消された三年分の記録
婚約解消の知らせが届いた翌朝、私は水路管理所の机を借りて、焼け残った帳面を年代順に並べた。
濡れた紙は乾き始めていたが、火にあぶられた頁の端は黒く縮れている。記録の番号を一つずつ照合していくと、十年前の欠落だけではなかった。
「ここを見てください」
私は三冊の帳面をノアの前へ置いた。
「三年前から五年前まで、雨量の記録がありません」
「水路の修繕記録もない」
ノアは別の束をめくった。
「配水線の点検報告も、同じ三年間だけ抜けている」
偶然とは思えなかった。
記録は毎年、春の雪解けから冬の凍結まで、途切れることなく残されている。古い帳面には、役人の癖のある字や、村人の苦情まで書き込まれていた。それなのに、三年前の春から五年前の冬まで、まるでその時間だけ切り取られたように空白だった。
私は頁に耳を近づけた。
紙は沈黙していなかった。
綴じ糸を抜かれた音。何度も探られた指の擦れる音。帳面を閉じる前に、誰かがためらった気配。そして、別の厚い束を重ねたときの鈍い響き。
「この帳面は、途中で差し替えられています」
「分かるのか」
「紙が違います。表紙と中身が同じ年代ではありません」
ノアは黙って帳面の背を調べた。やがて、底板の隙間から薄い木片を取り出す。そこには、削りかけの文字が残っていた。
――旧記録、北倉庫。
「北倉庫は使われていないはずだ」
「使われていないことになっている、のではありませんか」
私たちは管理所の裏手へ回った。北倉庫は水路脇の斜面に半ば埋まっていた。扉には錆びた錠がかかり、王都の役所印が押されている。
ノアが錠を調べていると、赤い頭巾の少女が駆けてきた。
「そこ、夜になると明かりがつくよ」
「誰が来るのですか」
「分からない。でも、馬車が一台止まって、箱を運び入れてた」
少女は少し考えてから、指を折った。
「三回見た。雨が降った夜ばかり」
音のない雨。
私は顔を上げた。昨夜から雲は厚く、細かな雨が降っている。けれど、地面を叩く音はほとんどない。地下へ染み込む雨だ。
その雨に紛れて、誰かが動く。
「今夜、見張ります」
ノアが言った。
「危険です」
「一人で行くつもりか」
「いいえ。村の人たちにも協力を頼みます」
ノアは少しだけ目を細めた。
「人を巻き込む」
「もう巻き込まれています。水を奪われているのは、彼らですから」
夕方、村人たちは管理所に集まった。老人は古い荷車を倉庫の陰へ置き、少女の母親は灯りを消した家から道を見張る役を引き受けた。誰も大声を出さなかったが、前夜までとは違う顔をしていた。
自分たちの記憶が、証拠になり得ると知った顔だった。
夜半、雨が強くなった。
水音のない雨の向こうで、車輪が泥を踏む。私は手を上げた。ノアも気づいていたらしく、片腕をかばいながら倉庫の壁へ身を寄せた。
馬車が止まる。
男が二人降りた。片方は銀色の留め具をつけ、左手に黒い手袋をしている。少女が見た男と同じだった。
男たちは木箱を運び出した。蓋の隙間から、乾いた紙の匂いがした。
「待ってください」
私は倉庫の前へ出た。
二人の男が振り返る。黒い手袋の男は一瞬驚いたが、すぐに笑った。
「これは役所の保管物だ。下働きが触れていいものではない」
「なら、保管台帳を見せてください」
「王都の命令だ」
「王都の命令なら、なぜ夜に運ぶのですか」
男の笑みが消えた。
そのとき、ノアが私の隣に立った。
「箱を開けろ」
「技師ごときが命令するな」
「命令ではない。確認だ」
男が懐へ手を伸ばす。村人たちの間に緊張が走った。だが、老人が荷車を押し出し、馬車の前輪を塞いだ。
「ここは、お前たちの庭じゃない」
母親も声を上げた。
「箱を見せなさい!」
一人、また一人と人が増える。男たちは退路を失い、ついに黒い手袋の男が短剣を抜いた。
刃が雨の中で光った。
ノアが私の前へ出ようとした瞬間、私は彼の腕をつかんだ。
「動かないで」
「リゼット」
「左の水門が開いています」
男たちの足元から、かすかな水音が聞こえていた。誰かが騒ぎに乗じて水門を開けたのだ。流れはまだ細いが、あと少しで倉庫の土台を削る。
「ノア、あの水門を閉じられますか」
「距離がある」
「私が案内します」
私は雨の中を走った。音のない水の流れが、暗い地面の下で道を示している。ノアが後ろから続き、村人たちは男たちを取り囲んだ。
水門へ着くと、鎖は切られていた。私は水の響きが最も強い場所を指さした。
「ここです。地下に迂回路があります」
ノアは杭を差し込み、残った留め金を外した。水が向きを変え、土台から離れていく。
倉庫へ戻ると、男たちは拘束されていた。開かれた箱の中には、濡れないよう油紙で包まれた帳面が積まれている。
最上段の表紙に、年号が記されていた。
三年前。
私は震える指でそれをめくった。
そこには、消されたはずの雨量と配水量が、すべて残されていた。だが最後の頁には、王都へ送られた覚書が挟まっている。
――北部水路を閉鎖し、採掘場への優先配水を開始する。
署名の下には、エドガーの家の印があった。
婚約を解かれたばかりの私に、過去から新しい証拠が差し出された。
ノアが低く言う。
「これで、利権の中心が見える」
私は帳面を抱きしめた。
「なら、次はその中心まで届く記録を集めます」
雨はまだ降っていた。
消された三年分の記録が、ようやく声を取り戻していた。




