第二十三話「直言」
国庫の底が見えた、という報せが届いたのは、雨の降る夕刻だった。
ローゼンヴァルト王都、城門の前。
財政の破綻はもはや噂ではなく、現実として石畳の上に降りてきていた。
飢えと重税に耐えかねた民衆が、雨に濡れることも構わず、城門の前に押し寄せている。
怒号はもう言葉の形をしていなかった。
獣の唸りのような塊が、門扉に向かってぶつかっては砕けて戻っていく。
誰かが投げた石が、城壁に乾いた音を立てて跳ねた。
その光景を、ゲオルクは王城の窓から見下ろしていた。
衛兵隊長は彼との約束を守っている。
槍を構えず、ただ盾を並べて門を押さえていた。
その盾の列がいつまで持つかは分からない。
若い兵の顔にも、群衆と同じ疲れの色が浮かんでいた。
窓ガラスに、雨が細い筋を描いて落ちていく。
もう取り繕える段階は、とうに過ぎている。
ゲオルクはそう悟っていた。
悟ってしまえば、不思議なほど心は凪いでいた。
☆
夜。
王城が寝静まった後も、ゲオルクは執務室に残っていた。
燭台の灯りが、机の上に広げた古い帳簿を照らしている。
あの夜以来、彼は毎晩これを開いていた。
ページの余白に残された、細く几帳面な修正の跡。
数字の「7」に入れられた、迷いのない横棒の一本。
ふと、去っていった若い文官の声が、耳の奥に蘇った。
――あなたも、早く見切りをつけた方がいい。
ハインツは、空になった机に洗われないままの杯を残していった。
あの杯は、まだ片付けられていない。
そして、もう一つ。
彼女がこの執務室を訪ねてきた日の、静かな瞳。
「このままでは、私は……多分、長くは持ちません」
と告げた声。
それに、自分は「今しばらく、辛抱を」と答えた。
「辛抱、ですか」
と短く繰り返した彼女は、それ以上、何も言わなかった。
責める色は、その目のどこにもなかった。
ただ、諦めにも似た静けさだけがあった。
あの目を、自分はもう何日も忘れられずにいる。
「見切りをつける、か」
ゲオルクは自嘲するように呟いた。
この国を見捨てて、どこか遠くへ逃げる。
財も少しはあるし、他国に縁がないわけでもない。
今なら、まだ間に合うだろう。
誰も彼を責めはしない。
あの若者のように辞表を置いて去れば、それで済む話だった。
違う。
胸の内で、何かがはっきりと首を振った。
俺がすべきことは、逃げることではない。
もっと早くに言うべきだったことを、今からでも言うことだ。
国王の逆鱗に触れるだろう。
地位も、これまで築いてきた立場もすべてを失うかもしれないが、これ以上の沈黙はもはや加担と同じだ。
あの人が一人で繕っていたものを見ないふりをしてきた自分が、今また口を閉ざしていいはずがなかった。
ゲオルクはゆっくりと立ち上がる前に、眼鏡を外した。
懐から取り出した布で、丁寧にレンズを拭う。
まず右を、そして左。
指先はもう震えていなかった。
長年、決断を迫られる場面で、逃避と覚悟の狭間に立つたびに繰り返してきた仕草だ。
今夜のこれは、逃げるための時間稼ぎではなかった。
再び眼鏡をかけ直すと、視界がくっきりと澄んだ。
机の上の帳簿を、一冊ずつ重ねて抱え上げる。
それから、過去数年分の指示書の写しの束を、その上にそっと載せた。
☆
翌朝、国王の私室。
ゲオルクは扉の前で一度だけ、深く息を吸った。
取り次ぎの侍従は、彼の抱える帳簿の山に怪訝な顔をしたが、何も言わずに扉を開けた。
部屋の中では、エーリヒが寝台の脇の長椅子にだらしなく身を投げていた。
夜通し眠れなかったのだろう、整っているはずの顔には隈が浮いている。
指には父王から受け継いだ指輪が光り、無意識に何度も回されていた。
「なんだ、朝から」
苛立ちを隠しもしない声だった。
ゲオルクは深く一礼した。
「陛下に、お聞き入れいただきたいことがございます」
「またいつもの陳情か。金がないと言うなら、聞き飽きた」
「いいえ。今日は、それとは別の話でございます」
ゲオルクは顔を上げた。
エーリヒの目をまっすぐに見る。
宰相となって以来、この男の目をこれほど正面から見つめたのは初めてだった。
「陛下。この国がこれまで保たれてきたのは、陛下のご威光によるものではございません」
エーリヒの指が、指輪を回す動きを止めた。
「……何だと」
「不正の是正も、飢饉への備えも」
ゲオルクは抱えていた帳簿の一冊を、卓の上にそっと置いた。
頁が開かれ、余白に残された細かな修正の跡が、朝の光の中に晒される。
「そのほとんどは、リーゼ様お一人が、誰にも知られぬまま担っておられました」
部屋の空気が凍りついた。
エーリヒはぽかんと口を開けたまま、ゲオルクを見つめている。
意味を理解していない顔だった。
言葉が耳に入っても、頭の中で形にならないのだ。
「過去五年で、百を超える修正の跡がございます。いずれも誰の署名もなく、誰に命じられたわけでもなく。そして」
ゲオルクは、過去数年分の指示書の写しの束を、その隣に重ねた。
「毎年この時期になれば、飢えを防ぐための穀物の早期放出が、彼女の手で決められておりました。今年は実行されておりません。このままでは、春を迎える前に北部のいくつかの村が持たないかもしれません」
声がわずかに震えた。
恐怖はあった。
だが、それ以上に、胸の奥に溜まり続けていた何かがようやく喉の外へ流れ出していく感覚があった。
「陛下は、あの日仰いました。『お前がいなくても、この国は回る』と」
エーリヒの唇が、かすかに動いた。
「回っていたのは、彼女がいたからです」
室内に静寂が落ちた。
エーリヒの顔から、ゆっくりと血の気が引いていく。
そして次の瞬間、それが一気に赤く染まった。
「戯言を……!」
声が裏返った。
「そんな話、俺は聞いていないぞ!」
立ち上がった拍子に、長椅子の脇の卓が揺れる。
エーリヒは怒りのままに腕を振り、卓の上の書類を一息に払いのけた。
紙が宙に舞い、傍らの燭台が音を立てて倒れる。
鈍い金属音が、床の上を転がった。
思い通りにならないと、言葉より先に物へ当たる。
幾度も目にしてきた、あの癖そのままの姿だった。
ゲオルクはその一部始終を、微動だにせず見つめていた。
何年も、この男が感情のままに物を投げるのを、見ないふりをして通り過ぎてきた。
今は、目を逸らさずにそれを見ている。
「聞いていない、のではございません」
声は平らだった。
「聞こうとなさらなかったのです。……そして、私も知りながら黙っておりました」
エーリヒの息が、荒く上下している。
「もう、見て見ぬふりはやめます」
ゲオルクはもう一度、深く頭を下げた。
「陛下がすべきことは、彼女を責めることではございません」
恐怖はまだ胸にある。
けれど、それと同じくらい、あるいはそれ以上に、積年の重荷をようやく下ろせたという奇妙なほどの解放感が、彼の内側を満たしていた。
☆
エーリヒはしばらく何も言わなかった。
荒い息が、少しずつ静まっていく。
倒れた燭台を見下ろしたまま、彼は立ち尽くしていた。
指輪はもう回されていない。
指の腹が、金の縁をただ強く押さえている。
「……リーゼが」
低く、呟くような声が漏れた。
ゲオルクは顔を上げた。
その名に、これまでの侮蔑とは違う色が滲んでいることに、彼は気づいた。
嘲りではなかった。
かといって、悔いとも違う。
もっと濁った、名づけようのないものがそこに沈んでいる。
それが反省なのか、それとも別の何かなのか。
エーリヒの目に宿った光を、ゲオルクはまだ読み取れずにいた。




