第二十七話「正式な」
ローゼンヴァルトの新しい統治者たちから正式な謝罪の書簡が届いたのは、あの謁見の間の騒動から数週間後のことだった。
賠償に関する協議の申し入れ、国王の行状への遺憾の意、そしてかつての王妃への詫びを述べる一文。
差出人の署名の並びの末尾に、肩書きのない署名がひとつ、小さく添えられていた。
丁寧で控えめで、少しだけ右に傾いた字。
リーゼはその筆跡に見覚えがあった。
眼鏡の奥で目を伏せる白髪の男の顔が、ふと脳裏をよぎる。
彼女はその書簡を畳み、机の引き出しにしまった。
それ以上、あの国のことを思い出す必要はないと、自然に思えた。
☆
その日、アルダーシュ公国の評議の間には、公国の要職を担う者たちが顔を揃えていた。
長机の中央に、分厚い記録簿が置かれている。
交易税の改革に始まり、関所の手数料の明細化、会計処の業務刷新。
この数か月に及ぶ功績の一つひとつが、日付と数字とともに丁寧に書き留められていた。
「以上をもって、会計官リーゼ殿の功績を公国の正式な記録として改めて承認する件、異議はございませんか」
議長が読み上げると、評議の間に拍手が起こった。
リーゼは長机の端で、黙ってそれを聞いていた。
続いて、議長が別の書面を手に取る。
「次に、大公閣下より提案のあった件。会計官リーゼ殿を、大公妃候補として公国に迎える旨について」
その言葉に、リーゼの指先が膝の上で一度だけ跳ねた。
驚きはなかった。
事前にヴィンから聞かされていたからだ。
だが、こうして公の席ではっきりと言葉になるのを聞くのは、また別の重さがあった。
評議の面々が、ゆっくりと彼女に視線を向ける。
好奇の色はなかった。
ただ、彼女がどう答えるのかを誠実に待っていた。
「異議なし」
「異議なし」
最初に声を上げたのは、末席の老評議員だった。
続いてフェリクスが、いつもの皮肉な笑みを消して深く頷く。
他の評議員も、一人、また一人と賛同の声を重ねていった。
誰も反対しなかった。
「婚礼は、来春と定める」
議長がそう締めくくり、評議はひとまずの区切りを迎えた。
リーゼは深く一礼した。
顔を上げた時、視界の端で、ヴィンが窓際の席からこちらを見ていることに気づいた。
彼は何も言わない。
ただ腕を組んだまま、わずかに顎を引いた。
あの朝の執務室を思い出した。
初めて成果そのものを真正面から認められた日。
褒め言葉一つ受け止められず、喉が熱くて、声も出せなかった。
手の中の紙の端が震えるほど、期待することすら怖かった。
あの頃の自分は、確かにここにいた。
今の自分は、それを取り乱さずに受け止められるだけの土台を持っている。
そう気づいて、リーゼは密かに胸の内で微笑んだ。
耳の先だけは、まだ正直に熱くなっていたけれど。
☆
評議が終わったのは、日が傾き始めた頃だった。
人々が退室していく中、リーゼはヴィンに呼び止められた。
「少し、来い」
連れていかれたのは、政庁の最上階、彼の執務室だった。
壁を埋める地図と帳簿棚、机の脇には泥のついた長靴。
何度も足を運んだはずの部屋なのに、今日はいつもより広く感じた。
扉が閉まると、外の物音が遠のく。
二人きりだった。
リーゼはしばらく黙っていた。
それから、ぽつりと口を開いた。
「私のような者が、本当に大公妃などと……」
言いかけて、口を噤む。
評議での承認を受けた今になって、ようやくその言葉の重さが押し寄せてきた。
隣国の元王妃。
離縁された女。
噂を流された過去を持つ者。
そんな自分が、この国の大公の隣に立つ。
「もう、その話はいい」
ヴィンは遮るように、しかし穏やかに言った。
「お前がどこの誰だったかで揺らぐ評価なら、最初からしていない」
あまりにも当然のような言い方だった。
リーゼは目を伏せた。
何度でも同じ場所に立ち返ってしまいそうになる自分の弱さが、情けなかった。
この人は、そのたびに根気強く同じ言葉を返してくれる。
呆れも苛立ちも見せずに。
それがどれほど得難いことか、彼女は知っている。
「……ありがとうございます」
囁くように礼を言うと、ヴィンは机の引き出しから何かを取り出した。
差し出されたのは、革の表紙の帳簿帳だった。
真新しい、硬い革の匂い。
角がまだ尖っている。
頁は一枚も汚れていない。
「これは」
「お前の母君の帳簿は古くなっただろう。あれは形見だ。庭で聞いた。これからも持っていればいい」
ヴィンは視線を斜めに逸らしながら、ぼそりと続けた。
「だが、新しい頁はこっちに書け」
リーゼは帳簿帳を受け取った。
最初の頁を開くと、そこにはたった一行だけ、角張った力強い字で書かれていた。
――二人分。
息が止まった。
「これからは、一人で抱えなくていい」
ヴィンの声は、いつもよりさらに短かった。
「お前の分の欄に書き込む数字も、俺の分の欄に書き込む数字も。どちらも、俺が半分持つ」
言い終えると、彼はふいと窓の方を向いてしまった。
「……以上だ」
業務報告の締めのような一言だった。
声の硬さだけが、照れの残り香だった。
リーゼは帳簿帳を胸に抱えたまま、何も言えなかった。
誰にも頼れず、限界まで一人で抱え込んできた日々が、この一冊の中でひとつずつほどけていくようだった。
☆
窓の外では、夕陽が地平線に沈みかけていた。
橙色の光が、部屋の隅々にまで満ちる。
地図の上の線も、帳簿棚の背表紙も、机の縁も、すべてが同じ色に染まっていた。
ヴィンは窓辺に歩み寄り、しばらく外を見ていた。
それからゆっくりと振り返った。
懐から、小さな箱を取り出す。
掌に載るほどの、飾り気のない木箱だった。
蓋の縁には、細い金の線が一本だけ走っている。
彼はそれを机の端に置くと、いつも身につけている革の手袋に指をかけた。
片方。
もう片方。
ゆっくりと手袋を外していく。
為政者になった今も手放さなかった、現場に出ていた頃の名残。
使い込まれて指の形に馴染んだ革が、するりと抜ける。
露わになった素手には、手のひらに薄くまめの跡が残っていた。
リーゼはそれを見つめた。
自分の指にも、長年ペンを握り続けてきた者特有の、小さなたこがある。
かたちは違うが、どちらも誰にも見られない場所で黙って働き続けてきた手だった。
「欲しい、というのは、もう言った」
ヴィンは低く言った。
窓辺の光が、彼の横顔を縁取っている。
飾りのない、真剣な顔だった。
「今日言いたいのは、その先だ」
彼は一歩、リーゼの前へ進んだ。
そして手袋を外した素手で、そっと彼女の手を取った。
温かかった。
思っていたよりもずっと温かかった。
「この先の全部を――お前と一緒に、生きていきたい」
部屋の中が、しんと静まり返った。
あの夜、窓辺で告げられた「欲しい」という言葉は、今この瞬間のための最初の一歩だったのだ。
そう気づいた時、握られた手の温度がひとつ上がった気がした。
☆
何か答えなければならない。
リーゼは口を開いたが、こみ上げるものが喉に詰まって声にならなかった。
何を言えばいいのか分からなかったわけではない。
言いたいことはいくつもある。
ありがとうも、嬉しいも、怖かったも。
全部が一度に押し寄せて、どの言葉も形になる前にほどけてしまう。
数字ならいくらでも並べられるのに。
こんな時にそれが何の役にも立たないことが、可笑しかった。
代わりにリーゼはそっと手を動かした。
彼に取られていた手の上に、もう片方の手をそっと重ねる。
それだけだった。
それだけで十分だったのだろう。
「……はい」
ようやく、声になったのは、それだけだった。
「私も、あなたと一緒に生きたいです」
ヴィンの表情が、これまで見たどんな時よりも柔らかく緩んだ。
眉間の皺がほどけていく。
鋭い目つきがふっと丸みを帯びる。
他の誰にも見せない、彼女だけが知る素の顔だった。
言葉は、それ以上なかった。
窓の向こうで、夕陽が最後の光を街の屋根に落としていた。




