味方になった元婚約者
組合の規約を初めて広げた朝、管理所の窓を叩く雨は、細く長く降り続いていた。
私たちは食堂の長机を二つつなぎ、村ごとに持ち寄った帳面を並べていた。雨が降った時刻、水路へ流れた量、配水を受けた家の数、弁を開けた者の名前。記録の形はばらばらで、数字の書き方も印のつけ方も違っていた。
それでも、そこには王都の帳簿にないものがあった。
水を待つ人の声と、水を守ろうとした人の手の跡だ。
「記録係は村ごとに一人では足りません」
私は帳面を見比べながら言った。
「一人が間違えれば、また数字だけを理由に疑われます。書いた者と確かめる者を分けましょう。弁を動かした時刻は、二人以上が同じ頁に印をつける。月末には隣の村と交換して、互いに照合する」
「そんなに人を出せるか?」
北の村の代表が眉をひそめた。
「農作業の手を止めることになる」
「だから、記録をつける人には組合から穀物を渡します」
ノアが答えた。
「配水局へ納めていた管理費の一部を、組合の運営に回す。金額は少ないが、無償で誰かの労力に頼るより続く」
「配水局が認めるとは思えん」
その言葉に、部屋の空気が沈んだ。
王都の許可がなければ、組合はただの寄り合いにすぎない。水門を閉じる権限も、記録を公式に扱わせる力もない。私たちは前夜まで、その壁をどう越えるか話し合っていた。
そこへ、馬の蹄の音が近づいてきた。
窓の外に、王都式の黒い馬車が止まる。紋章を見た瞬間、私は息を止めた。
銀の蔓草に囲まれた青い盾。
見間違えるはずがない。かつて私の家の晩餐会で、何度も見た紋章だった。
扉が開き、先に降りた若い男が外套の泥を払う。顔を上げた彼と目が合った。
「リゼット」
その声を聞く前から、誰なのか分かっていた。
アーヴェル・グランディス。私の元婚約者だった。
かつて彼は、私の能力を迷信だと笑い、没落した家との縁を切るために、一方的な婚約解消の書状を送りつけた。王都で新しい婚約を結んだと聞いたのは、辺境へ来て間もない頃だ。
彼は食堂へ入ると、私たちの前で立ち止まった。
「監査官として来たのですか」
「正式には、王都評議会からの使者だ」
「では、組合を解散させる命令を?」
アーヴェルは答えず、机の上の帳面を見渡した。以前の彼なら、汚れた紙を指先で避けていたはずなのに、今は一冊を手に取り、濡れた頁を丁寧にめくった。
「父の署名がある」
ノアが硬い声を出した。
「グランディス家は配水局への出資者だ。あなたの家が、王都の利権を支えてきた」
「知っている」
「なら、なぜここへ来た」
アーヴェルは帳面を閉じた。
「父は、今回の審査を止めようとしている。組合の設立を認めれば、配水局が独占してきた水量管理の権限が失われるからだ」
誰かが椅子を引く音がした。
「だったら、あなたも止めに来たのでしょう」
私はアーヴェルを見つめた。
「あなたはいつも、都合の悪いものを見ない人だった。私の家が傾いた時も、婚約を切れば自分は傷つかないと思っていた」
「その通りだ」
あまりに素直な返事に、逆に言葉を失った。
アーヴェルは苦く笑った。
「私は、家の名があれば正しいと思っていた。お前が雨の中で数字を拾っている間、私は王都の宴で、水不足は辺境の管理が悪いせいだと話していた」
彼は懐から封筒を取り出し、机の上へ置いた。
「配水局の内部記録だ。弁を閉じた命令書、数値を改ざんした報告、そして審査官へ渡された金の一覧がある」
ノアが封筒へ手を伸ばしかけ、止めた。
「なぜ渡す」
「父が破棄する前に写しを取った。原本は王都の金庫にある。私はそれを持ち出せないが、写しなら審査で使える」
「あなたの家も、あなた自身も無事では済まない」
「分かっている」
アーヴェルは私を見た。
「だから、味方になったと言いに来た」
その言葉は、遅すぎた。
婚約を解かれた日の痛みも、王都で笑いものにされた屈辱も、消えるわけではない。味方という一言で、過去がなかったことになるはずもない。
「あなたを許すとは言いません」
「求めていない」
「あなたの証言を信じるとも、まだ言えません」
「それでいい」
私は封筒を取り上げた。紙の中から、音のない雨がかすかに揺れた。嘘の記録には、いつも乾いた空白がある。けれどこの紙には、隠された水の重さが残っていた。
「証言するなら、私たちの前ではなく、公開審査の場でしてください。家名も、父君の名前も伏せないで」
アーヴェルは頷いた。
「分かった」
「そして、組合の規約に口を出さないでください。あなたは王都の制度を知っていても、この土地の水路を知らない」
「分かった」
ノアが私の隣に立った。
「彼を信用する必要はない。だが、証拠は使える」
「ええ。人ではなく、記録を確かめます」
私は封筒を開き、写しの束を一枚ずつ机に並べた。
外では雨が強くなっていた。窓の向こうで、見えない水の流れがいくつにも分かれていく。
過去の味方ではない。
これから、同じ場所で真実を述べる者。
私はそう決めて、組合の最初の規約に署名した。筆先が紙に触れた瞬間、遠くの水門が低く鳴った。今度の音は、誰かに閉じられた合図ではなかった。
新しい流れが、確かに始まった音だった。




