ノアの過去と謝罪
夜半、管理所の灯りは消えなかった。
濡れた帳面を乾かすため、暖炉のそばに紐を張り、紙を一枚ずつ吊るしていく。火が強すぎれば文字が滲み、弱すぎれば朝までに乾かない。エレナは黙々と紙を入れ替え、私は乾いた頁から順に重石を置いた。
ノアは机の前に座り、古い設計図を見つめていた。
「王都へ続く水路で、何が閉じたのでしょう」
私が尋ねると、彼はすぐには答えなかった。
「主水路の下流に、遠隔式の遮断弁がある。王都の配水局から操作できるものだ」
「それを閉じれば、明日の審査に水の流れを再現できなくなる」
「それだけではない。王都へ送られる水量を減らし、こちらの操作が原因だと見せられる」
私は帳面の最後の頁を開いた。そこには、三年前から毎月同じ水量が王都へ送られたことになっている。しかし今日、村の水門を戻しただけで、下流の水圧は不自然に下がった。
「記録と実際の流れが違うなら、帳簿だけでは否定されます」
「だから、明日の朝までに現地の証言を集める」
ノアは立ち上がった。
「水門を開いた時刻、排水溝の状態、濁りが収まるまでの時間。数字と目撃者が必要だ」
「分かりました。けれど、あなたは休んでください」
「私は平気だ」
「平気な人は、同じ頁を一刻も見つめません」
ノアの手が止まった。
暖炉の火が、彼の横顔に深い影を落とす。いつもなら、そこで話は終わった。けれど今夜の彼は、設計図を畳まずに言った。
「リゼット。君は、私の過去を聞きたいと思っているか」
突然の問いに、私は息を呑んだ。
「話したくないなら、無理に聞きません」
「聞いてほしい。明日の審査で、私の名が出る前に」
ノアは机の引き出しから、黄ばんだ一枚の書類を取り出した。王都水路技師養成院の修了証。その下に、若い彼の署名があった。
「私はここへ来る前、王都の配水局で働いていた。父は上級技師で、私はその子息として扱われた。現場を知らなくても、私の図面は正しいと信じられていた」
「それで、辺境へ?」
「三年前、配水制度の改定案を作った。王都へ送る水量を優先し、辺境の水門を一括管理する案だ。私は、各地の管理人を非効率だと思った。村人は数字を読めず、感情で水を使う。だから、王都が決めれば無駄がなくなると」
ノアは自嘲するように笑った。
「その制度を利用して、ガルドたちは部品の交換を偽り、水を横流しした。私は不正に気づかなかった。いや、気づこうとしなかった。帳簿が整っている限り、現場の苦情は誤差だと思っていた」
胸の奥が冷えた。
「あなたは、村の水が消える仕組みに署名したのですか」
「ああ」
短い返事だった。
私は乾きかけた紙を見つめた。ノアがこれまでどれほど図面を正確に扱ってきたかを知っている。その手が、かつて人々を数字の外へ追いやるために動いていた。
「謝って済むことではないと思います」
「分かっている」
「私に謝られても、失われた三年は戻りません」
「それでも謝りたい」
ノアは椅子から立ち、深く頭を下げた。
「すまなかった。君が記録を読めないことを知った時、私は同じように君を数字の外へ置こうとした。身分を失った令嬢だから、現場の判断などできないと決めつけた。君が耳で雨を測り、人の声を記録し、水路を変えた後も、私は自分の知識が中心だと思っていた」
私は黙っていた。
謝罪の言葉は、傷を消さない。けれど、傷の形を見ようとする人間の顔を、私は初めて見た気がした。
「ノア」
彼が顔を上げる。
「私は、あなたの過去を許すとは言いません。けれど、これから何をするかは見届けます」
「それでいい」
「そして、明日の審査ではあなた自身が話してください。私の記録だけに頼らず、あなたの署名がどこにあるのか、何を見落としたのか」
「分かった」
その時、外で扉を叩く音がした。
若い農夫が息を切らして立っている。
「下流の見張りから知らせです。王都へ向かう水路の遮断弁が閉じました。それから、弁室の前で見慣れない男が逃げたそうです」
「追跡は?」
「雪解け水で道が崩れて、村の者だけでは難しい」
ノアは外套を取った。
「弁室へ行く。証拠を残すため、誰も触れずに見張ってくれ」
「私も行きます」
「危険だ」
「明日の証言に、現場を見た記録が必要です」
ノアは一瞬だけ私を見た。それから、以前のように止めることはしなかった。
「分かった。君の判断を尊重する」
夜の谷へ出ると、雪の上に細い雨が落ちていた。音のない雨は、王都へ向かう水路の方角で途切れている。
誰かが水を閉じた。
けれど今度は、私たちは閉じられた扉の前で立ち尽くさない。ノアは自分の署名を背負い、私は自分の耳と記録を携えている。
明日の審査で暴くのは、他人の罪だけではない。
水を奪う仕組みに、見て見ぬふりをした私たち自身の過去もまた、裁きの場へ運ばれるのだ。




