第二十四話「逆上、そして」
反省など、していなかった。
ゲオルクが去った後の私室で、エーリヒは倒れた燭台を蹴り退け、窓辺を行ったり来たりしていた。
荒い息はとうに収まっている。
代わりに胸を占めていたのは、もっと粘つくものだった。
リーゼが国を支えていた。
そう聞かされて、まず彼の胸に湧いたのは、悔いでも感謝でもなかった。
奪われた、という感覚だった。
自分に無断で、自分の手の届かないところで、あの女が国の裏側を握っていた。
そして今、それが引き剥がされて、国は傾いている。
自分は何も悪くない。
悪いのは、黙っていたリーゼだ。
黙っていたゲオルクだ。
役に立たなかったミリアベルだ。
指の上で、父王から受け継いだ指輪がくるり、くるりと回る。
地位の象徴だけは片時も離さないのに、その地位に伴う責任だけは、どこまでも他人の手に押しつけ続けてきた。
そんな自分の矛盾に、彼は最後まで気づかなかった。
「リーゼさえ戻れば、すべて元通りになる」
声に出してみると、それは驚くほどもっともらしく響いた。
王妃が戻る。
帳簿は再び整い、飢饉の備えも動き出す。
民衆は静まり、諸侯も口をつぐむ。
簡単な話だ。
なぜ今まで思いつかなかったのだろう。
「陛下、お待ちください」
扉の脇に、ゲオルクが控えていた。
まだ立ち去っていなかったのか、それとも戻ってきたのか。
顔は蒼白だったが、目だけは逸らさずにこちらを見ている。
「今、陛下が彼女の元へ向かわれても、何も変わりません。どうかお考え直しを――」
「黙れ」
エーリヒは、止めようとする腕を乱暴に押しのけた。
ゲオルクの痩せた体が、よろめいて壁にぶつかる。
「取り上げられたものを、取り返しに行くだけだ。何が悪い」
彼にとってこれは、罪を悔いる旅ではなかった。
自分から何かを取り上げた者たちへの、当然の要求。
そう信じて疑わない足取りで、エーリヒは部屋を出ていった。
☆
その背中を、ミリアベルは廊下の陰から見送っていた。
「陛下は、リーゼロッテ様を連れ戻しに出られたそうです」
侍女の囁きに、彼女は返事をしなかった。
ただ、手の中の小さな手鏡を握りしめる。
あの女が、他国で生きている。
しかも、評価されている。
その噂が最初に耳に入ったのは、しばらく前のことだった。
行商人の口から、外交筋の覚書から、断片的に流れ込んできた。
若い大公が、有能な臨時雇いの女を登用して国を立て直しつつあるらしい。
初めは聞き流していたが、噂の端々に「銀灰色の髪」という一言が混じるようになった時、彼女の指は、無意識に鏡の縁を強く握っていた。
宮廷仕込みの所作、と誰かが言った時には、もう疑いようがなかった。
国が傾き、王の機嫌が日ごとに悪くなっていく中で、その事実は、耐えがたい棘となって突き刺さった。
だから、実家に手紙を書いた。
隣国であの女の名を貶めるために、使える手をすべて使うように、と。
そして今、王はあの女を連れ戻しに行った。
戻ってこられたら、自分の居場所は、どこにもなくなる。
鏡の中の愛らしい顔が、ひどく強張っていた。
☆
数日後、アルダーシュ公国、政庁の謁見の間。
飾り気のない広間の奥には、大公の席が一つ置かれているが、ヴィンはそこに座らなかった。
壁際で腕を組み、表情はほとんど動かさない。
隣にフェリクスが控え、広間の要所には護衛が目立たぬよう配されている。
先触れは、国境の町から届いていた。
ローゼンヴァルトの国王が、供を連れて面会を求めている、と。
ヴィンは「追い返せ」と言った。
リーゼは首を振った。
「けじめを、つけたいんです」
それだけを告げた彼女に、ヴィンは長い沈黙の後、こう言った。
「会うのは、お前だ。俺は席には着かない。……傍にはいる」
それ以上は、何も言わなかった。
広間の中央に、ローゼンヴァルトの国王が立っていた。
供はごく少数。
長旅の疲れを隠すように上等な外套を整え、絶やしたことのない人当たりの良い笑みを浮かべている。
その正面に、リーゼが一人、静かに立っていた。
「リーゼ。久しぶりだな。息災か」
甘やかな声だった。
かつて、夜会で賓客を前にしていた頃の声。
リーゼはその声を、久しぶりに聞いた。
「お久しゅうございます、陛下」
感情のこもらない挨拶に、エーリヒの笑みがほんのわずかこわばった。
「以前より生き生きしているのかな。苦労をかけた。あの頃の私には、お前の苦労が見えていなかった」
言葉だけは、それらしく整っていた。
その目は少しも彼女を見ていない。
彼女の背後の、何かを値踏みするように眺めている。
「単刀直入に言おう。戻ってきてほしい」
エーリヒは指輪をいじりながら、続けた。
「王妃の座は空けてある。復位を認める。お前が望むなら、以前よりずっと良い待遇を約束しよう」
壁際のヴィンの手袋が、きしり、と音を立てた。
革が強く握られた音だった。
リーゼはそれに気づいたが、視線は動かさなかった。
「お前が必要なんだ」
エーリヒは一歩、距離を詰めた。
「……いや、ローゼンヴァルトには、お前が必要なんだ。戻ってきてくれ」
言い直された言葉のその一瞬の綻びを、リーゼは聞き逃さなかった。
この人は、一度は「お前が」と口にしながら、すぐに「ローゼンヴァルトには」と付け足した。
自分にとって必要なのだ、と言い切れなかった。
国に必要な道具として、彼女を必要としているだけだった。
かつての彼女なら、この場で言葉に詰まっていたかもしれない。
罪悪感か、責任感か、あるいは必要とされたいという長年の飢えが、彼女の口を閉ざしていたかもしれない。
けれど、今の彼女は背筋を伸ばして、迷いなく口を開いた。
「お断りいたします」
広間の空気が止まった。
エーリヒの笑みが固まる。
「もう、あなたの国に私の居場所はありません」
リーゼの声は穏やかだった。
「……そして、戻りたいとも思いません」
自分の中に罪悪感が湧いてこないことに、彼女は少し驚いていた。
憐憫すらなかった。
かつてあれほど尽くした国が傾いていると聞いても、胸は波立たない。
ただ、長い間開いたままだった帳簿を、ぱたりと閉じるような感覚があった。
けじめをつけているだけだ。
彼女はそれをはっきりと自覚していた。
☆
エーリヒの顔から血の気が引いていく。
人当たりの良い笑みが剥がれ落ち、その下から別の顔が現れた。
幼い頃から、思い通りにならないことなど一度もなかった男の、剥き出しの顔だった。
「……今、何と言った」
声が低く掠れている。
「お断りします、と」
「お前が、この俺に、断ると言うのか」
「はい」
リーゼの短い答えに、エーリヒの顔がみるみる怒りに染まっていった。
頬が紅潮し、こめかみに青筋が浮く。
指輪が、指の上で乱暴に回された。
「お前のせいで、国が傾いたんだぞ!」
広間に怒声が響いた。
「お前が勝手に出ていったから、こうなったんだ!それを、最後まで俺に恥をかかせる気か!」
言葉より先に、手が動いた。
エーリヒは大股で距離を詰め、リーゼの腕を掴んだ。
骨が軋むほどの力だった。
そのまま、力ずくで彼女を引き寄せようとする。
リーゼの体が硬直した。
突然のことに、頭が追いつかない。
腕に食い込む指の感触が、遠い記憶を引きずり出す。
夜会の隅で、グラスを奪うように取った、あの荒い手つき。
謁見の間で、杯を払い落とした音。
あれがこちらに向かってくる日が来るとは、思っていなかった。
振り払おうとするが、力の差は歴然としていた。
息が詰まる。
声が出ない。
☆
その腕を、横合いから伸びた別の腕が乱暴に払いのけた。
乾いた音が響いた。
革の手袋をはめた手が、エーリヒの手首を叩き落としたのだ。
ヴィンだった。
いつの間に動いたのか、リーゼには見えなかった。
ただ、気づいた時には、彼はもう二人の間に立っていた。
「彼女に触れるな」
これまで聞いたことのない、低く鋭い声だった。
怒鳴ってはいない。
だが、その一言に含まれた温度は、広間の空気を凍らせるのに十分だった。
壁際の護衛たちが、はっと身構える。
フェリクスが息を呑み、次の瞬間には控えの兵に合図を送っていた。
「な、貴様――無礼な、私を誰だと」
エーリヒが喚きかけた時には、ヴィンはもう動いていた。
間髪入れず、エーリヒの腕を捻り上げる。
「ぐぁぁっ」
悲鳴が上がった。
そのまま体を回して、床に押さえ込む。
指輪が石の床に当たって、澄んだ音を立てた。
「離せ、離せ!俺は王だぞ!こんな真似をして、ただで済むと」
「黙れ」
ヴィンの声は低いままだった。
膝で背を押さえ、腕を極めたまま、彼は顔を上げもしない。
「ここは、俺の国だ」
「閣下」
フェリクスが、低い声で割って入った。
「相手は一国の王です。これは外交問題になります」
「承知の上だ」
ヴィンは顔を上げずに答えた。
「その王が、客の女の腕を折ろうとした。責は俺が負う」
それだけ言うと、ヴィンは兵の手に、エーリヒの体を引き渡した。
☆
エーリヒが兵に取り押さえられ、連れ出されていく声が、やけに遠く聞こえた。
罵声、床を蹴る靴音、フェリクスが飛ばす短い指示。
それらが水の底から聞こえてくるように、輪郭を失っていく。
リーゼはただ、目の前に立つヴィンの背中を見つめていた。
掴まれていた腕がまだ痛んでいる。
膝がかすかに震えていることにも気づいていた。
何か言おうとして、うまく声にならない。
喉の奥が詰まったように熱くて、息の仕方さえ思い出せずにいた。
その背中は、これまで見たどんな姿よりも大きく見えた。




