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雨音を数える令嬢は、辺境技師と明日の水路をひらく  作者: 銀細工ナギ


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13/20

味方になった元婚約者

 組合の規約を初めて広げた朝、管理所の窓を叩く雨は、細く長く降り続いていた。


 私たちは食堂の長机を二つつなぎ、村ごとに持ち寄った帳面を並べていた。雨が降った時刻、水路へ流れた量、配水を受けた家の数、弁を開けた者の名前。記録の形はばらばらで、数字の書き方も印のつけ方も違っていた。


 それでも、そこには王都の帳簿にないものがあった。


 水を待つ人の声と、水を守ろうとした人の手の跡だ。


「記録係は村ごとに一人では足りません」


 私は帳面を見比べながら言った。


「一人が間違えれば、また数字だけを理由に疑われます。書いた者と確かめる者を分けましょう。弁を動かした時刻は、二人以上が同じ頁に印をつける。月末には隣の村と交換して、互いに照合する」


「そんなに人を出せるか?」


 北の村の代表が眉をひそめた。


「農作業の手を止めることになる」


「だから、記録をつける人には組合から穀物を渡します」


 ノアが答えた。


「配水局へ納めていた管理費の一部を、組合の運営に回す。金額は少ないが、無償で誰かの労力に頼るより続く」


「配水局が認めるとは思えん」


 その言葉に、部屋の空気が沈んだ。


 王都の許可がなければ、組合はただの寄り合いにすぎない。水門を閉じる権限も、記録を公式に扱わせる力もない。私たちは前夜まで、その壁をどう越えるか話し合っていた。


 そこへ、馬の蹄の音が近づいてきた。


 窓の外に、王都式の黒い馬車が止まる。紋章を見た瞬間、私は息を止めた。


 銀の蔓草に囲まれた青い盾。


 見間違えるはずがない。かつて私の家の晩餐会で、何度も見た紋章だった。


 扉が開き、先に降りた若い男が外套の泥を払う。顔を上げた彼と目が合った。


「リゼット」


 その声を聞く前から、誰なのか分かっていた。


 アーヴェル・グランディス。私の元婚約者だった。


 かつて彼は、私の能力を迷信だと笑い、没落した家との縁を切るために、一方的な婚約解消の書状を送りつけた。王都で新しい婚約を結んだと聞いたのは、辺境へ来て間もない頃だ。


 彼は食堂へ入ると、私たちの前で立ち止まった。


「監査官として来たのですか」


「正式には、王都評議会からの使者だ」


「では、組合を解散させる命令を?」


 アーヴェルは答えず、机の上の帳面を見渡した。以前の彼なら、汚れた紙を指先で避けていたはずなのに、今は一冊を手に取り、濡れた頁を丁寧にめくった。


「父の署名がある」


 ノアが硬い声を出した。


「グランディス家は配水局への出資者だ。あなたの家が、王都の利権を支えてきた」


「知っている」


「なら、なぜここへ来た」


 アーヴェルは帳面を閉じた。


「父は、今回の審査を止めようとしている。組合の設立を認めれば、配水局が独占してきた水量管理の権限が失われるからだ」


 誰かが椅子を引く音がした。


「だったら、あなたも止めに来たのでしょう」


 私はアーヴェルを見つめた。


「あなたはいつも、都合の悪いものを見ない人だった。私の家が傾いた時も、婚約を切れば自分は傷つかないと思っていた」


「その通りだ」


 あまりに素直な返事に、逆に言葉を失った。


 アーヴェルは苦く笑った。


「私は、家の名があれば正しいと思っていた。お前が雨の中で数字を拾っている間、私は王都の宴で、水不足は辺境の管理が悪いせいだと話していた」


 彼は懐から封筒を取り出し、机の上へ置いた。


「配水局の内部記録だ。弁を閉じた命令書、数値を改ざんした報告、そして審査官へ渡された金の一覧がある」


 ノアが封筒へ手を伸ばしかけ、止めた。


「なぜ渡す」


「父が破棄する前に写しを取った。原本は王都の金庫にある。私はそれを持ち出せないが、写しなら審査で使える」


「あなたの家も、あなた自身も無事では済まない」


「分かっている」


 アーヴェルは私を見た。


「だから、味方になったと言いに来た」


 その言葉は、遅すぎた。


 婚約を解かれた日の痛みも、王都で笑いものにされた屈辱も、消えるわけではない。味方という一言で、過去がなかったことになるはずもない。


「あなたを許すとは言いません」


「求めていない」


「あなたの証言を信じるとも、まだ言えません」


「それでいい」


 私は封筒を取り上げた。紙の中から、音のない雨がかすかに揺れた。嘘の記録には、いつも乾いた空白がある。けれどこの紙には、隠された水の重さが残っていた。


「証言するなら、私たちの前ではなく、公開審査の場でしてください。家名も、父君の名前も伏せないで」


 アーヴェルは頷いた。


「分かった」


「そして、組合の規約に口を出さないでください。あなたは王都の制度を知っていても、この土地の水路を知らない」


「分かった」


 ノアが私の隣に立った。


「彼を信用する必要はない。だが、証拠は使える」


「ええ。人ではなく、記録を確かめます」


 私は封筒を開き、写しの束を一枚ずつ机に並べた。


 外では雨が強くなっていた。窓の向こうで、見えない水の流れがいくつにも分かれていく。


 過去の味方ではない。


 これから、同じ場所で真実を述べる者。


 私はそう決めて、組合の最初の規約に署名した。筆先が紙に触れた瞬間、遠くの水門が低く鳴った。今度の音は、誰かに閉じられた合図ではなかった。


 新しい流れが、確かに始まった音だった。

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