辺境組合をつくる
弁室へ続く道は、夜の雨でぬかるんでいた。
雪解け水が斜面を走り、靴の底から冷たさが這い上がる。ノアは先を歩き、崩れた道を確かめながら、時折こちらへ手を伸ばした。私はその手を借りることもあれば、断ることもあった。助けを拒むためではない。自分で渡れる場所かどうかを、自分で決めたかった。
谷の奥で、雨の音が途切れていた。
正確には、雨は降っている。けれど私にだけ聞こえる、音のない雨の層が、弁室を境に消えているのだ。水の流れが変えられた場所では、いつも雨の気配が薄くなる。地中の水脈と地上の雨が、誰かの手で無理に引き離されたように感じられた。
「ここです」
先に着いていた見張りの農夫が、暗がりから顔を出した。
弁室の鉄扉は半ば開いていた。錆びた蝶番の周りだけ、最近削られたように赤茶色が鮮やかだった。扉の下には泥が残り、細長い靴跡が二つ、谷の上へ向かって続いている。
ノアは灯りをかざし、扉には触れずに内部を覗いた。
「遮断弁は閉じられている。工具を使った跡がある」
「誰かが鍵を持っていたのですか」
「本来、この弁室の鍵は三本しかない。配水局、管理所、そして王都の監査官だ」
「では、犯人は鍵を持っていたか、鍵を作った」
私は扉の脇にしゃがみ込んだ。泥の上に、黒い粉が散っている。指で触れず、灯りを近づけて見ると、金属の削り屑のようだった。
そのそばに、布の切れ端が引っかかっている。濃紺の布に、銀色の糸が一本だけ縫い込まれていた。
「ノア、これは王都の配水局の制服ではありませんか」
彼は布を見つめた。
「監査官の外套に使われる布だ。ただし、同じものが流通している可能性はある」
「だから、断定はしません」
私は帳面を開いた。濡れないように油紙で包んでいた簡易記録の頁へ、時刻と場所、扉の状態、靴跡の方向を書き込む。文字を読むことはできなくても、数字と印の形は何度も練習した。ノアが書いた記号を真似るのではなく、私自身が後から聞き取れるように、雨の層と水路の変化を線で記した。
「何を描いている」
「雨が消えた境目です。弁室より北では、音のない雨が戻っています」
「雨の音が聞こえるのか」
「音ではありません。水が地面に触れる前の、重さの違いです」
ノアは尋ね返さなかった。以前なら、説明できないものを測定不能として退けただろう。だが今の彼は、私の頁を覗き込み、しばらく黙っていた。
「境目が動いている」
「ええ。弁が閉じられてからも、少しずつ下流へ移っています」
「地下の水圧が変わっている。放置すれば、古い水路の継ぎ目が破裂する」
農夫の顔から血の気が引いた。
「村の家畜小屋の下を通っています」
「全員を高台へ移す。弁を急に開けるのも危険だ。まず側水路へ逃がす」
ノアは設計図を広げた。しかし風にあおられ、紙の端が泥へ落ちかける。私は押さえながら、図面の線と実際の水音を重ねた。
「ここに古い排水溝があります」
「記録上は塞がれている」
「記録上では、でしょう」
私は弁室の裏手へ回った。草に埋もれた石積みの間から、かすかな水の気配がする。耳を澄ますと、音のない雨が細く連なっていた。
「この下です。土を掘れば、まだ通じているかもしれません」
農夫たちが鍬を取った。ノアも外套を脱ぎ、泥の中へ膝をつく。しばらくして、鍬の先が空洞を叩いた。
石を外すと、濁った水が勢いよく流れ出した。
「側水路へつなげる!」
ノアの指示に、男たちが板を運ぶ。私は雨の変化を聞き分けながら、板を置く位置を伝えた。水が強すぎる場所では土が崩れ、弱すぎる場所では流れが戻る。目で見ただけでは分からない境目を、私は耳で追った。
夜明け前、村へ向かう水圧は少しずつ下がった。
破裂は防げた。
だが、弁室に残された証拠は、それだけではなかった。内部の床下から、薄い金属板が見つかった。王都へ送った水量を記録する装置の一部で、数値を一定に保つための細工が施されている。
ノアはそれを手にしたまま、長い間黙っていた。
「審査では、これを出します」
私が言うと、彼は頷いた。
「私の署名がある制度が、現場の水量を隠すために使われていた。その事実も話す」
「怖くはありませんか」
「怖い。だが、怖いから隠せば、また誰かが数字の外へ落ちる」
東の空が白み始めた。
管理所へ戻る途中、農夫の一人が言った。
「俺たちも審査で話す。王都の役人だけに任せたら、また水門を閉められる」
別の者も続ける。
「村ごとに記録を持ち寄ればいい。雨の量も、水を使った時刻も、誰かが見ていれば残せる」
私は足を止めた。
「それなら、村ごとに別々に記録するのではなく、互いに確かめ合える仕組みが必要です」
ノアが私を見る。
「辺境全体で、水路を守る組合をつくる」
その言葉は、まだ制度ではなかった。名前と、いくつかの濡れた帳面と、疲れた人々の同意にすぎない。
けれど朝の雨は、昨日よりはっきり聞こえた。
奪われた水を取り戻すだけでは足りない。
二度と誰かの机の上だけで、水の行き先を決めさせないために。私たちは、閉じた弁の前から歩き始めた。




