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雨音を数える令嬢は、辺境技師と明日の水路をひらく  作者: 銀細工ナギ


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10/20

水を盗んだ仕組み

 その日の午後、私たちは分岐水門の前に集まった。


 空は薄曇りで、遠い山の稜線だけが青く霞んでいる。音のない雨は、まだ谷の外にあった。けれど私は、雲の向こうで水が行き場を失っているのを感じていた。


「村へ流すには、まずこの留め具を外す」


 ノアが図面を広げ、水門の中央にある鉄輪を指した。


「次に、地下の補助弁を開く。水圧が一気に変わるから、順番を間違えると水路が崩れる」


 村人たちは黙って彼の説明を聞いていた。昨日までなら、難しい言葉に怯えて誰も口を挟まなかっただろう。だが今日は、鍬を持つ者も、綱を抱える者も、自分の役目を知っていた。


 エレナは少し離れた場所で、書記官に作業の時刻を記録させている。


「ここを開ければ、本当に村へ水が戻るんですか」


 若い農夫が尋ねた。


「本来なら」


 ノアは答えた。


「ただし、三年前に支流へ流れた土砂が残っている。水が通れば、詰まりが押し出される。最初の流れは濁るだろう」


「畑に使えますか」


「濁りが収まるまで待てば使える」


「待てるほど、井戸は残っていません」


 別の村人が言った。


 ノアはその顔を見た。いつものように冷たい表情を浮かべかけたが、すぐに視線を水門へ戻した。


「だから、見張りを置く。濁りが減った時点で、上流の水をせき止めて分ける」


 彼は地面に枝で線を引いた。


「水路を四つに分ける。飲み水、家畜用、畑、そして採掘場への最低限の流れだ」


 私は図面の余白に、その配分を書き込んだ。採掘場への水を完全に止めれば、向こうは被害を訴えるだろう。だが、最低限の流れを残せば、こちらが私怨で水を奪ったのではないと示せる。


「理屈は立派だな」


 山道の上から声がした。


 振り向くと、昨日の騎兵たちが立っていた。その中央に、灰色の外套を着たガルド・エーベルがいる。彼は馬から降りると、私の手にある銀の徽章へ目を向けた。


「監査官に守られて、ずいぶん大胆になったものだ」


「監査局の立会いのもと、旧設計図に従って水門を戻します」


 私は答えた。


「あなたの署名がある設計図です」


 ガルドの口元が歪んだ。


「古い紙切れを根拠に、現行の命令を否定するつもりか」


「現行の水門で、村の水が消えました」


「自然災害だ」


「では、なぜ修繕費の帳簿に、存在しない部品の代金が三年続けて記録されているのですか」


 私は帳面を開いた。


「水門の交換部品は、土中の木箱に残っていました。納品されたことになっている部品が、実際には使われていない」


 ガルドの目が、初めて揺れた。


 その瞬間、ノアが鉄輪に手をかけた。


「始める」


 村人たちが綱を引く。錆びついた鉄輪は動かなかった。二度、三度と力を込めたところで、金属の奥から嫌な音がした。


「待って!」


 私は叫んだ。


 音のない雨が、谷の向こうで向きを変えた。水ではない。水門の下に、別の空洞がある。そこへ雨が流れ込んでいた。


「地下の補助弁が開けられている」


 ノアが顔を上げた。


 彼は水門脇の石を蹴り、土に埋もれた蓋を見つけた。蓋には新しい鎖が巻かれている。鍵はかかっていない。誰かが急いで閉じたのだ。


「このまま主門を開けば、地下で水がぶつかる」


「水路が崩れる?」


「村へ流れる前に、全体が沈む」


 ガルドが笑った。


「愚かな娘だ。現場を知らぬ者が図面だけで動かすからそうなる」


 私は彼を見た。


「補助弁を開けたのは、あなたの部下ですか」


「証拠はあるのか」


「あります」


 私は目を閉じた。


 音のない雨が、地下の石の隙間へ落ちている。一定の間隔で、水の響きがひとつ途切れる。そのたびに、どこかの弁が震えていた。


「地下の弁は、完全には閉じていません。誰かが石を挟んで固定した」


 ノアが蓋を開け、細い鉄棒を差し込んだ。すぐに眉をひそめる。


「本当だ。石がある」


「取り出せますか」


「水圧がかかっている。外せば一気に水が来る」


「なら、先に排水路を作る」


 私は図面の端を指した。


「この古い排水溝は、現在の記録から消されています。でも、設計図には残っている」


 ノアは図面を覗き込み、やがて短く息を吐いた。


「使える。ただし、土砂で埋まっている」


「村人を二組に分けます。排水溝を掘る組と、水門の綱を支える組。エレナさんは作業の開始を記録してください」


「承知しました」


 エレナが即座に命じる。


 ガルドが兵士へ手を上げた。


「作業を止めろ。許可のない水門操作は王都への反逆にあたる」


 兵士たちが前へ出た。しかし、その前に村の女たちが並んだ。鍬を持つ者、桶を持つ者、幼い子の手を引く者。誰も叫ばなかった。ただ、道を譲らなかった。


「反逆ではありません」


 私は言った。


「失われた水を、正しい道へ戻すだけです」


 ノアが私の隣に立った。


「そして、作業を止めるなら、村人を見殺しにした責任を明日の審査で問う」


 ガルドは彼を睨んだ。


「平民の側につくのか、ノア・ヴァレンツ」


 その名に、空気が凍った。


 ノアの指がわずかに動いた。けれど彼は、もう隠れなかった。


「私は水路技師だ。水を必要とする人間の側にいる」


 村人たちが一斉に土を掘り始めた。


 夕暮れまでに、排水溝の入口が現れた。ノアが合図を出し、地下弁の石を鉄棒で押し出す。轟音とともに水が噴き出し、排水溝へ流れ込んだ。


 土煙の向こうで、水門がゆっくりと開いていく。


 濁った水が、三年ぶりに村への主水路を満たした。


 誰かが泣いた。誰かが膝をついた。私はその流れに耳を澄ませた。


 水は、奪われた時間を取り戻すように、谷を下っていく。


 だが、遠くでまた別の音がした。


 王都へ続く水路の奥で、何かが閉じる音。


 ガルドは馬に乗り、去り際に言った。


「明日の審査で、村の記録など灰になる」


 エレナがその背を見つめる。


「ならば、灰にならない証拠を今夜作りましょう」


 私は濡れた帳面を抱きしめた。


 明日、私たちは水門だけでなく、水を盗んだ仕組みそのものを審査の場へ引きずり出す。

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