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私がいなくても回る国だそうなので、王妃の座をお返しします。復縁?お断りです~有能すぎた元王妃は隣国で大切にされています~  作者: 猫燕


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第二十一話「槍が降るな」

「印璽の主に、心当たりがあります」


夜半の執務室で、フェリクスは開口一番そう告げた。

路地の一件から、まだ半刻も経っていない。

取り押さえた男は地下の一室に留め置き、書状だけを携えて、彼は主の元へ直行してきたのだった。


ヴィンは机に向かったまま、無言で手を差し出す。

渡された書状の割れた紅い蝋を、革の手袋をはめた親指がゆっくりとなぞった。


「ローゼンヴァルトの伯爵家。国王の寵姫の、実家です」

「……あの女か」


低い声だった。

ヴィンは書状を机に置き、指先で二度、机を叩いた。

署名の前に出るはずの癖が、今夜は押し殺した苛立ちの拍子のように響く。


「今すぐ抗議文を出せる。使者を立てて、王の目の前に叩きつけることもできる」

「できます。ですが、今は控えるべきかと」


フェリクスは、いつもの皮肉を引っ込めた声で続けた。


「この書状が一通あるだけでは、家の者が勝手にやったことだと言い逃れる余地が残ります。あの男の口を割らせ、金の流れを押さえ、それが揃ってから出すほうがいい。政治的な後始末は、然るべき時に。……今はまず、リーゼの安全を優先しましょう」


ヴィンはしばらく黙っていた。

拳が一度ゆっくりと握られ、ほどかれる。


「護衛を増やせ。目立たぬようにだ。宿の周りと、会計処の出入りに」

「すでに手配しております」

「……本人には」

「彼女の性格を考えれば、知れば自分から動こうとするでしょう。ですが、隠し通せるとも思いません。どのように伝えるかは、閣下にお任せします」


ヴィンは何も答えなかった。

ただ、書状の紋章を見つめる目がひどく冷えている。

この件の全面的な決着がもう少し先になることを、二人とも承知していた。


☆


事件から数日、政庁の空気は表向き何も変わらなかった。

ただ、リーゼの身の回りだけが、ほんの少し変わっていた。

まず、朝、机に着くと、隅に湯気の立つ茶の杯が置かれている。

誰が置いたのかと見回しても、会計処の面々はそ知らぬ顔で書類をめくるばかりだった。


「誰かが、気を利かせてくださったのでしょうか」

「さあな」


隣の席のヨーゼフは、鼻を鳴らしてそう答えた。

そして茶の湯気越しに、誰にともなくぼそりと呟く。


「……あの方が厨房に足を運ぶなど、明日は槍が降るな」

「今、何と」

「独り言だ。聞くな」


そっぽを向いた横顔が、笑いを堪えていた。

リーゼは杯を両手で包んだまま、しばらく湯気を見つめていた。


ある日は、日暮れ過ぎに廊下でばったりとヴィンに行き会った。

彼は書類の束を脇に抱え、リーゼの顔を見るなり眉を寄せる。


「まだ帰っていないのか」

「もう少しで終わりますので」

「もう帰れ。そこまで急ぐ案件ではない」


ぶっきらぼうな言葉だった。

だが、その声の底に、以前にはなかった響きがある。

急かしているのではない。

ただ、彼女が机に張りついている姿が気に障って仕方ない、という声だった。


別の日には、遅い昼食を抜いていたことを、なぜか知られていた。


「食え」


差し出された包みには、固焼きのパンに干し肉が挟まれていた。

ヨーゼフの隠しごとのような差し入れとは違う、明らかに厨房で誂えられた品だった。

リーゼが目を瞬かせているうちに、ヴィンは何も言わず踵を返した。


「……冷める前に食え」


背を向けたまま、それだけを付け足す。

いつもより早足で廊下の角へ消えていく後ろ姿に、リーゼは、彼が礼を言われるのを避けたのだと気づいた。


過保護と呼ぶには、あまりにも不器用。

しかし、確かな気遣いだった。

それが自分に向けられていることをもう疑いようがない、という実感が、日に日に積もっていく。


フェリクスに言われたあの言葉が、時折、耳の奥で蘇った。

大公があなたの話をする時だけ、表情が違うんですよ。

そのたびに、彼女はペンの尻を唇に当て、しばらく手を止めた。


☆


噂の件をリーゼが知ったのは、事件から五日目のことだった。

執務室に呼ばれると、ヴィンが窓を背にして立っていた。

簡潔な口調で、彼は告げる。

町に流れていた不審な噂の出所を突き止め、流していた男を拘束したこと。

男は隣国から入り込んだ者であること。


「お前が気に病むことではない。片はつけた」


ヴィンはそれだけを言い、依頼主の名までは口にしなかった。

だが、隣国という一語で、リーゼには十分だった。

あの国が、まだ自分を追ってきている。

指先が冷たくなった。


「……カタリナは、知っていたのですね」

「知っていた。お前に言うなと先に決めたのは、あの侍女とハンスだ。責めるな」

「責めてなどいません」


リーゼは首を振った。

責める気持ちは、どこにもなかった。

ただ、自分の知らないところで、周りの人々が傷を引き受けようとしてくれていた。

その事実が、重く沈んでいる。

彼女はそれを、どう受け止めればいいのか分からなかった。


☆


その夜、政庁には二人だけが残っていた。

期日の迫った報告書があったのだ。

リーゼは机で最後の頁を整え、ヴィンは窓際の書き物台で別の書類に署名を重ねている。


窓の外はすっかり暗く、遠くの町の灯りが点々と瞬いていた。

ペンの走る音と紙をめくる音だけが、夜更けの部屋に落ちている。

以前なら、こんな沈黙は落ち着かなかっただろう。

今は不思議と居心地が悪くなかった。


「終わりました」


リーゼが顔を上げると、ヴィンはいつのまにか手を止めていた。

窓の外を見たまま、何も言わない。


「閣下?」

「……いや」


声がいつもより低い。

彼は署名済みの書類を揃え直し、それを台の端に置いて、また揃え直した。

三度目に揃え直したところで、リーゼは思わず尋ねた。


「何か、ございましたか」

「……この先も」


ヴィンは窓の外を向いたまま、口を開いた。

言葉が一度途切れる。

革の手袋をはめた手が、台の縁をぎゅっと握っている。


「その、なんだ。……隣に、いてほしいと思っている」


リーゼは、息が止まりそうになった。

握っていたペンが指の間から滑って、机の上に転がる。

乾いた音が、やけに大きく響いた。


隣に。

それが仕事の意味でないことは、聞くまでもなかった。

窓の外を睨みつけたまま、ほとんど命令のような口調で、けれど台の縁を掴む手の甲に筋が浮くほど力を込めて、この人は今、言ったのだ。


嬉しい、とまず思った。

胸の内側から、熱いものが一気にこみ上げてくる。

今まで、誰にも向けられたことのない言葉だった。

役に立つからでも都合がいいからでもなく、ただ隣にいてほしいと。


☆


次の瞬間、冷たいものがその熱を追いかけてきた。

窓の向こうの闇が、視界の端に入る。

あの闇の先に、自分が捨ててきた国がある。

あの国から、噂を撒く男がこの町まで手を伸ばしてきた。

ヴィンが片をつけたと言った、その意味を、彼女は考えずにいられなかった。


自分の過去は、まだ終わっていない。

この人の隣にいるということは、この人の立場に火の粉が降りかかるということだ。

他国の元王妃を傍に置く大公。

噂の種は、これからいくらでも降ってくる。

今夜のように誰かが拘束されて片がつくうちはまだ良くても、いつかは、取り返しのつかない形で、彼の足元を崩してしまうかもしれない。


役に立たなければ、いてはいけない。

そう教えられて育った。

ただ隣にいるという場所に立った経験が、彼女にはなかった。

足元の床が、急に薄い氷に変わったようだった。

一歩動けば割れてしまいそうで、そして割れた時に落ちるのは自分ではなく、この人だ。


リーゼはゆっくりと立ち上がった。

椅子が、かたりと小さな音を立てる。


「……閣下」


一度、改まった呼び方に戻した声は、自分でも驚くほど細かった。

ヴィンがわずかに眉を寄せて、こちらを振り向く。

その目を、まっすぐに見ることができない。


「私と一緒にいたら、あなたまで――」


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