第十七話「夜の本音」
数日が過ぎた、ある夕刻のことだった。
政務を終え、書類を片付けていたリーゼの元に、ヴィンがふらりと姿を見せた。
用件があるふうでもなく、扉の前で珍しく言い淀むような間を置いてから、彼は言った。
「……少し、歩かないか」
あまりにも唐突な誘いに、リーゼは一瞬、聞き間違えたかと思った。
手にしていたペンを、思わず机に置く。
「歩く、とは……散策、でしょうか」
「そうだ。それだけだ」
ヴィンはいつもの淡々とした調子を装おうとしていたが、その視線は落ち着きなく、書棚と窓の外とを行き来していた。
こんな彼の様子を見るのは、初めてだった。
理由を尋ねようとしたリーゼだったが、ヴィンの表情にいつになく落ち着かない色が滲んでいるのに気づき、結局何も聞かずに頷いた。
扉の脇では、宿の仕事の合間にリーゼの昼食を届けに来てそのままいたカタリナが、二人のやり取りに目を丸くしていた。
ヴィンが立ち去ると、彼女はにやにやとした笑みを隠しもせずに近づいてくる。
「散策、ですか。あの方がお誘いに」
「仕事の話の続きだと思います」
「そういうことにしておきましょうか」
含みのある言い方に、リーゼは眉を寄せたが、それ以上は取り合わず、支度を整えて部屋を出た。
☆
政庁の裏手に広がる庭園は、夕暮れの茜色に染まっていた。
石造りの回廊を抜け、庭へ続く扉をくぐる間、二人はほとんど言葉を交わさなかった。
ただ、隣を歩くヴィンの歩調に、リーゼは自然と自分の歩幅を合わせていた。
かつん、かつん、と石畳を踏む足音だけが、乾いて響く。
手入れの行き届いた花壇の間を、二人は並んで歩く。
誰の目も気にせず、誰かに報告するでもなく、ただ歩くためだけに歩く。
そんな時間を過ごすのは、リーゼにとって随分と久しぶりのことだった。
目的もなく誰かと並んで歩くことが、こんなにも自然に感じられるのは初めてかもしれない、と思う。
王城にいた頃は、誰かと肩を並べて歩くことすら許された記憶がなかった。
常に一歩下がり、誰かの後ろを歩く。
それが王妃としての立場だと、いつのまにか思い込んでいた。
「珍しいですね。閣下からこうしてお誘いいただくのは」
「珍しくて悪いか」
「いえ、そういうわけでは」
軽いやり取りに、リーゼは口元をほころばせた。
隣を歩くヴィンは、いつもより歩調が緩やかで、時折花壇に目をやりながら、何かを考えているような様子だった。
「あの花は、フェリクスが植えたものだ」
ふいに、ヴィンが指差した先には、薄紫色の小さな花が群れをなして咲いていた。
「フェリクス様が?」
「先代の頃から、あそこだけ荒れていてな。誰も手を入れようとしなかった。あいつが暇な時にこっそり世話をしていたらしい」
「意外です。もっと合理的な方かと」
「あいつも存外、情の深いところがある。俺の前でだけは隠しもしないがな。今度、褒めておこう。……いや、本人には言うな。調子に乗る」
「言いません」
くすりと笑うと、ヴィンも僅かに口元を緩めた。
この人がこんなふうに他愛のない世間話をする姿を、リーゼは初めて見た気がした。
仕事の話でも政務の話でもない。
ただ隣を歩く相手と、何気ない時間を共有しているだけの会話。
夕陽が、木々の影を長く伸ばしていた。
☆
庭園の一角、小さな噴水のそばで、ヴィンはふと足を止めた。
しばらくの沈黙のあと、彼はぽつりと切り出した。
「前々から、聞きたかったことがある」
その声の調子に、リーゼは自然と姿勢を正した。
「あれだけのことをされて、なぜ黙って耐えていた。反論も抗議もできたはずだ」
王城での日々を指しているのだと、すぐに分かった。
功績を横取りされ、人前で貶められ、それでも笑って頭を下げ続けていた日々。
この人は、ずっとそれを気にかけていたのだ。
誰にも聞かれなかった問いを、今、初めて誰かが口にした。
その問いに、リーゼはすぐには答えられなかった。
これまで誰にも、カタリナにすら、はっきりとは語ったことのない本心に、彼は真っ直ぐに触れようとしている。
逃げ道を探すように、視線を噴水の水面へ落とした。
夕陽を映した水面が、小さく揺れている。
誤魔化そうと思えば、いくらでも誤魔化せる問いだった。
「そういう性分なので」とでも答えれば、それで会話は終わるはずだ。
だが、この人の前でそんな上辺だけの言葉を口にすることが、なぜかできなかった。
「……抗議して、何になるとも思えませんでした」
絞り出すように、まずそれだけを口にする。
「王城では、誰も私の言葉を聞いてはくれませんでしたから。声を上げれば上げるほど、扱いにくい女だと余計に軽んじられるだけでした」
ヴィンは何も口を挟まずに、黙って聞いていた。
「……ただ」
その先の言葉が、喉の奥で詰まる。
数字の話にすり替えてしまいたい衝動が、いつものように込み上げてきた。
だが今は、それを許されないような気がした。
「ただ、認めてもらいたかっただけなんです」
夜風に紛れさせるように、リーゼは続けた。
「褒めてほしいとか、そういうことではなく。ちゃんと、見てもらいたかった。……亡くなった母は、私が役に立つ間だけ、笑ってくれました。母の形見の帳簿帳は、今も持っています。あれを開くたびに、役に立てなければ価値がないのだと、思い出してしまうのですが」
言葉にした瞬間、長年閉じ込めてきた何かが、少しずつ形を持ち始める。
誰にも打ち明けたことのない、幼い頃からの願い。
役に立つことでしか、自分の価値を示せなかった日々。
「馬鹿みたいですよね。それだけのために、ずっと」
自嘲するように、リーゼは付け加えた。
言った瞬間、長年の重荷がほんの少しだけ軽くなる感覚がある。
同時に、弱さを曝け出したことへの居心地の悪さも、拭いきれずに残っていた。
こんな話をして、呆れられるかもしれない。
今更そんな子供じみたことをと笑われるかもしれない。
そう思うと続きを口にするのが怖くなり、リーゼは俯いたまま口を噤んだ。
☆
ヴィンはしばらく黙っていた。
夕陽が沈みかけ、庭園の色が茜色から深い藍色へと移り変わっていく。
噴水の水音だけが、絶え間なく響いていた。
リーゼは返事を待つ間、自分の胸の鼓動がやけに大きく聞こえることに気づいていた。
呆れられるだろうか。
あるいは、同情されるだろうか。
どちらであっても、今更傷つくようなことではないはずだった。
それなのに、この人の反応だけはなぜか怖かった。
「馬鹿になんかしていない」
ヴィンははっきりと言った。
「むしろ――よく一人で持ちこたえたな」
その一言が、リーゼの奥深くにゆっくりと染み込んでいく。
同情でも慰めでもなかった。
ただ事実をそのまま認める、まっすぐな声だった。
持ちこたえた、という言葉に、これまでの日々が初めて誰かに肯定された気がした。
「俺も、似たようなものだ」
ふいに、ヴィンが言葉を継いだ。
「継いだ時、周りの誰もが若造に何ができるとたかをくくっていた。何を言っても聞く耳を持たれない。結果を出すまで、誰にも信じてもらえない。……だから、お前が黙って耐えていた気持ちが、多少は分かるつもりだ」
リーゼは目を見開いた。
この人にも、そんな時期があったのか。
今の堂々とした姿からは、想像もつかなかった。
「今は、誰もが閣下を頼りにしています」
「今はな。だが、あの頃は違った」
ヴィンは噴水の水面を見つめたまま、低い声で続けた。
「だから、成果を出す人間を正しく評価すると決めている。俺自身が、そうしてもらえなかったから。……お前の机の上に、古い帳簿帳があるのを見た。あれが、母君の形見か」
「……はい」
「大事にしておけ」
それだけ言って、彼は少し黙った。
「……閣下は」
リーゼは思い切って尋ねた。
「なぜ、そこまで気にかけてくださるのですか」
ヴィンは一瞬、答えに詰まったようだった。
夕闇の中で、彼の横顔がわずかに強張ったのが見える。
「……さあな」
そう答えて、彼は再び黙り込んだ。
誤魔化すような、それでいて何かを堪えるような沈黙だった。
噴水の水音だけが、二人の間に流れる静けさをかすかに埋めている。
リーゼはもう一度尋ねようかと迷ったが、結局は口を噤んだ。
この沈黙を壊すことが、今はなぜか惜しく思えたからだ。
風が、木々の葉をさらさらと揺らしている。
隣に立つヴィンの横顔を、リーゼはそっと盗み見た。
整った横顔に、夕闇の名残が青みがかった陰影を落としている。
何を考えているのか、その表情からは読み取れなくても、隣に立つ気配だけでなぜか十分だと感じられた。
誰かとただ黙って並んでいるだけで、こんなにも満たされた気持ちになれるとは、思ってもみなかった。
役に立つことでしか自分の存在を測れなかったはずの自分が、今はただここにいるだけでいいのだと、誰かに許されているような錯覚を覚える。
ただそれだけの沈黙が、これまでのどんな言葉よりも雄弁だった。




