水を盗んだ仕組み
その日の午後、私たちは分岐水門の前に集まった。
空は薄曇りで、遠い山の稜線だけが青く霞んでいる。音のない雨は、まだ谷の外にあった。けれど私は、雲の向こうで水が行き場を失っているのを感じていた。
「村へ流すには、まずこの留め具を外す」
ノアが図面を広げ、水門の中央にある鉄輪を指した。
「次に、地下の補助弁を開く。水圧が一気に変わるから、順番を間違えると水路が崩れる」
村人たちは黙って彼の説明を聞いていた。昨日までなら、難しい言葉に怯えて誰も口を挟まなかっただろう。だが今日は、鍬を持つ者も、綱を抱える者も、自分の役目を知っていた。
エレナは少し離れた場所で、書記官に作業の時刻を記録させている。
「ここを開ければ、本当に村へ水が戻るんですか」
若い農夫が尋ねた。
「本来なら」
ノアは答えた。
「ただし、三年前に支流へ流れた土砂が残っている。水が通れば、詰まりが押し出される。最初の流れは濁るだろう」
「畑に使えますか」
「濁りが収まるまで待てば使える」
「待てるほど、井戸は残っていません」
別の村人が言った。
ノアはその顔を見た。いつものように冷たい表情を浮かべかけたが、すぐに視線を水門へ戻した。
「だから、見張りを置く。濁りが減った時点で、上流の水をせき止めて分ける」
彼は地面に枝で線を引いた。
「水路を四つに分ける。飲み水、家畜用、畑、そして採掘場への最低限の流れだ」
私は図面の余白に、その配分を書き込んだ。採掘場への水を完全に止めれば、向こうは被害を訴えるだろう。だが、最低限の流れを残せば、こちらが私怨で水を奪ったのではないと示せる。
「理屈は立派だな」
山道の上から声がした。
振り向くと、昨日の騎兵たちが立っていた。その中央に、灰色の外套を着たガルド・エーベルがいる。彼は馬から降りると、私の手にある銀の徽章へ目を向けた。
「監査官に守られて、ずいぶん大胆になったものだ」
「監査局の立会いのもと、旧設計図に従って水門を戻します」
私は答えた。
「あなたの署名がある設計図です」
ガルドの口元が歪んだ。
「古い紙切れを根拠に、現行の命令を否定するつもりか」
「現行の水門で、村の水が消えました」
「自然災害だ」
「では、なぜ修繕費の帳簿に、存在しない部品の代金が三年続けて記録されているのですか」
私は帳面を開いた。
「水門の交換部品は、土中の木箱に残っていました。納品されたことになっている部品が、実際には使われていない」
ガルドの目が、初めて揺れた。
その瞬間、ノアが鉄輪に手をかけた。
「始める」
村人たちが綱を引く。錆びついた鉄輪は動かなかった。二度、三度と力を込めたところで、金属の奥から嫌な音がした。
「待って!」
私は叫んだ。
音のない雨が、谷の向こうで向きを変えた。水ではない。水門の下に、別の空洞がある。そこへ雨が流れ込んでいた。
「地下の補助弁が開けられている」
ノアが顔を上げた。
彼は水門脇の石を蹴り、土に埋もれた蓋を見つけた。蓋には新しい鎖が巻かれている。鍵はかかっていない。誰かが急いで閉じたのだ。
「このまま主門を開けば、地下で水がぶつかる」
「水路が崩れる?」
「村へ流れる前に、全体が沈む」
ガルドが笑った。
「愚かな娘だ。現場を知らぬ者が図面だけで動かすからそうなる」
私は彼を見た。
「補助弁を開けたのは、あなたの部下ですか」
「証拠はあるのか」
「あります」
私は目を閉じた。
音のない雨が、地下の石の隙間へ落ちている。一定の間隔で、水の響きがひとつ途切れる。そのたびに、どこかの弁が震えていた。
「地下の弁は、完全には閉じていません。誰かが石を挟んで固定した」
ノアが蓋を開け、細い鉄棒を差し込んだ。すぐに眉をひそめる。
「本当だ。石がある」
「取り出せますか」
「水圧がかかっている。外せば一気に水が来る」
「なら、先に排水路を作る」
私は図面の端を指した。
「この古い排水溝は、現在の記録から消されています。でも、設計図には残っている」
ノアは図面を覗き込み、やがて短く息を吐いた。
「使える。ただし、土砂で埋まっている」
「村人を二組に分けます。排水溝を掘る組と、水門の綱を支える組。エレナさんは作業の開始を記録してください」
「承知しました」
エレナが即座に命じる。
ガルドが兵士へ手を上げた。
「作業を止めろ。許可のない水門操作は王都への反逆にあたる」
兵士たちが前へ出た。しかし、その前に村の女たちが並んだ。鍬を持つ者、桶を持つ者、幼い子の手を引く者。誰も叫ばなかった。ただ、道を譲らなかった。
「反逆ではありません」
私は言った。
「失われた水を、正しい道へ戻すだけです」
ノアが私の隣に立った。
「そして、作業を止めるなら、村人を見殺しにした責任を明日の審査で問う」
ガルドは彼を睨んだ。
「平民の側につくのか、ノア・ヴァレンツ」
その名に、空気が凍った。
ノアの指がわずかに動いた。けれど彼は、もう隠れなかった。
「私は水路技師だ。水を必要とする人間の側にいる」
村人たちが一斉に土を掘り始めた。
夕暮れまでに、排水溝の入口が現れた。ノアが合図を出し、地下弁の石を鉄棒で押し出す。轟音とともに水が噴き出し、排水溝へ流れ込んだ。
土煙の向こうで、水門がゆっくりと開いていく。
濁った水が、三年ぶりに村への主水路を満たした。
誰かが泣いた。誰かが膝をついた。私はその流れに耳を澄ませた。
水は、奪われた時間を取り戻すように、谷を下っていく。
だが、遠くでまた別の音がした。
王都へ続く水路の奥で、何かが閉じる音。
ガルドは馬に乗り、去り際に言った。
「明日の審査で、村の記録など灰になる」
エレナがその背を見つめる。
「ならば、灰にならない証拠を今夜作りましょう」
私は濡れた帳面を抱きしめた。
明日、私たちは水門だけでなく、水を盗んだ仕組みそのものを審査の場へ引きずり出す。




