第二十二話「肩書きではなく」
「最後まで言うな」
珍しく強い声だった。
言いかけたリーゼの言葉を、ヴィンが遮った。
窓際の書き物台から、彼は一歩こちらへ踏み出している。
革の手袋をはめた手は、まだ台の縁を掴んだままだった。
リーゼは思わず口を噤んだ。
怒鳴られたわけではない。
でも、その声の底には、これまで彼女が一度も聞いたことのない切迫した響きがあった。
部屋の空気がぴんと張り詰める。
蝋燭の炎だけが、二人の影を壁に長く揺らしていた。
ヴィンは大きく息を吸った。
言葉を探す時の、いつもの間だった。
だが、今夜の彼はその沈黙に逃げ込まなかった。
「お前が元王妃だったことが、俺の立場を危うくする、とでも?」
低く、はっきりとした声だった。
「逆だ」
リーゼは目を見開いた。
「肩書きも過去も気にせず、ただ働きだけを見て評価する。俺はそうやってこの国をやってきた」
ヴィンの視線が、まっすぐにリーゼを捉えている。
逸らす気配は、どこにもなかった。
「若造に何ができると笑われた頃から、それだけは曲げなかった。誰が何を言おうと、出自で人を測らない。それを貫いてきた俺が、お前の過去を理由に手放すなんて言ったら」
台を掴んでいた手が離れた。
「それこそ、俺自身の言葉が嘘になる」
リーゼの中で、用意していた言葉が行き場を失っていく。
反論しようと思えば、いくらでもできたはずだった。
外交上の火種。
ローゼンヴァルトの追及。
他国の貴族たちの視線。
彼女はそれらを、頭の中で数字にして並べていたのだから。
「……試算では、外交上の負担は今後――」
絞り出した声は、我ながらみっともなく震えていた。
数字の話にすり替えて、この場をやり過ごそうとしている。
いつもの悪い癖だった。
「今は数字を出すな」
ヴィンはぴしゃりと言った。
突き放すような口調ではなかった。
「お前が数字を持ち出す時は、大抵、本音から逃げたい時だ。そのくらいはもう分かる」
リーゼは言葉を失った。
そんなところまで、この人は見ていたのか。
ペンの尻を唇に当てる癖も、褒められると耳が赤くなることも、食事を残した日の皿も。
誰も気づかないと思っていた自分の隙間に、この人はいつのまにかずっと目を留めていたのだ。
理屈で言い負かされたのではなかった。
ただ、彼の生き方そのものに、静かに説き伏せられている。
そんな感覚だった。
☆
窓の外で風が鳴った。
ヴィンはそれ以上、言葉を重ねなかった。
ただ、リーゼの前まで歩み寄り、一歩の距離で足を止める。
近い。
革とインクと夜風の匂いがした。
「火の粉なら、いくらでも被る」
彼は言った。
「払うのは俺の仕事だ。お前の仕事じゃない」
お前の仕事じゃない。
その一言が、リーゼの奥のいちばん古い場所に触れた気がした。
幼い頃から、母の隣で誰にも頼らず数字と向き合ってきた。
倒れそうになっても、誰にも言わなかった。
頼るという選択肢が、そもそも自分の中に存在しなかった。
「……閣下は」
「ヴィンフリートだ」
ヴィンは視線をほんの一瞬だけ逸らした。
「親しい者は、ヴィンと呼ぶ。……今は、閣下と呼ばれたくない」
ぶっきらぼうに言い放って、手袋の指先が、落ち着かなげに台の縁を二度叩く。
それでも、すぐにリーゼへと視線を戻した。
そして、これまでで一番まっすぐな声で言った。
「リーゼ」
初めて、名前を呼ばれた。
役職でもお前でもなく、彼女自身の名を。
「王妃だったことも、そうでなくなったことも関係ない」
息が止まる。
「俺が欲しいのは――お前自身だ」
蝋燭の炎が揺れた。
言葉の意味を頭が理解するより先に、涙が頬を伝っていた。
堪えようとする暇もなかった。
一滴、また一滴と、止めどなく落ちていく。
悲しみのためではなかった。
嬉しさのためだけとも、言い切れなかった。
生まれて初めて味わう類の、どこにも名前のない涙だった。
「……すみません。泣くつもりは」
「謝るな」
「でも、見苦しいでしょう」
「見苦しくない」
ヴィンは即答した。
それから少し困ったように、手袋をはめたままの手を持ち上げ、宙で止める。
触れていいものか、迷っているのが分かった。
結局、その手は彼女の頬に届く前に、ぎこちなく下ろされる。
「泣きたい時は泣け。……ここでは、誰も咎めない」
リーゼは堪えきれずに泣き笑いになった。
泣きながら笑うなど自分でもどうかしていると思っても、笑わずにはいられなかった。
「……ヴィン、様」
呼んでみた名は、舌の上でひどく慣れなかった。
ヴィンの肩が、ほんの少し跳ねる。
「様はいらん」
「それは、少し時間をください」
涙を袖で拭いながら、彼女は言った。
「私も、ここにいたいです。……役に立つからではなく」
その先は、うまく言葉にならなかったが、ヴィンには十分に伝わったらしい。
彼はゆっくりと、ほんの少しだけ目元を緩めた。
他の誰にも見せない、ふっとほどける表情だった。
☆
その静けさを破ったのは、扉の向こうからのかすかな物音だった。
「……おっと」
ごとり、と何かが床に落ちる音。
続いて、押し殺した声が廊下から漏れ聞こえてくる。
「だから、押すなって言ったでしょう、ハンスさん」
「押してねえ、あんたが引っ張ったんだ」
「私は止めてたんです。最初から」
リーゼとヴィンが、同時に扉の方を振り向いた。
少しだけ開いていた扉の隙間から、日に焼けた顔がぬっと覗く。
ハンスだった。
その後ろで、赤毛の侍女が両手で顔を覆いながら、指の隙間からこちらを窺っている。
「……い、いつからそこに」
リーゼの声が裏返った。
「いやあ」
ハンスは悪びれもせずに廊下から一歩踏み入り、顎髭をさすりながらにやにやと笑った。
「事件以来、この侍女さんは夜道を一人で歩こうとしなくてな。俺が送り役を買って出たんだ。そうしたら、あんたの灯りがまだ点いてるのが見えて、夜食を持ってきたってわけだ。……そうしたら、この有様でな。入るに入れなくて」
「ほとんど最初から聞いてましたよね、ハンスさん」
「まあな」
カタリナが涙目のまま、ばしんとハンスの腕を叩く。
「私は止めましたからね。リーゼ様、本当に止めたんです。でも途中から、もう、どうしても……」
言いながら鼻をすすって、こらえきれずに鼻をかんだ。
ヴィンは額に手を当てて、深々とため息をついた。
「……夜食なら、置いて帰れ」
声が不自然なほど平坦だった。
動揺すればするほどそっけなくなる男の、これ以上ない白状だった。
「……お前ら」
「まあまあ、閣下。怒るなって」
ハンスは片目をつぶった。
「おいおい、俺の目に狂いはなかったってことだな」
そう言って、誇らしげに胸を張る。
「あんたを見出したのは、この俺だぞ」
リーゼは涙を拭いながら、思わず笑ってしまった。
あの日、乾物の匂いのする店先で、知らないおじいさんに腕を認められた。
素性を問われなかった。
それがなければ、今この部屋に立っていることもなかったのだ。
「はい。……ハンスさんのおかげです」
「よせやい、照れる」
珍しく、ハンスが顔を赤らめた。
カタリナが噴き出し、ヴィンが堪えきれずに短く息を漏らして笑う。
その笑い声を聞いて、リーゼはもう一度、胸がいっぱいになった。
張り詰めていた空気が、ふっと和らいでいく。
笑い合う四人の声が、夜の政庁に小さく響いた。
リーゼは、この温かさを胸に刻んでおきたい、と思った。




