィンが踵を返す間際、彼はほんの一瞬、視線を逸らした。
何かを堪えるような、あるいは誤魔化すような、ごく小さな仕草だった。
それが何を意味するのか、リーゼには気づく余裕がなかった。
彼もまた何かを感じ取って動揺を隠していたことなど、想像もしていない。
その日の残りの時間、リーゼは何度も先ほどの自分の狼狽を思い返しては、頬が熱くなるのを感じていた。
フェリクスは何食わぬ顔で仕事を続けていたが、時折こちらをちらりと見ては口元を緩めている。
からかわれているのだと分かっていても、どう応じればいいのか分からなかった。
夕刻、帰り支度をしていると、ヨーゼフがぼそりと言った。
「今日はやけに静かだったな」
「そう、でしたか」
「いつもは独り言みたいに数字をぶつぶつ言ってるだろう。今日はそれがなかった」
見られていないようで、案外見られているものらしい。
リーゼは曖昧に頷くことしかできなかった。
☆
数日後、アルダーシュを訪れた他国の使節を迎える、公式の宴が催されることになった。
交易税の改革が一段落し、国内の財政にも僅かながら余裕が生まれ始めている。
その成果を内外に示す意味も込めて、公国側はこの機会に力を入れているらしかった。
「私も出席するのですか」
招待の名簿に自分の名があることを知らされ、リーゼは戸惑いを隠せなかった。
「改革を実際に担当した者として、同席してもらう。何かあればフェリクスがそばに付く」
ヴィンの言葉に、否定を唱える余地はなかった。
宿に戻ってその話をすると、カタリナは目を輝かせた。
「正装ですか。任せてください、腕によりをかけますから」
「あまり目立つ格好は……」
「大丈夫です。派手すぎず、でも埋もれない程度に」
カタリナは張り切って町の仕立て屋を駆け回り、装飾を抑えつつも仕立ての良い一着を見繕ってきた。
鏡の前に立たされたリーゼは、しばらく自分の姿を見つめる。
地味な色ばかりを選んでいた王城の頃とは、少し違う自分が映っていた。
「……悪くない、と思います」
「悪くない、じゃなくて綺麗です。もっと自信を持ってください」
カタリナに背中を叩かれ、リーゼは眉を下げて苦笑した。
当日、その正装に身を包んだリーゼは、会場の隅で居心地の悪さを噛み締めていた。
招待客たちの視線が、時折こちらに向けられる。
国境を越えた噂は、思いのほか早かったらしい。
ローゼンヴァルトの噂を伝え聞いた行商人や、外交筋の間で交わされる話が、この国にも静かに流れ込んでいたのだった。
「あの臨時雇いが、随分と出世したものだ」という囁きなら、まだよかった。
だが、招待客のひとり――金糸の装飾を纏った、混乱が始まる前に本国を発ったローゼンヴァルトの使節団の貴族が、探るような視線をリーゼに向けたあと、周囲に聞こえる声でこう言い放った。
「ああ……あなたが、あの離縁された王妃殿ですか。銀灰色の髪に、リーゼというお名前。噂のとおりだ。随分と都落ちしたものですね」
一瞬、場がざわめいた。
好奇と侮蔑の入り混じった視線が、リーゼに集まる。
身体が一瞬強張った。
だがそれも一瞬のことで、すぐに、これまでの経験から染みついた術が静かに動き出す。
表情を崩さないこと。
それだけは、もう体が覚えている。
リーゼは深く一礼し、何も答えずにいた。
男はリーゼの無反応をさらに面白がるように続けた。
「王妃という肩書きを捨てて、隣国で下働きとは。よほど居心地が悪かったと見える」
周囲から忍び笑いが漏れるも、リーゼは表情を変えなかった。
ここで動揺すれば、それこそ相手の思う壺だ。
何も答えないことこそが、今の自分にできる最善の応戦だった。
脳裏に、遠い記憶が蘇る。
かつての夜会で、同じように壁際に立ち、同じように陰口を叩かれていた自分。
あの頃と今と、何が違うのだろうか。
場所も装いも境遇も違うけれど、こうして誰かに嘲られる痛みだけは少しも変わらない。
――いや。
リーゼは密かに思い直した。
あの頃は、耐えることしかできなかった。
今は、耐えることを選んでいる。
自分の意志で、この場に立っている。
その違いは、決して小さくない。
☆
割って入ったのは、ヴィンだった。
いつの間にそこにいたのか、リーゼが気づいた時にはもう、彼はすぐ隣に立っていた。
人混みをかき分けるようにして歩み寄ってきたのだろう、その足取りには隠しきれない苛立ちが滲んでいる。
リーゼの素性は、ヴィンもフェリクスもすでに知っている。
二人とも、少しも動揺を見せなかった。
「彼女の能力は、肩書きとは関係ない」
低く、はっきりとした声だった。
会場の空気が、一瞬で張り詰める。
「この国がここまで持ち直したのは、彼女の仕事があったからだ。それを都落ちと呼ぶなら――お前の目は節穴だな」
容赦のない物言いに、招待客たちがどよめく。
声をかけた男の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「フェリクス、資料を」
「は」
フェリクスがすかさず一枚の紙を差し出す。
改革の成果をまとめた、簡潔な報告書だった。
「彼女がここに来るまでに何を捨てたか、あなた方には分からないでしょう」
フェリクスの援護にも、少しの容赦もなかった。
柔らかな物腰の奥に、確かな刃が仕込まれている。
男は二人の勢いに気圧されたように、言葉を継げずにいた。
周囲の招待客たちも、先ほどまでの好奇の色を潜め、気まずそうに目を逸らし始める。
誰も、この場でヴィンとフェリクスを相手取ろうとはしなかった。
先ほどまでリーゼに好奇の視線を向けていた者たちの中には、掌を返したように「実は以前から只者ではないと思っておりましたの」などと擦り寄ってくる者もいる。
その豹変ぶりに、リーゼは笑いを堪えた。
人の評価とは、これほどまでに後ろ盾ひとつで容易く裏返るものなのか。
少し離れた場所で、先ほどの男の同国の随員たちが、気まずそうに顔を見合わせているのが見えた。
フェリクスはそんな彼らを一瞥すると、何事もなかったかのように資料を懐にしまい、リーゼへ小さく目配せをした。
うまくやった、とでも言いたげな顔だった。
誰かに公然と庇われるという経験が、リーゼにはあまりにも久しぶりだった。
王城では、こんなふうに誰かが自分のために声を上げてくれたことなど、一度もなかった。
うまく実感が追いつかない。
ただ、目の奥が熱くなるのを堪えながら、リーゼは立ち尽くすことしかできなかった。
男はそれ以上は何も言わず、そそくさとその場を離れていった。
周囲のざわめきも、少しずつ元の喧騒に戻っていく。
☆
騒ぎが収まった後、リーゼは宴の喧騒から少し離れた回廊に出ていた。
あの夜、王城の窓辺で受けたのと同じ夜風が、火照った頬に触れる。
けれど今夜は、ひとりではなかった。
張り詰めていた緊張が緩んだ途端、足の力が抜けそうになり、リーゼは石造りの手すりに軽く手を添えた。
夜空には、星がまばらに瞬いている。
王城で見上げた夜空と同じ星のはずなのに、ここで見上げるとどこか違って見えた。
少し遅れて、ヴィンが姿を見せた。
フェリクスは招待客の対応にまだ追われているらしく、この場にはいない。
「あの、先ほどは――」
リーゼが改めて礼を言おうとすると、ヴィンは片手を軽く挙げてそれを制した。
「別に、あんなことを言われて黙っている道理はない。当然のことをしたまでだ」
あくまで淡々とした口調だったが、その声には少しも迷いがなかった。
リーゼはその素っ気なさの奥に、確かな誠実さを見た気がした。
気まずそうに視線を逸らしながら、ヴィンはぼそりと呟いた。
「……礼はいい。それより」
「それより?」
問い返すと、ヴィンは一瞬、言葉に迷うような間を置いた。
夜風に、彼の前髪が僅かに揺れる。
「……いや。今はいい」
何かを言いかけて、結局は飲み込んだ横顔だった。
その横顔に、リーゼは胸がざわつくのを感じた。
何を言おうとしたのか、聞きたいような、聞くのが怖いような、そんな落ち着かない気持ちが渦を巻いている。
「……分かりました」
それ以上は追及せず、リーゼは静かにそう答えた。
ヴィンは少しだけ安堵したような、それでもまだ何か言い足りなさそうな表情のまま、夜空を見上げた。
二人の間に、しばらく沈黙が続いた。
会場の喧騒が、遠くくぐもった音になって届いている。
気まずいはずのその沈黙が、リーゼには不思議と嫌ではなかった。




