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私がいなくても回る国だそうなので、王妃の座をお返しします。復縁?お断りです~有能すぎた元王妃は隣国で大切にされています~  作者: 猫燕


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第十九話「式典の称賛」

朝から鐘が鳴っていた。

アルダーシュ公国、政庁前の広場。

石畳は前夜のうちに掃き清められ、庁舎の壁には質素ながら色鮮やかな布が幾筋も垂らされている。

荷馬車は今日だけ町の外れで足止めされ、代わりに正装に身を改めた領民たちが、ぞろぞろと広場に集まり始めていた。


遠いローゼンヴァルトの城門前には、怒声が満ちているという。

だがこの国の広場に満ちているのは、まだ眠気の残る子供の声と、焼き菓子を並べる屋台の呼び込みと、久しぶりに袖を通した晴れ着の衣擦れの音だった。

交易税の改革の成果を祝う、公式の式典である。


「動かないでください。襟が曲がります」

「もう十分です、カタリナ」

「十分じゃありません。今日はリーゼ様が主役なんですから」


庁舎の控えの間で、カタリナは何度目かの襟元の直しに取りかかっていた。

前回の宴の時よりも少し明るい、薄い青の礼装だった。

派手さはないが、裾に施された細い刺繍が、動くたびに光を拾う。


「主役、というのは違うと思います。改革を進めたのは皆さんです」

「そうやってすぐ半分に削るんですから」


カタリナは唇を尖らせ、それから鏡越しにふっと表情を緩めた。


「でも、今日くらいは削らずに受け取ってくださいね」


リーゼは答えなかった。

扇の代わりに手の中で握りしめた小さな書付が、汗でわずかに湿っている。

大勢の視線を浴びる場に立つことには、いまだに慣れない。


王城の夜会でも、彼女は壁際に立ち続けた。

人の輪の中心に据えられるという経験は、どちらの人生にもなかったことだ。

前日、ヴィンから告げられたことを、リーゼは思い返していた。


「式典で、お前の過去を俺から話す。嫌なら止める」


あの宴の夜、使節団の男の口から、噂はもう国境の向こうまで走っていた。

隠し通せる時期は、とうに過ぎている。

噂が形を変えて広がる前に、こちらから言葉にしてしまう。

それが、ヴィンとフェリクスが二日かけて出した結論だった。


外交上の火種になる危険は承知の上で、それでも彼は、彼女の過去を隠したまま功績だけを称えることを、よしとしなかった。


「お任せします」


リーゼはそう答えていた。

怖くないと言えば嘘になる。

あの人の言葉なら、信じてみようと思えた。


だとしても、と扉の向こうのざわめきに耳を澄ませて思う。

あの夜会の喧騒とは聞こえ方が違う。

あちらは遠ざけるための音だった。

こちらはどうも、迎えようとしている音のように聞こえる。


☆


式典は簡素な挨拶から始まった。

壇上に並んだ公国の重臣たちの端、リーゼの席は思いのほか前列に用意されていた。

すぐ後ろにはフェリクスが控え、いつもの皮肉な笑みを消して背筋を伸ばしている。


広場を埋める群衆の最前列に、日焼けした顔の老商人がいた。

ハンスだ。

新調したらしい上着の襟を、何度も指で直している。

隣で、カタリナが目元を袖で押さえていた。


会計処の一角には、ヨーゼフがいかにも仕方なく来たという仏頂面で立っている。

その隣に、あの徴税官の白髪の老人の姿があることに、リーゼは気づいて息を止めた。

老人は目が合うとふいと視線を外し、代わりにわずかに顎を引いた。

――数字は、事実だからな。

あの日の低い声が、耳の奥に蘇った。


やがて壇の下に、人の列ができ始めた。

式次第にはなかったことだ。

近隣の村々から出てきた領民たちが、一人、また一人とリーゼの前で足を止める。


「あんたが、あの帳簿のお嬢さんかい」

「うちの村の関所の手数料が半分近くになってね。おかげで、去年は出せなかった屋根の修繕ができたよ」

「お礼を言いたくて、朝一番の荷車に乗ってきたんだ。大したもんじゃないが、受け取っておくれ」


差し出されたのは、布に包んだ干し果物や、素朴な木彫りの小箱だった。

リーゼは一つひとつ、丁寧に頭を下げて受け取る。

声が震えないよう、喉の奥に力を込めた。


列の後ろから、杖をついた老人がゆっくりと前へ進み出てきた。

かつて、重すぎる徴税に苦しんでいたという農夫だった。

節くれ立った手が、杖の握りを白くなるほど握りしめている。


「……お嬢さん」


言葉が続かなかった。

皺の深い口元が何度かわなないてから、ようやく声になる。


「これで、来年の種籾を残せる」


震える声だった。

飾り気は少しもなかった。


「倅の代まで、畑を繋いでやれるよ。……本当に、ありがとうよ」


リーゼはすぐには返事ができなかった。

言葉の一つひとつが、一枚ずつ積み重なっていく。

かつて北部の村のために夜通し数字と向き合った時、彼女は結果を目にすることはできなかった。


飢える子供が減ったという報せは、どこからも届かなかった。

それでいいと、自分に言い聞かせてきた。

今、目の前にその結果が立っている。

皺だらけの手で杖を握り、来年の畑の話をしている。


誰かの人生を、確かに良い方へ動かせた。

その実感は、これまで受けたどんな評価よりも深く、彼女の内側を満たしていった。


「……お力になれて、よかったです」


やっとのことでそれだけを告げ、深く頭を下げる。

上げた時、視界が少しだけ滲んでいた。


☆


鐘が一度だけ鳴った。

壇上にヴィンが進み出る。

いつもの実用一辺倒の礼装に、革の手袋。

式典の場にもその手袋を外さないのが、彼らしかった。


広場のざわめきが、波が引くように静まっていく。

ヴィンは飾りのない声で、改革の成果を述べた。

徴収額の是正、関所の手数料の明細化、初年度の税収の推移。

数字の羅列にもかかわらず、群衆の中からところどころで頷く気配が起きる。


それだけの実感を、この場の誰もが持っているのだ。

話が一区切りついたところで、ヴィンはほんの少しだけ間を置いた。


「彼女がかつてどこの国の、何者であったか」


リーゼの指が、扇の代わりの書付を握りしめた。


「それを詮索する声があることは、俺も知っている」


広場が水を打ったように静まり返った。

視線がいっせいに壇上の彼女へ集まるのが分かる。

使節団の宴で浴びせられた、あの好奇と侮蔑の混じった眼差しが脳裏をよぎった。


だが、ヴィンは続けた。

よく通る声だった。


「だが、はっきりさせておく」


彼は一度、群衆をゆっくりと見渡した。


「この国がここまで持ち直せたのは、彼女がここにいたからだ。過去がどうであれ、彼女は今、この国になくてはならない人だ」


息を呑む音が、あちこちで起こった。


「隠す必要はない。この国は、彼女が元王妃だったから助かったんじゃない」


ヴィンの視線が、壇の上のリーゼへまっすぐに向けられる。


「彼女だったから、助かったんだ」


一瞬の間を置いて、広場が揺れた。

最初に上がったのは、最前列のハンスの声だった。


「そうだ、その通りだ」


と、腹の底から出る太い声。

それに続くように拍手がぱらぱらと起こり、やがて大きなうねりになって広場全体を包んでいく。

カタリナが、もう隠しもせずに声を上げて泣いていた。


続いて、壇の脇に控えていた書記官が、巻かれた書面を掲げ、朗々と読み上げ始める。


「公国記録簿に、以下を記す。交易税改革の功績は、会計官リーゼの発案および実務によるものである。これを公式の文書として、永く公国の記録に留める」


リーゼは思わず顔を上げた。

ヴィンが記録簿の頁の前に進み出る。

ペンを取る前に、彼は台の縁を軽く二度叩いた。

乾いた音が二つ、歓声の中でもなぜかはっきりと耳に届いた。

そして迷いなく署名を走らせる。


ローゼンヴァルトでは、決して記録に残らなかった働きだった。

宰相の名代という一文で塗りつぶし、誰の手によるものかも分からないまま埋もれていったもの。

それが今、彼女自身の名を冠して紙の上に刻まれていく。


功績を奪われ続けてきた日々と今この瞬間との、あまりの落差。

足元がふっと浮いたような感覚に襲われた。

込み上げるものを堪えきれず、リーゼは俯いた。

膝の上で握った手の甲に、ぽつりと一滴落ちる。

歓声は、なかなか鳴り止まなかった。


☆


式典は和やかな熱気に包まれたまま進んでいく。

やがて顔を上げたリーゼは、涙の跡を隠すようにゆっくりと広場を見渡した。

掲げられた色布、笑う人々、屋台から立ち上る湯気。

ハンスが両手を振っている。

ヨーゼフは相変わらず仏頂面のまま、わざとらしく咳払いをしていた。


そのとき、人垣の隙間にふと視線が引っかかった。

祝福する人々の中に紛れて、こちらを注視している顔がある。

見覚えのない男だった。

旅装の襟を立て、帽子を目深にかぶり、笑ってもいなければ手を叩いてもいない。


ただじっと、こちらを見ている。

視線が合ったと思った瞬間、男は人波に紛れて見えなくなった。

気のせいだろうか。

リーゼは小さく首を振って視線を戻した。


広場の歓声は、なおも鳴り止まない。

壇上のヴィンが、こちらへ向けてほんのわずかに頷くのが見えた。

手袋をはめた手が、わずかに上がる。

言葉にはならないけれど、確かにそこにある温かさだった。


その温かさに、先ほどの違和感はすぐに溶けて消えていった。

人垣の隙間に見えた帽子の影のことは、歓声に紛れて、いつのまにか頭から消えていた。


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