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雨音を数える令嬢は、辺境技師と明日の水路をひらく  作者: 銀細工ナギ


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14/20

雨時計の完成

 アーヴェルが持ち込んだ写しは、三日かけても読み終わらなかった。


 配水局の命令書には、村へ送られるはずの水が途中で別の水路へ振り替えられた記録が並んでいた。しかも、その水路の先には王都へ穀物を納める大農園がある。雨の少ない年ほど、辺境の村から水を奪い、王都向けの畑を優先していたのだ。


 数字は整っていた。整いすぎていた。


「この頁だけ、雨量と流量の比率が不自然です」


 私は一枚の紙を指で押さえた。


「雨が降った直後なのに、下流へ届いた水が少なすぎる。途中で弁を閉じた記録があるはずです」


 ノアは古い水路図を机に広げた。


「命令書の日付と、弁の記録を重ねると、ここだ」


 彼が示したのは、管理所から西へ伸びる分水路だった。地図の端に、使われていない古い水時計の印がある。


「この水時計は?」


「昔の配水量を測る装置だ。十年前に壊れたことになっている」


 アーヴェルが答えた。


「父の書類では、修理費が毎年計上されていた。だが、実際に動かした者はいない」


「壊れたまま費用だけを取ったのね」


 私は水時計の印を見つめた。そこから、かすかな音が聞こえた。


 雨の音ではない。石の内部に溜まった水が、狭い隙間を押し進む音だった。


「まだ動いています」


 私が言うと、ノアはすぐに立ち上がった。


「行く」


 西の分水路は、管理所から半日ほど離れていた。雨上がりの道は泥深く、馬車では進めない。私たちは帳面と工具を背負い、歩いて向かった。


 アーヴェルも同行すると申し出たが、村の代表たちが難色を示した。


「王都の使者が来れば、相手に先回りされる」


 北の村の代表が言った。


「彼が裏切る可能性もある」


「ならば、見張っていればいい」


 私は答えた。


「証拠を確かめるために行くのです。疑うことと、見ないことは違います」


 ノアが私を見る。その目には、以前のように私を危険から遠ざけようとする色はなかった。


「判断はリゼットに任せる」


 短い言葉だったが、胸の奥に静かに残った。


 分水路の先には、崩れかけた石小屋があった。扉には錆びた鍵がかかっている。ノアが工具を取り出した時、私は小屋の中から流れの音を聞いた。


 音のない雨が、石の奥で震えている。


「水は来ています。でも、外へ出ていない」


 ノアが鍵を外し、扉を開けた。


 床下には古い水時計が埋め込まれていた。円形の硝子容器に、細い管から水が落ちている。水面が一定の高さまで上がると、内部の浮きが弁を動かす仕組みらしい。


 しかし、浮きの腕には針金が巻きつけられ、動かないよう固定されていた。


「これで水を止め、別の管へ流していたのか」


 ノアが針金を切った。


 その瞬間、水時計の内部で小さな鐘が鳴った。


 音はかすかだった。それでも私は、長い間閉じ込められていた雨が、ようやく時を刻み始めたように感じた。


 容器の側面には、古い目盛りが刻まれている。私は帳面を開き、現在の水位と、命令書に記された数値を照らし合わせた。


「この目盛りなら、過去の記録が嘘だと証明できます。水門を閉じた時刻も、振り替えた量も、ここに残る」


 だが、ノアは床の隅を見ていた。


「誰かが先に来ている」


 泥の跡が二つ、入口から水時計のそばまで続いていた。新しいものだった。


 アーヴェルの顔が強張る。


「父は、証拠があると知ったのかもしれない」


 外で枝の折れる音がした。


 ノアが私の前に立つ。けれど今度は、私を隠すためではなく、周囲を見渡すためだった。私は水時計へ手を伸ばした。内部の水が不規則に揺れている。誰かが小屋の外で、分水路の弁を動かしている。


「三人。西側です」


 私が告げると、ノアは頷いた。


「アーヴェル、裏口を頼む。リゼットは記録を持って下がれ」


「嫌です」


「危険だ」


「危険だからこそ、私も残ります。これは私が聞き分けた水です」


 ノアは一瞬だけ目を伏せた。そして、工具袋から小さな金属板を取り出した。


「なら、これを使う。水時計の目盛りを写せる」


 私たちは床に膝をつき、急いで水位と時刻を記録した。外では誰かが扉を揺すっている。やがて金具が外れ、扉が開いた。


 先に入ってきた男が水時計へ手を伸ばした。


 その腕を、アーヴェルが掴んだ。


「王都評議会の証人に手を出すなら、顔を覚えておくことだ」


 男はアーヴェルを殴り、逃げようとした。ノアが足を払う。狭い小屋の中で、三人は泥にまみれながら押し合った。


 私は水時計の前から動かなかった。


 目盛りが、また一つ進む。


 雨の量を測るためだけの器械だと思っていた。けれどこれは、奪われた水の時間を記憶している。誰かが数字を消しても、流れそのものは消せない。


 やがて村人たちが駆けつけ、男たちは取り押さえられた。彼らの懐からは、配水局の印が押された封蝋と、新しい命令書が見つかった。


 帰り道、アーヴェルは頬の傷を押さえながら歩いていた。


「どうして助けたのですか」


 私が尋ねると、彼は少し考えた。


「助けられたのは私のほうだ。あのまま水時計を壊されていたら、私はまた家名だけを証拠にしていた」


「家名ではなく、記録を出してください」


「ああ」


 管理所へ戻ると、ノアは水時計を分解し、持ち帰った目盛り板を机の中央に置いた。私はそこへ、これまで集めた雨量の記録を重ねた。


 ばらばらだった村の帳面と、古い水時計の針が、初めて同じ時刻を指した。


「これで、審査官に見せられる」


 ノアが言った。


「ええ。けれど、相手はきっと、最後まで隠そうとします」


「なら、隠せない形にする」


 彼は新しい紙を一枚取り出した。


「組合の記録を、公開審査の場で誰でも読めるようにする。村ごとの帳面、水時計の記録、命令書の写し。すべて並べる」


 窓の外で、夜の雨が降り始めた。


 私は雨時計の針が動く音を聞いた。水は静かに落ち、一滴ごとに過去を刻んでいる。


 完成したのは器械だけではない。


 私たちは今、誰にも消せない時間を手に入れた。

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