↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨音を数える令嬢は、辺境技師と明日の水路をひらく  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/20

ノアの過去と謝罪

 夜半、管理所の灯りは消えなかった。


 濡れた帳面を乾かすため、暖炉のそばに紐を張り、紙を一枚ずつ吊るしていく。火が強すぎれば文字が滲み、弱すぎれば朝までに乾かない。エレナは黙々と紙を入れ替え、私は乾いた頁から順に重石を置いた。


 ノアは机の前に座り、古い設計図を見つめていた。


「王都へ続く水路で、何が閉じたのでしょう」


 私が尋ねると、彼はすぐには答えなかった。


「主水路の下流に、遠隔式の遮断弁がある。王都の配水局から操作できるものだ」


「それを閉じれば、明日の審査に水の流れを再現できなくなる」


「それだけではない。王都へ送られる水量を減らし、こちらの操作が原因だと見せられる」


 私は帳面の最後の頁を開いた。そこには、三年前から毎月同じ水量が王都へ送られたことになっている。しかし今日、村の水門を戻しただけで、下流の水圧は不自然に下がった。


「記録と実際の流れが違うなら、帳簿だけでは否定されます」


「だから、明日の朝までに現地の証言を集める」


 ノアは立ち上がった。


「水門を開いた時刻、排水溝の状態、濁りが収まるまでの時間。数字と目撃者が必要だ」


「分かりました。けれど、あなたは休んでください」


「私は平気だ」


「平気な人は、同じ頁を一刻も見つめません」


 ノアの手が止まった。


 暖炉の火が、彼の横顔に深い影を落とす。いつもなら、そこで話は終わった。けれど今夜の彼は、設計図を畳まずに言った。


「リゼット。君は、私の過去を聞きたいと思っているか」


 突然の問いに、私は息を呑んだ。


「話したくないなら、無理に聞きません」


「聞いてほしい。明日の審査で、私の名が出る前に」


 ノアは机の引き出しから、黄ばんだ一枚の書類を取り出した。王都水路技師養成院の修了証。その下に、若い彼の署名があった。


「私はここへ来る前、王都の配水局で働いていた。父は上級技師で、私はその子息として扱われた。現場を知らなくても、私の図面は正しいと信じられていた」


「それで、辺境へ?」


「三年前、配水制度の改定案を作った。王都へ送る水量を優先し、辺境の水門を一括管理する案だ。私は、各地の管理人を非効率だと思った。村人は数字を読めず、感情で水を使う。だから、王都が決めれば無駄がなくなると」


 ノアは自嘲するように笑った。


「その制度を利用して、ガルドたちは部品の交換を偽り、水を横流しした。私は不正に気づかなかった。いや、気づこうとしなかった。帳簿が整っている限り、現場の苦情は誤差だと思っていた」


 胸の奥が冷えた。


「あなたは、村の水が消える仕組みに署名したのですか」


「ああ」


 短い返事だった。


 私は乾きかけた紙を見つめた。ノアがこれまでどれほど図面を正確に扱ってきたかを知っている。その手が、かつて人々を数字の外へ追いやるために動いていた。


「謝って済むことではないと思います」


「分かっている」


「私に謝られても、失われた三年は戻りません」


「それでも謝りたい」


 ノアは椅子から立ち、深く頭を下げた。


「すまなかった。君が記録を読めないことを知った時、私は同じように君を数字の外へ置こうとした。身分を失った令嬢だから、現場の判断などできないと決めつけた。君が耳で雨を測り、人の声を記録し、水路を変えた後も、私は自分の知識が中心だと思っていた」


 私は黙っていた。


 謝罪の言葉は、傷を消さない。けれど、傷の形を見ようとする人間の顔を、私は初めて見た気がした。


「ノア」


 彼が顔を上げる。


「私は、あなたの過去を許すとは言いません。けれど、これから何をするかは見届けます」


「それでいい」


「そして、明日の審査ではあなた自身が話してください。私の記録だけに頼らず、あなたの署名がどこにあるのか、何を見落としたのか」


「分かった」


 その時、外で扉を叩く音がした。


 若い農夫が息を切らして立っている。


「下流の見張りから知らせです。王都へ向かう水路の遮断弁が閉じました。それから、弁室の前で見慣れない男が逃げたそうです」


「追跡は?」


「雪解け水で道が崩れて、村の者だけでは難しい」


 ノアは外套を取った。


「弁室へ行く。証拠を残すため、誰も触れずに見張ってくれ」


「私も行きます」


「危険だ」


「明日の証言に、現場を見た記録が必要です」


 ノアは一瞬だけ私を見た。それから、以前のように止めることはしなかった。


「分かった。君の判断を尊重する」


 夜の谷へ出ると、雪の上に細い雨が落ちていた。音のない雨は、王都へ向かう水路の方角で途切れている。


 誰かが水を閉じた。


 けれど今度は、私たちは閉じられた扉の前で立ち尽くさない。ノアは自分の署名を背負い、私は自分の耳と記録を携えている。


 明日の審査で暴くのは、他人の罪だけではない。


 水を奪う仕組みに、見て見ぬふりをした私たち自身の過去もまた、裁きの場へ運ばれるのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。