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私がいなくても回る国だそうなので、王妃の座をお返しします。復縁?お断りです~有能すぎた元王妃は隣国で大切にされています~  作者: 猫燕


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第二十話「忍び寄る噂」

安宿の一室で、男は羽根ペンを走らせていた。

式典から三日が過ぎている。

窓の外では、まだ祝いの余韻の残る町の物音が遠く聞こえていた。

蝋燭の灯りの下、男はあの日の広場で目深にかぶっていた帽子を机の端に放り出し、手元の便箋にひどく丁寧な字を並べている。


――対象は、噂に違わぬ人物と確認いたしました。

ただし、式典にて大公が公然と過去を肯定したため、出自を突く筋の噂はもはや力を持ちませぬ。


そこで男は少し考えて、ペンを止めた。

依頼主から預かった金は十分に潤沢だった。

潤沢すぎると言ってもいい。

隣国にまで人を送り込み、宿を取らせ、酒場に通わせる。

そんな真似ができる者が、そう多くいるはずもなかった。


外套の内側には、縫い付けた隠しがある。

そこに、依頼主から渡された一通の書状が収まっていた。

隣国の伯爵家の紋章入りの印璽で封じられた、短い依頼状だった。

――隣国の会計官リーゼ、元ローゼンヴァルト王妃の名を貶めよ。

手段は問わぬ。

費用は伯爵家が持つ。


依頼主は口約束で済ませたがった。

男は、書面がなければ受けないと押し切った。

万一の時に、雇い主に切り捨てられないための保険だ。

金を受け取った証であり、そこに依頼主の紋章が刻まれている限り、向こうも男を見捨てられない。


男は便箋に、再び筆を落とす。

――ゆえに、角度を改めます。

後ろ暗い過去ではなく、大公への取り入りという筋で噂を広めます。

公然と庇われたことは、かえってその裏付けとして使えましょう。


書き終えた報告書に、男は自分の指輪の印で封をした。

暗い蝋燭の光の中で、蝋が雫のように紙の上に広がっていく。

飾り気のない、ただの商人風の印だった。


☆


噂は、目に見えない速さで町に広がった。

最初に耳にしたのは、市場の一角の洗濯女たちだったという。


「あの会計の女、結局は大公様に取り入ってるだけなんじゃないの」

「そういえば、あんなに親しく庇われて。変じゃないか、普通」

「国を追われた元王妃だろう。なにか後ろ暗い事情がなきゃ、逃げてこないよ」


出所の分からない囁きが、石畳の上を這うように広がっていく。

式典の日にヴィンが公然と過去を肯定したからこそ、噂は「過去そのもの」ではなく彼女の人格を貶める形へと姿を変えて忍び寄っていた。

公式な擁護があってもなお、悪意はしぶとく生き残ろうとする。


「親方、変な話が出回ってますよ。あの会計のお嬢さんのことで」


ハンスの店先で、荷を降ろしていた若者が声を潜めて言った。

ハンスは眉をひそめ、手を止める。


「どこで聞いた」

「あちこちですよ。もう市場中に」


同じ頃、庁舎の内側でも、フェリクスが眉間に皺を寄せていた。

情報を統括する立場の彼にとって、噂の広まり方はあまりにも不自然だった。

自然発生した噂は、もっと不揃いな形で広がる。

だがこれは、同じ言葉が同じ順序で、複数の場所にほぼ同時に落ちている。


「誰かが、意図的に撒いている」


彼は呟き、部下に命じて出所を洗わせ始めた。

その晩、ハンスの店の奥に、カタリナが顔を出した。


「ハンスさん」

「おう、来たか。あんたも聞いたな」


二人は店の隅の樽に腰を下ろした。

ハンスが眉をひそめて言う。


「なあ、あんたも聞いたか。妙な噂が流れてるって」

「ええ……どうも、誰かが意図的に流している臭いがします」


カタリナは腰に手を当て、片眉をわずかに上げた。

噂の言葉遣いにひどく作為的な癖があるのを、彼女は聞き逃さなかった。

市井の口から出る愚痴には、もっと生活の匂いがある。

あれは、誰かが書いた台詞だ。


「リーゼ様には、まだ言わないでおきましょう」

「知らせねえのか」

「あの方は、聞いたら自分で何とかしようとします。誰にも頼らずに、一人で。……それが、あの方の悪い癖ですから」


ハンスは顎髭をさすった。


「なら、俺たちで先に尻尾を掴むしかねえな」

「ええ。うちのリーゼ様の悪口を言いふらして、ただで済むと思われたら困りますので」


カタリナの声はいつもの軽口と同じ調子だったが、その目だけは少しも笑っていなかった。


☆


数日後の夜、二人は裏路地に立っていた。

噂の広がり方を辿るうち、ハンスの持つ商人たちの網と、カタリナが日々の買い出しで築いた顔見知りの輪が、同じ場所を指した。

町外れの酒場である。

決まった時刻に決まった男が現れ、酔客たちの間でちょうどよい噂話を吹き込んでいく。


「あそこか」

「はい。今夜も来ていると、ゲルダから聞きました」


ゲルダは、カタリナが市場で仲良くなった、腕っぷしの強い女だった。

酒場の女将の姉で、今夜は寝込んだ妹に代わって店を預かっている。

事情を話すと、二つ返事で協力を申し出てくれた。


「私が表から入って、あの男の気を引きます。ハンスさんは裏から」

「任せとけ。こういう時のために、裏口の場所は頭に入れてある」


ハンスが薄く笑った。

若い頃、行商で歩いた宿場町の酒場は、大抵同じような造りになっている。

カタリナは深く息を吸い、髪を軽く直してから、酒場の扉を押した。


「ごめんくださいな。ゲルダさんはいるかしら?」


わざと少し高い声で言うと、奥から店を預かるゲルダが顔を出した。


「まあ、いらっしゃい。ちょうどよかった、こちらのお客さんに酌をしてもらえないかしら」


カウンターの端で酒を傾けていた男が、ちらりと顔を上げる。

旅装の襟を立てた、目つきの鋭い男だった。

カタリナはにこやかな笑みを浮かべ、その隣の席に腰を下ろす。


「あら、お兄さん、旅の方?こんな夜にお一人で?」

「……ああ、少しばかり商いの用事でね」


男は警戒しながらも、手にした杯をゆっくり置いた。

カタリナは酒を注ぎ足し、他愛のない話を始める。

この町の市場の話、隣国の景気の話。

言葉を重ねるうちに、男の視線が少しずつ彼女の口元に集まっていく。


その間に、ゲルダが男の外套に手を伸ばしていた。


「あらお客さん、外套が濡れてるじゃない。乾かしておくよ」


男は一瞬ためらった。

だが、店の中は熱気がこもっていて、旅人が上着を預けるのは珍しい光景ではない。

隣ではカタリナが笑顔で次の酒を注いでいる。

男は肩をすくめて、外套を渡した。


その外套は、厨房の脇の鉤にかけられた。

そこへ、音もなく裏口を潜ったハンスが近づく。

外套の内側に、そっと手を差し入れた。

指先が、縫い付けられた隠しの中の、硬い紙の感触に触れる。


引き出すと、折り畳まれた厚手の書状だった。

開封はされているが、裏に貼りついた紅い蝋の割れ目に、押された印璽の紋様がはっきりと残っている。

それが尋常な書状でないことは、一目で分かった。


「舐められたもんだな、俺たちを」


書状をひらりと掲げ、ハンスがニヤリと笑った。

その声が人気のない厨房に響いた瞬間、表の方で椅子の倒れる音がした。

異変に気づいた男が、外套の方へ振り返ったのだ。


「貴様――!」


男は血相を変えて立ち上がり、出口へ向かって駆け出す。

扉を蹴り開けた、その先で。

闇の中から伸びた腕が、男の肩を掴んだ。

待ち構えていたフェリクスの部下たちが、男の身をあっさりと路地の壁に押さえつける。

抵抗する間もなかった。


☆


「証拠は揃っている」


薄暗い路地に、聞き慣れた声が響いた。

黒髪を隙なく整えたフェリクスが、外套の裾を払いながら現れた。

独自に出所を洗っていた彼は、数日前から酒場の周囲に部下を配置していた。

今夜、酒場に出入りするカタリナとハンスに気づいた部下の報せで、踏み込む機を窺っていたところだった。


「……これで、送り主も言い逃れはできまい」


彼はそう言って、ハンスの手から書状を受け取る。

カタリナも酒場から出てきて、腰に手を当てたまま、押さえ込まれた男を見下ろした。


「思ったより、お早いお着きでしたね」

「ふん、お前らの手際にも助けられた。あの書状がなければ、言い逃れられていたところだ」


フェリクスは珍しく口の端を持ち上げた。

ハンスとカタリナが顔を見合わせ、にやりと笑った。

男は何も言わなかった。

ただ額に脂汗を浮かべ、唇を噛みしめている。


フェリクスは書状を月明かりにかざした。

割れた封蝋に残る紋様を、じっと検分する。

最初はいつもの冷静な表情だった。

だがしばらくすると、その眉がわずかに寄る。

両方の眉がゆっくりと持ち上がった。


それは彼が相手を値踏みする時の癖であり、そして何かに確信を得た時の癖でもあった。

紋様には、確かな見覚えがあった。

隣国の外交筋から回ってくる資料の中で、幾度となく目にした紋章だ。

伯爵家のもの。

それも、今の王の傍らに侍る、ある女の実家の。


「……これは」


フェリクスは書状を月にかざしたまま、しばし黙り込んだ。


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