第十八話「離れていく人心」
同じ頃、遠く離れたローゼンヴァルトの王都では、夕暮れの空に怒声が響いていた。
城門の前の広場には、朝から人が集まり続けている。
粗末な外套の肩を寄せ合う職人、空の籠を抱えた女たち、子供の手を引いた年寄り。
誰かが叫べば別の誰かがそれに続き、声は次第に一つの塊になって、石の城壁に跳ね返っていた。
「食う物が無いぞ!」
「北の村じゃ、蔵が開かないと聞いたぞ」
「王様は宴のことしか頭にないのか!ふざけんな!」
王城の上階、窓辺に立つゲオルクは、その光景を黙って見下ろしていた。
この数日で、穀物の値は倍近くに跳ね上がった。
市場に出回る量が減ったのは、収穫の不足だけが理由ではない。
商人たちが先行きを見越して蔵を閉ざし始めたのだ。
本来なら、王家の蔵から予備の穀物を早めに放出して相場を抑えるべき時期だった。
それが、誰の手からも出ていない。
背後で、扉が乱暴に開いた。
「宰相閣下、衛兵隊長より至急のご報告です」
「聞きましょう」
「群衆が門の閂に手をかけようとしております。今はどうにか押し止めておりますが、日が落ちれば松明を持ち出す者も出かねません」
ゲオルクはゆっくりと息を吐いた。
「決して民に向けて槍を構えぬよう。抜かせてはなりません。それだけは私の名で命じます」
「しかし、陛下のご裁可が――」
「陛下には、私から申し上げます」
伝令が下がったあとも、ゲオルクは窓から目を離せなかった。
あの夜、執務室で見つけた指示書の写しが、頭の隅から消えない。
北部への早期放出。
毎年この時期になれば、誰にも知られぬまま回ってきていた一枚の書付。
今年はそれが実行されなかった。
彼は自分で代わりの指示書を書いた。
宰相の名で、署名も印も揃えて、各地の蔵の管理者に宛てて送った。
形式に不足はなかったはずだった。
だが、返ってきたのは、届いたのかどうかも分からない沈黙と、「根拠の写しをお示しください」という困惑した返書ばかりだった。
名代の一文は、あくまで枠にすぎなかったのだ。
彼女が王妃の座を離れた途端、その枠が失効し、北部の蔵番は動けなくなった。
追認の署名ひとつで、枠は自分が与えてやれたはずなのに。
一方、枠のあった頃、誰もその中身を疑わなかった。
何年もかけて積み上がった、彼女の筆跡そのものへの信用があったからだ。
枠は自分が持っていた。
中身を持っていたのは、彼女のほうだった。
引き出しに溜めてきた書付の写しを見比べると、彼女の書き方は宛先ごとに違っていた。
ある蔵番には数字を先に、別の蔵番には理由を先に。
疑り深い者には根拠の写しを添え、気の弱い者には責任は自分が負うと一行添えて。
あれは、蔵ごとの人間の癖まで頭に入れた者にしか書けない文だった。
自分は、その一通一通を、引き出しの奥にしまい込んできただけだ。
窓の下で、広場の声がまた一段大きくなった。
☆
数日後の午後、ゲオルクの執務室の扉を、控えめな音が叩いた。
「お時間を頂けますでしょうか」
入ってきたのは、財務の部屋のハインツだった。
あの夜、湯気の立つ杯を運んできた若者である。
手には、白い封書が一通。
その持ち方で、中身の察しはついた。
「申し訳ございません、宰相閣下。……もう、これ以上は」
深く頭を下げた拍子に、封書を持つ指先がかすかに震えた。
「辞表、ですか」
「はい」
ゲオルクはすぐには手を伸ばせなかった。
このひと月で財務の部屋から去った者は、これで五人目になる。
残った者たちの机には、片付けきれない帳簿が積み上がり、誰の筆跡とも知れない付箋があちこちで増えていた。
「せめて冬を越すまで、というわけには参りませんか。あなたが抜けては、集計が回らなくなる」
「回っておりません、もう」
ハインツは顔を上げた。
疲れた目の縁が赤い。
しかし、その目には恨みがましい色はなかった。
あるのは、言い出すまでに何度も飲み込んだ言葉の重さだった。
「何を直しても、翌日には別の場所が狂うのです。どこを繕えばいいのか、誰にも分からない。……私は閣下が悪いとは思っておりません。ただ」
言葉がそこで一度途切れる。
若者は唇を噛み、それから低い声で、しかしはっきりと言った。
「あなたも、早く見切りをつけた方がいい」
ゲオルクの手が、机の上で止まった。
「誰もまともに舵を取ろうとしていないこの国に、いつまでしがみつくおつもりですか」
反論しようとして、言葉が出てこなかった。
言い返せるだけの理屈は、いくらでも並べられる。
宰相が去れば、それこそ国は崩れる。
誰かが残らなければならない。
そう口にしかけて、その「誰か」が自分の保身の別名にすぎないことに、他ならぬゲオルク自身が気づいていた。
この若者の言葉を、誰よりも否定できないのは自分だった。
「……お預かりします」
ようやく絞り出した声は、自分のものとは思えないほど乾いていた。
辞表を受け取る指先に、紙の冷たさだけが残る。
ハインツは一礼し、何かを言い足そうとして、結局やめた。
扉が閉まる音は、思いのほか小さかった。
有能な者から先に、一人、また一人と音もなく去っていく。
☆
その翌日、謁見の間には重臣たちが顔を揃えていた。
議題は、城門前の群衆への対応である。
玉座に近い椅子に、エーリヒは深く身を沈めていた。
傍らにはミリアベルが控え、膝の上で小さな手鏡を弄んでいる。
「――以上の理由により、備蓄の放出と当面の宴の縮小をお願い申し上げます」
ゲオルクが述べ終えると、重い沈黙が落ちた。
エーリヒの指が、父王から受け継いだ豪奢な指輪を、くるり、くるりと回している。
「宴を減らせば、諸侯に足元を見られる」
「民が飢えれば、足元どころか足場そのものが崩れます」
「言葉が過ぎるぞ、ゲオルク」
エーリヒの声が、低く尖った。
指輪を回す速さが、目に見えて増していく。
「対応が遅いと言うが、お前たちは何をしていた。宰相だろう。財務だろう。金が足りぬのなら、足りるようにするのが仕事のはずだ」
誰も答えなかった。
答えられる者が、この場にいなかった。
エーリヒの視線が、ふと横へ滑った。
「ミリアベル」
名を呼ばれ、寵姫がはっとしたように顔を上げる。
「お前の考えとやらは、どこへ行った。何か策があるのではなかったのか。減税も北の備えも、お前の発案だと俺は聞いていたぞ」
ミリアベルの表情が、一瞬凍りついた。
「わ、わたくしは……」
愛らしく傾げられるはずだった首は、途中で止まった。
唇が小さく開き、閉じ、また開く。
これまで一度も見せたことのない狼狽が、その顔に浮かんでいた。
「そんな、無理を仰らないでください。あれは、その、陛下のお力添えがあってこそで……」
「俺の力添え、だと」
「わたくし一人で、そのような大きなことができるはずがございませんもの」
言い訳が重なっていく。
彼女の指はいつのまにか手鏡を握りしめ、もう片方の手が、乱れてもいない髪を何度も撫でつけていた。
エーリヒの顔から、人当たりの良い笑みがすっと消えた。
「では、誰が考えたのだ」
問いを叩きつけるような声だった。
手が肘掛けを、ぱん、と打つ。
指輪が石に当たって、乾いた音が響いた。
ミリアベルは何も答えなかった。
答えの代わりに、目が泳いだ。
これまで表向き取り繕われてきた二人の関係に、初めて誰の目にも明らかな亀裂が走る。
居並ぶ重臣たちは、そろって視線を床に落とした。
咳払い一つ、衣擦れ一つ聞こえない。
気まずい沈黙が、広間の隅々まで満ちていく。
その静けさの中で、ゲオルクは一つのことをはっきりと悟っていた。
誰かが答えなければならない問いだった。
そして、その答えを知っているのは、この広間で自分ひとりだった。
(――この国は、もう長くない)
胸の内で、その言葉が形を持っていく。
悲しみとも諦めとも違う。
ただ、そうなるべくしてなったものを、ようやく正面から見たという、冷えた確信だった。
☆
夜、王城の一室は、灯りを落としたあとのように静まり返っていた。
ゲオルクは財務の部屋の入口に立ち、手燭を掲げた。
橙色の光が、並んだ机を順に照らしていく。
インク壺の蓋がきちんと閉じられたままの机。
書きかけの紙が文鎮の下に残された机。
椅子の背に、誰かの上着がかけられたままの机。
去った者たちは、片付ける暇もなく、あるいは片付ける気力もなく、ここを離れていったのだろう。
いくつもの机が、空いていた。
ゲオルクはその一つひとつを、黙って見つめる。
誰もいなくなった机の上に、埃だけが薄く積もり始めていた。
指先でほんの少しなぞってみる。
灰色の粉が、光の中でゆっくりと舞い上がった。
ハインツの机も、その並びの端にあった。
整えられた筆記具の横に、あの夜、彼が運んできた杯が洗われないまま置かれている。
もう、自分ひとりで支えきれる規模の綻びではない。
それでも、何をすべきか、答えはまだ出ないままだった。
手燭の炎が、隙間風にわずかに揺れる。
窓の外では、城門前の群衆の声が、夜になっても途切れることなく続いていた。




