最終話「ちゃんと見てもらえる」
鏡の中の自分と、リーゼはしばらく黙って向き合っていた。
婚礼の朝だった。
窓の外では、まだ薄い朝もやの向こうから、春の鳥の声が聞こえている。
部屋の隅には、昨夜のうちに運び込まれた花が、水を張った壺に並べて挿されていた。
野の花ばかりの、素朴な取り合わせだった。
「動かないでくださいね。今度こそ、動かないでください」
背後で、カタリナが鼻をすすりながら言った。
手には、銀灰色の髪を留めるための小さな白い花飾りがある。
目元は赤く腫れ、声は少し鼻にかかっていた。
「あなたの方が泣いているのは、おかしいですね」
「泣いてません。目にゴミが入っただけです」
「三回目です、そのゴミは」
軽口を返すと、カタリナは「うるさいです」と言いながら、また袖で目元を拭った。
でも、髪を編む手つきだけは少しも乱れなかった。
「まさか、こんな日が来るなんて……」
ぽつりとカタリナが呟いた。
「王城にいた頃の私に言っても、絶対に信じてもらえませんよ。あの壁際のリーゼ様が、こんなふうに……」
言いかけて、言葉が詰まる。
鼻をすする音がまた響いた。
それでも手は止まらなかった。
リーゼは鏡に映る自分を見つめた。
淡い銀灰色の髪は、低い位置ではなく、今日は高く結い上げられている。
目立たない色を選び続けてきた王城の頃とは違う、白に近い淡い色の婚礼衣装。
目の下の隈は、いつのまにかほとんど消えていた。
脳裏に、あの朝の馬車が浮かんだ。
誰にも見送られず、朝もやの向こうへ遠ざかっていく尖塔を無言で見つめていた自分。
声を殺して泣き続けた、あの狭い車内。
あの日の自分に、今の景色を見せてやりたい。
そんな感慨が胸をよぎった。
――大丈夫。
ちゃんと辿り着くから。
鏡の中の自分に、心の中でそう告げる。
カタリナが最後の花飾りを留め終えて、リーゼの肩にそっと手を置いた。
「できました。……とても、綺麗です」
鏡越しの声は震えていた。
リーゼは振り返って、彼女の手を握った。
「ありがとう、カタリナ」
「今日はそれ、何回言うつもりですか」
「何回でも」
カタリナは堪えきれずに、声を上げて泣き出した。
☆
式の会場は、政庁の中庭に設えられていた。
石畳の上に白い布が敷かれ、木々の枝には色とりどりのリボンが結ばれている。
集まったのは公国の人々だった。
評議の面々、会計処の役人たち、遠くの村から駆けつけた領民、そして市場の商人たち。
豪奢とは言えない、けれど誰もが心から祝福に来た顔をしていた。
「本日は、めでたい日であり――」
祝辞を述べるフェリクスの声が、中庭に響いていた。
黒髪を隙なく整え、礼装の襟を正した彼は、いつになく緊張した面持ちだった。
手にした紙に視線を落とし、一節ずつ丁寧に読み上げていく。
「大公閣下と会計官リーゼ殿は、この国にとって、かけがえのない――かけがえの、ない」
声が詰まった。
紙を持つ手が、わずかに震えている。
言葉の続きを探して、彼は視線を彷徨わせた。
中庭に、ざわめきが波のように広がる。
「フェリクス様が泣いてる」
「いや、あれは笑いを堪えているんだろう」
「どちらでもいい、頑張れ」
誰かが小声で囁き、笑いが起きた。
フェリクスはこほんと咳払いをして、開き直ったように顔を上げる。
「……失礼。あの方が式に呼ぶ人間の中で、私が一番人前で話すのが不得手だと、閣下はご存知のはずなのですが」
「知っていて頼んだ」
新郎席から、ヴィンの声が飛んだ。
周囲がどっと沸く。
フェリクスは肩をすくめると、紙を折りたたんだ。
「では、簡潔に。……お二人は、私が知る限り最も不器用で、最も誠実な方々です。どうか、末永く」
祝辞はそれだけだった。
だが、それ以上の言葉は誰にも必要なかった。
式台のすぐ脇の席では、日に焼けた顔の老商人が、顎髭を何度も撫でていた。
ハンスだ。
「まあ、俺の見立て通りになっただけだ」と、隣のヨーゼフに向かって誇らしげに言う。
ヨーゼフは鼻を鳴らして「お前さんの見立てなど、誰も聞いとらん」と返した。
だがその目元は、どう見ても濡れていた。
その隣に、あの白髪の徴税官長の姿もある。
老人は腕を組んだまま、リーゼと目が合うと無言で小さく頷いた。
数字は事実だ。
そう言った彼の頷きは、今日も変わらず重く、確かだった。
式次第の合間には、いくつもの祝いの書状が読み上げられた。
近隣諸国の使節から。
交易先の商人組合から。
その中に、ローゼンヴァルトの新体制からのものも含まれていた。
差出人の名はゲオルクだった。
肩書きのない、ただの署名。
文面は簡潔で余計な飾りはなく、ただ一言、末尾に添えられていた。
お幸せに、と。
その下に、小さな字で追伸があった。
――北部の名簿の、最初の一頁を書き終えました。
リーゼはその一行を聞いて、目を閉じた。
それから深く頭を下げた。
あの人に、伝わればいい。
そう思った。
☆
招待状は、確かに送っていた。
公爵家にも。
彼女が生まれ育った、あの屋敷にも。
式の席を見渡しても、そこに実家の人間の姿はなかった。
返事の手紙すら届かなかった。
空いたままの席が、参列者の列の隅に一つだけぽつんと置かれている。
リーゼはもう、傷つかなかった。
あの日、馬車の窓から遠ざかる尖塔を見つめながら悟った、あの乾いた実感を、今はただ受け入れている。
役に立つ子でいる間だけ、価値があった。
その刷り込みは、確かに彼女の根に残っている。
けれどそれは、もう彼女を縛る鎖ではなかった。
血の繋がりよりも、ここに集った人々こそが自分の家族なのだ。
その確信が、胸にしっかりと根を下ろしている。
フェリクスの、詰まった祝辞。
ハンスの、得意げな髭。
ヨーゼフの、濡れた目元。
徴税官長の、一度きりの頷き。
カタリナの、止まらない涙。
そして、隣に立つヴィンの体温。
誰か一人でも欠けていたら、今この瞬間はなかったかもしれない。
そう思うと、集まってくれた一人ひとりの顔がいつも以上に愛おしく映った。
誓いの言葉は、立会人を務める老評議員の前で交わされた。
「新郎ヴィンフリート、あなたはこの人を、生涯の伴侶として迎えますか」
ヴィンは一瞬だけ、リーゼを見た。
それから、前を向いたまま、はっきりと言った。
「お前の仕事も、お前自身も、俺の名で守る。……生涯、傍で見ている」
中庭に、小さなどよめきが起きた。
老評議員が、咳払いで笑いを堪えながら、リーゼへ向き直る。
「新婦リーゼロッテ、あなたは」
「はい」
リーゼは、ヴィンを見上げた。
「あなたの隣で、見て、見てもらいながら、生きていきます」
声は少し震えていた。
言葉のほうは、迷わなかった。
指輪の交換は、その後だった。
ヴィンはあの小さな木箱を開け、中から飾り気のない銀の輪を取り出した。
彼は革の手袋を外した素手で、そっとリーゼの左手を取った。
薬指に輪がはめられる。
ひんやりとした銀が、すぐに体温に馴染んでいった。
リーゼも自分の手で、彼の指に揃いの輪をはめた。
まめの跡が残る、節の高い指。
その指が輪を受け取る瞬間、ほんの少しだけ震えた。
彼が緊張している。
そう気づいた瞬間、リーゼは思わず笑ってしまった。
ヴィンがむっとしたように眉を寄せる。
会場に、温かい笑いが広がった。
☆
式の合間、リーゼは少しだけ人混みを離れた。
中庭を囲む回廊。
石造りの柱の間から、賑やかな喧騒が少し遠く、くぐもって聞こえる。
楽団の奏でる素朴な旋律。
人々の笑い声。
皿の触れ合う音。
誰かの足音が近づいてきた。
振り返らなくても分かった。
ヴィンが隣に並んだ。
二人はしばらく何も言わなかった。
夕方に近い傾いた光が、回廊の床に長い影を落としている。
柱の影が、縞のように重なり合っていた。
「抜けてきた。フェリクスに、後を任せた」
「かわいそうです」
「あいつなら、大丈夫だ」
ぶっきらぼうな返事に、リーゼはふっと吹き出した。
それからしばらく、庭の方を見つめていた。
「ヴィン様」
「……まだ、様が取れんか」
「あと少し、時間をください。……それより、言っておきたいことがあります」
ヴィンがリーゼの方を向く。
リーゼは彼の目をまっすぐに見た。
数字の話には、逃げなかった。
「私は、役に立つからここにいるのではありません」
声は少し震えていた。
けれど、言葉は迷わなかった。
「ここにいたいから、ここにいます」
ヴィンの目が、わずかに見開かれた。
それからゆっくりと和らいでいく。
「それでいい」
短い返事だった。
その声には、確かな温度があった。
「俺も同じだ。お前がいるから、ここにいたい」
言葉を選ぶのが下手な男が、自分の言葉で口にした。
リーゼは胸が熱くなるのを感じた。
喧騒を少し遠くに聞きながら、胸の内で呟いた。
どれだけ尽くしても、見てもらえなかった場所があった。
けれど、ここでは違う。
――ここでは、ちゃんと見てもらえる。
隣に立つヴィンが、何も聞いていないはずなのにそっとリーゼの手を握った。
指輪の銀が彼の指に触れて、かすかな音を立てる。
それだけで、言葉はもう要らなかった。
☆
式が終わり、賑わいが少しずつ引いていった頃。
夕暮れの光が、政庁の中庭を橙色に染めていた。
人々が三々五々に帰っていく中、リーゼとヴィンは回廊の端でその光景を眺めていた。
遠く離れたローゼンヴァルトは、混乱の中で沈んでいった。
立ち直るには長い時間がかかるだろう。
祝いの書状の末尾にあった一行が、すべてを物語っていた。
少なくとも、目を逸らさずに机に向かう人が、そこに一人はいる。
一方、この国の市場には、今朝も根菜が山と積まれ、手数料の明細を掲げた関所の前で商人たちが笑いながら荷を解いていた。
急激な繁栄ではない。
豊かな資源にも恵まれない国だ。
互いの働きを正しく見て、正しく認め合う人々が、少しずつ確かに積み重ねていく。
あの国がどうなったかを、リーゼはもう深くは思い出さない。
代わりに、隣で笑うヴィンの横顔と、これから先も続いていくはずの何気ない日々を思う。
朝、机に置かれる湯気の立つ茶。
廊下ですれ違いざまに交わす、短い一言。
新しい帳簿帳のまだ白い頁に、二人分の数字が少しずつ増えていくこと。
夕陽に染まる回廊を、二人はゆっくりと、まだ見ぬ明日へ向かって歩き出した。




