↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨音を数える令嬢は、辺境技師と明日の水路をひらく  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/20

王都から来た監査官

 三日後の朝、分岐水門へ続く山道には、薄い霧が降りていた。


 雨は降っていない。それでも私は、谷の底から聞こえる水の気配を探っていた。音のない雨なら、遠く離れた場所に落ちてもわかる。けれど今朝、耳に届くのは水門の石組みを抜ける、かすかな流れだけだった。


「昨夜、誰かが水門を動かした」


 ノアが泥に残った靴跡を見つめて言った。


「三人分。ひとつは騎兵の靴、もうひとつは作業靴。最後は……」


 彼は言葉を切った。


「管理所の靴だ」


 胸の奥が冷えた。昨夜、管理所を出たのは私とノアだけだった。村人たちは見張りを交代しながら、帳面を守ってくれていた。


 水門の閂には、新しい傷がついていた。鉄具をこじ開けようとした跡だ。


「証拠を消そうとしたのでしょうか」


「違う。閉じたままでは、審査官が来たときに構造を見せられない。だから、壊れたように見せて水を流すつもりだった」


 ノアは水門の脇へ回り、石垣の下を覗き込んだ。そこには新しい土が盛られている。


 私が手を伸ばす前に、彼が制した。


「触らない方がいい」


「罠ですか」


「いや、崩れる」


 ノアは周囲の石を確かめ、長い棒を差し込んだ。土の下から、鈍い音が返ってくる。石ではない。空洞がある。


 村人たちとともに土を取り除くと、古い木箱が現れた。蓋には、見覚えのある採掘場の印が押されている。


 箱の中には、折り畳まれた設計図と、複数の金属板が入っていた。金属板には水路番号と日付が刻まれている。


「分岐水門の交換部品です」


 私は設計図を広げた。


「でも、現在の記録にある水門とは形が違います」


「こちらが本来の水門だ」


 ノアが図面の一点を指した。


「村へ流れる水路が主流で、採掘場へ向かう支流は、増水時だけ開く構造になっている」


「今の水門は逆ですね」


「三年前の修繕で、主流と支流を入れ替えた」


 図面の隅に、施工責任者の署名があった。王都水利院の印と、ひとつの名前。


 私はその名を読んだ。


「ガルド・エーベル」


 昨日、騎兵を率いて来た男の名だった。


 ノアは黙って金属板を裏返した。そこには小さな文字で、交換作業の日付と作業員の名が刻まれている。最後の一枚だけ、削り取られた跡があった。


「どうして、ここに隠されていたのでしょう」


「誰かが後から残したんだ。工事に関わった者が、記録を完全には消せなかった」


 そのとき、山道の向こうから馬車の音が聞こえた。


 王都の旗を掲げた二台の馬車が、霧を押し分けて近づいてくる。先頭の馬車から、灰色の外套を着た女性が降りた。年齢は四十ほどで、背筋がまっすぐだった。彼女の胸元には、水利院とは異なる銀色の徽章がついている。


「王都監査局のエレナ・ヴァイスです」


 女性は周囲を見回した。


「水路管理所への臨時監査を命じられています」


 ガルドの姿はなかった。代わりに、後ろの馬車から二人の書記官と、封印箱を抱えた兵士が降りてくる。


 ノアが一歩前へ出た。


「監査命令書を拝見しても?」


 エレナはすぐに文書を差し出した。王印、水利院の印、監査局の印。三つとも本物だった。


 私は文書の日付を確認した。王都を出発した日と、騎兵が来た日が合わない。監査官は少なくとも一日前には王都を出ていなければ、ここへ到着できない。


 つまり、騎兵たちは監査官が来ることを知っていた。


「あなたがリゼット・アルノーですね」


 エレナが私を見た。


「はい」


「雨量記録と、村人の証言を預かっていると聞いています。すべて提出してください」


「提出する前に、立会人を置かせてください」


 書記官の一人が眉をひそめた。


「あなたは下働きでしょう。監査手続きに口を出す権限はありません」


「記録の管理責任者です」


 私は答えた。


「受領と保管の記録を作成しなければ、提出後に頁が抜き取られても確認できません」


 エレナは私の顔をしばらく見ていたが、やがてうなずいた。


「正しい手続きです。書記官、受領目録を作りなさい」


 その声に、書記官は不満そうに筆を取った。


 私は帳面を一冊ずつ並べた。雨量記録、修繕費、分岐水門の点検記録、そして村人たちの証言。最後に、今朝見つけた設計図と金属板を置いた。


 エレナの目が細くなる。


「これはどこで?」


「分岐水門の土中です」


「発見した時刻と立会人は」


「ここに記録しています」


 私は自分の帳面を開いた。発見時刻、場所、掘り出した人数、箱の状態。書ける限り細かく記してある。


 エレナは設計図を見つめ、低い声で尋ねた。


「この署名を知っていますか」


「昨日ここへ来た騎兵の隊長です」


「ガルド・エーベルは、現在の水利院副長官です」


 村人たちの間にざわめきが起きた。


「では、なぜ彼が現場に来たのですか」


 私が尋ねると、エレナは設計図を折り畳んだ。


「それを調べるために来ました」


 ノアが息を呑んだ。


「監査局は、最初から不正を疑っていたのですか」


「疑いではありません。王都の水利院から提出された収支報告に、三年分の不一致がある。けれど、王都の保管庫にある原本は、すでに差し替えられていました」


 エレナは私たちを見た。


「ここに残る現場記録だけが、改竄前の流れを示せる可能性があります」


 その言葉を聞いて、私は初めて理解した。


 私たちは王都から監視されていたのではない。王都の中でも、制度を取り戻そうとしている人々がいたのだ。


 だが、エレナは続けた。


「ただし、審査は三日後ではありません。ガルドが予定を繰り上げました。明日の夕刻、臨時公開審査を行います」


「明日……」


 ノアの声が低くなる。


「証人も証拠も、まだ十分ではない」


「だからこそ、今日中に分岐水門を開けます」


 私は設計図を指で押さえた。


「本来の流れに戻せば、村へ水が届く。記録だけでなく、現場で制度の誤りを示せます」


 ノアは図面を見て、ゆっくりとうなずいた。


「だが、水門を動かせば採掘場への給水が止まる。向こうは必ず妨害する」


「それでも、やります」


 言葉にした瞬間、恐怖が消えたわけではない。けれど、恐怖よりも、ここで流れを戻さなければならないという思いの方が強かった。


 エレナは銀の徽章を外し、私へ差し出した。


「これを持っていなさい。監査局の立会いを示すものです。誰かがあなたの記録を奪おうとしたら、私の名を出してください」


 私は徽章を受け取った。


 その重さは小さかったが、これまで抱えてきた帳面より重く感じられた。


 山の向こうで、雲が動いた。


 音のない雨が、まだ遠い空から降り始めている。私は目を閉じ、その雨が向かう先を聞いた。


 水は、塞がれた道の前で立ち止まっている。


 ならば、道を開けるのは私たちだ。


 明日の審査までに、失われた流れを取り戻さなければならない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。