第二十五話「崩れゆく二人」
噂は馬よりも速かった。
正式な使者が国境を越えるより先に、その知らせは行商人の口から口へ、宿場の酒場から酒場へと渡り、ローゼンヴァルトの王都に届いていた。
国王が隣国へ赴き、元王妃に復位を迫って拒まれたこと。
逆上して腕を掴もうとしたこと。
そして、他国の大公にその場で組み伏せられ、護衛の手で連れ出されたこと。
当の国王は、その時まだ王都に戻っていなかった。
アルダーシュ側は、乱暴を働いた他国の客人を、「保護」の名目で国境の町に留め置いたのだという。
頭を冷やす時間と、正式な抗議を整える時間。
ヴィンが必要としたのは、その二つだった。
ローゼンヴァルト王城の廊下では、誰もが声を潜めてその話をしていた。
潜めているつもりの声が、かえって隅々まで届いてしまうほどに。
「アルダーシュの君主に取り押さえられたそうだ」
「王が女の腕を掴んで、か」
「よりによって、あの方に……」
ゲオルクは、その囁きの中を歩きながら足を止めなかった。
驚きはなかった。
ただ、予期していたことが予期した通りに起きたという、乾いた感慨だけが胸の底にあった。
あるべくして起きたことだ。
あの朝、卓の上の書類を払いのけた背中を見た時から、どこかで分かっていた。
国王の帰国に三日先んじて、正式な使者が到着した。
アルダーシュ公国からの抗議文である。
封を切ったのは、ゲオルク自身だった。
文面は簡潔で、感情を排していた。
国王の暴挙に対する正式な抗議と、賠償に関する協議の申し入れ。
そこまでは予想の範囲内だった。
彼の目を引いたのは、文面の末尾に添えられた、もう一枚の紙だった。
写しである。
筆写された文書の下に、割れた紅い蝋の紋様が拓として写し取られていた。
読み進めるうち、ゲオルクの指先が止まった。
――隣国の会計官リーゼ、元ローゼンヴァルト王妃の名を貶めよ。
手段は問わぬ。
費用は伯爵家が持つ。
隣国の地でリーゼの評判を貶める噂を流すよう、何者かが命じていた。
その依頼状の写しだった。
そして拓の紋様は、彼もよく知るものだった。
ミリアベルの実家である、伯爵家の紋章。
余白に、短い一文が付されている。
――原本は当方にて保管。
この件の追及は、貴国の判断に委ねる。
然るべき時が来たのだ。
ゲオルクはそう思った。
彼の知らないどこかでずっと機を窺っていた者たちが、いよいよその札を切った。
驚くより先に、彼の目はその動かぬ証拠の存在をじっと見つめていた。
☆
さらに三日後、失意のまま帰国したエーリヒを重臣たちが取り囲む形で、謁見の間が開かれた。
抗議文の写しは、すでに重臣たちの間で回覧されている。
彼らの目には、王に対する同情の色はもう残っていなかった。
玉座に座るエーリヒは、片腕をかばうように胸の前で抱えていた。
捻り上げられた腕には包帯が巻かれている。
それでも彼は背筋を伸ばそうとしていた。
指輪をくるり、くるりと回しながら。
傍らに、ミリアベルが控えている。
顔色は悪く、手にはあの小さな手鏡を握っていた。
「陛下、抗議文についてのご説明を」
諸侯の中でも古株で、改革派の重鎮として知られる老いた侯爵が口を開いた。
「説明も何も」
エーリヒは鼻で笑った。
「あんなものは田舎大公の言いがかりだ。私の腕を折りかけておいて抗議だと。笑わせる」
「では、この写しは」
侯爵は、伯爵家の紋章の拓が押された紙を卓の上に置いた。
「元王妃を貶める意図で流された噂の、依頼状にございます。印璽は、ミリアベル様のご実家のもの」
広間がしんと静まった。
エーリヒの目が、紙の上の紋章に落ちる。
数瞬、彼は何も言わなかった。
それからゆっくりと、隣のミリアベルへ視線を向けた。
「……この依頼状は何だ」
声は低く、震えていた。
「お前の実家の印か」
「陛下、それはその」
「こんなものを隣国にまで送ったのか」
エーリヒの声が、じわじわと大きくなっていく。
指輪を回す速さが、目に見えて上がる。
「そもそも、お前があの女を焚き付けるような真似をするから、こんなことに――!」
怒鳴り声が、天井の高い広間に割れ鐘のように響いた。
ミリアベルは、はっと肩を震わせた。
愛らしい唇が開き、閉じ、また開く。
手鏡を握りしめた指が白くなっていた。
「わたくしのせいだと仰るのですか?」
声は震えていた。
その震えの奥から、別の色が滲み出してくる。
「隣国に人を送るよう仰ったのは、陛下ではございませんか!」
☆
重臣たちが息を呑んだ。
これまで、この二人が並んでいる姿はどこまでも睦まじいものとして知られていた。
愛らしい寵姫と、寛大な王。
誰もがそう信じ、あるいは信じたふりをしてきた。
その皮が、目の前で音を立てて剥がれていく。
「な、何を言っている。俺がいつ、そんな」
「あの女が邪魔だと、毎晩のように仰っていたではありませんか。目障りだ、視界から消したい、と」
ミリアベルの手が、無意識に髪へ伸びる。
乱れてもいない毛先を何度も撫でつけた。
手鏡を覗き込むように顔を傾ける。
追い詰められてなお、彼女にできるのは外面を整えることだけだった。
「侍女を手なずけろと仰ったのも、陛下です。あの赤毛の侍女がいなくなれば、あの女は孤立する、と。わたくしは、陛下のお心を汲んだだけですわ」
「言っていない!俺はそこまで言っていない!」
「では、どこまでなら仰ったのですか」
ミリアベルの声が、ふいに低くなった。
追い詰められた者だけが出せる、冷たく硬い声だった。
「わたくしは、陛下のお望みを叶えて差し上げただけです」
「お前が余計な入れ知恵をしなければ、こんなことにはならなかった!」
エーリヒが肘掛けを拳で叩いた。
指輪が石に当たり、かん、と乾いた音を立てる。
「その入れ知恵に乗ったのは、陛下ではありませんか!」
ミリアベルが叫んだ。
二つの声が重なって広間にこだました。
互いの言葉を遮り、被せ、罵り合う。
かつては睦言を交わしていたはずの唇が、今は互いを貶める言葉ばかりを吐き出している。
ゲオルクは広間の端で、その光景を黙って見つめていた。
奇妙な既視感があった。
ふと思い出したのは、いつかの夜会の光景だった。
壁際に立つ地味な色のドレスの女性を前に、この二人が愛想のなさを笑い合っていた光景。
あの時、彼らは共通の的を見つけて結びついていた。
的が失われた今、彼らを繋ぐものは何も残っていなかった。
外部の誰かに暴かれるまでもなく。
この二人は、自分たちの手で自分たちを崩していく。
その事実に、ゲオルクは胸を冷やすような悲哀に近いものを感じていた。
☆
応酬は止まらなかった。
互いを追い詰めようとするあまり、二人は自らの口を制することができなくなっていた。
「わたくしが侍女に金貨を渡そうとしたのも、陛下のご指示です。あの侍女が言うことを聞かなかったから、次は隣国の町に人を送ったのでしょう。何もかも、陛下がお命じになったことではありませんか」
ミリアベルが感情のままに語る。
侍女買収の一件。
隣国への人の派遣。
実家の資金をどう動かしたか。
どの家臣に、どの手紙を託したか。
本来なら誰にも知られてはならないはずの詳細が、自分を守るための言葉として次々にこぼれ出ていく。
「お前が勝手にやったことだ!」
エーリヒが負けじと言い返した。
「俺は、そんなことをしろとは言っていない。ただ、お前がやるのを止めなかっただけだ。だいたい、お前のような愚かな女が、そんな浅知恵で――」
そこまで言って、エーリヒははっと口を噤んだ。
止めなかっただけ。
その言葉が、広間の空気に重く沈んだ。
彼自身がそれを黙認していた。
その事実を、他ならぬ自分の口で認めてしまったのだ。
どちらの言い分が真実なのか。
命じたのは国王なのか、先走ったのは寵姫なのか。
それはもはや、問題ではなかった。
止めなかった者と、動いた者。
二人とも、等しく同じ側にいる。
重臣たちの間に、はっきりとした軽蔑の色が広がっていく。
これまで見て見ぬふりを続けてきた者たちですら、今度ばかりは目を逸らさなかった。
誰か一人を断罪する必要すらなかった。
この二人は、自分たちの言葉だけで自分たちの化けの皮を剥いでいった。
ゲオルクの胸に、乾いた納得が広がっていく。
☆
いつからだろうか。
言い争う二人の声が、少しずつ広間の中で孤立していった。
最初に席を立ったのは、あの老いた侯爵だった。
抗議文の写しを無言で懐にしまうと、二人に一礼もせず、扉へ向かって歩き出した。
それに続くように、一人、また一人と重臣たちが席を立つ。
誰も声を上げなかった。
誰も二人を庇わなかった。
ただ冷ややかな沈黙だけが、広間に広がっていく。
視線を逸らし、音を立てずに退室していく人々の背中を、エーリヒもミリアベルも気づかずに罵り合い続けていた。
言い争う二人の声だけが、がらんとした謁見の間に虚しく響いていた。
気づけば、周りに残っている者は数えるほどしかいない。
ゲオルクはその光景を見届けながら、一つだけ確信していた。
――この国に、もう後戻りの道は残されていない。




