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雨音を数える令嬢は、辺境技師と明日の水路をひらく  作者: 銀細工ナギ


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7/20

消された三年分の記録

 婚約解消の知らせが届いた翌朝、私は水路管理所の机を借りて、焼け残った帳面を年代順に並べた。


 濡れた紙は乾き始めていたが、火にあぶられた頁の端は黒く縮れている。記録の番号を一つずつ照合していくと、十年前の欠落だけではなかった。


「ここを見てください」


 私は三冊の帳面をノアの前へ置いた。


「三年前から五年前まで、雨量の記録がありません」


「水路の修繕記録もない」


 ノアは別の束をめくった。


「配水線の点検報告も、同じ三年間だけ抜けている」


 偶然とは思えなかった。


 記録は毎年、春の雪解けから冬の凍結まで、途切れることなく残されている。古い帳面には、役人の癖のある字や、村人の苦情まで書き込まれていた。それなのに、三年前の春から五年前の冬まで、まるでその時間だけ切り取られたように空白だった。


 私は頁に耳を近づけた。


 紙は沈黙していなかった。


 綴じ糸を抜かれた音。何度も探られた指の擦れる音。帳面を閉じる前に、誰かがためらった気配。そして、別の厚い束を重ねたときの鈍い響き。


「この帳面は、途中で差し替えられています」


「分かるのか」


「紙が違います。表紙と中身が同じ年代ではありません」


 ノアは黙って帳面の背を調べた。やがて、底板の隙間から薄い木片を取り出す。そこには、削りかけの文字が残っていた。


 ――旧記録、北倉庫。


「北倉庫は使われていないはずだ」


「使われていないことになっている、のではありませんか」


 私たちは管理所の裏手へ回った。北倉庫は水路脇の斜面に半ば埋まっていた。扉には錆びた錠がかかり、王都の役所印が押されている。


 ノアが錠を調べていると、赤い頭巾の少女が駆けてきた。


「そこ、夜になると明かりがつくよ」


「誰が来るのですか」


「分からない。でも、馬車が一台止まって、箱を運び入れてた」


 少女は少し考えてから、指を折った。


「三回見た。雨が降った夜ばかり」


 音のない雨。


 私は顔を上げた。昨夜から雲は厚く、細かな雨が降っている。けれど、地面を叩く音はほとんどない。地下へ染み込む雨だ。


 その雨に紛れて、誰かが動く。


「今夜、見張ります」


 ノアが言った。


「危険です」


「一人で行くつもりか」


「いいえ。村の人たちにも協力を頼みます」


 ノアは少しだけ目を細めた。


「人を巻き込む」


「もう巻き込まれています。水を奪われているのは、彼らですから」


 夕方、村人たちは管理所に集まった。老人は古い荷車を倉庫の陰へ置き、少女の母親は灯りを消した家から道を見張る役を引き受けた。誰も大声を出さなかったが、前夜までとは違う顔をしていた。


 自分たちの記憶が、証拠になり得ると知った顔だった。


 夜半、雨が強くなった。


 水音のない雨の向こうで、車輪が泥を踏む。私は手を上げた。ノアも気づいていたらしく、片腕をかばいながら倉庫の壁へ身を寄せた。


 馬車が止まる。


 男が二人降りた。片方は銀色の留め具をつけ、左手に黒い手袋をしている。少女が見た男と同じだった。


 男たちは木箱を運び出した。蓋の隙間から、乾いた紙の匂いがした。


「待ってください」


 私は倉庫の前へ出た。


 二人の男が振り返る。黒い手袋の男は一瞬驚いたが、すぐに笑った。


「これは役所の保管物だ。下働きが触れていいものではない」


「なら、保管台帳を見せてください」


「王都の命令だ」


「王都の命令なら、なぜ夜に運ぶのですか」


 男の笑みが消えた。


 そのとき、ノアが私の隣に立った。


「箱を開けろ」


「技師ごときが命令するな」


「命令ではない。確認だ」


 男が懐へ手を伸ばす。村人たちの間に緊張が走った。だが、老人が荷車を押し出し、馬車の前輪を塞いだ。


「ここは、お前たちの庭じゃない」


 母親も声を上げた。


「箱を見せなさい!」


 一人、また一人と人が増える。男たちは退路を失い、ついに黒い手袋の男が短剣を抜いた。


 刃が雨の中で光った。


 ノアが私の前へ出ようとした瞬間、私は彼の腕をつかんだ。


「動かないで」


「リゼット」


「左の水門が開いています」


 男たちの足元から、かすかな水音が聞こえていた。誰かが騒ぎに乗じて水門を開けたのだ。流れはまだ細いが、あと少しで倉庫の土台を削る。


「ノア、あの水門を閉じられますか」


「距離がある」


「私が案内します」


 私は雨の中を走った。音のない水の流れが、暗い地面の下で道を示している。ノアが後ろから続き、村人たちは男たちを取り囲んだ。


 水門へ着くと、鎖は切られていた。私は水の響きが最も強い場所を指さした。


「ここです。地下に迂回路があります」


 ノアは杭を差し込み、残った留め金を外した。水が向きを変え、土台から離れていく。


 倉庫へ戻ると、男たちは拘束されていた。開かれた箱の中には、濡れないよう油紙で包まれた帳面が積まれている。


 最上段の表紙に、年号が記されていた。


 三年前。


 私は震える指でそれをめくった。


 そこには、消されたはずの雨量と配水量が、すべて残されていた。だが最後の頁には、王都へ送られた覚書が挟まっている。


 ――北部水路を閉鎖し、採掘場への優先配水を開始する。


 署名の下には、エドガーの家の印があった。


 婚約を解かれたばかりの私に、過去から新しい証拠が差し出された。


 ノアが低く言う。


「これで、利権の中心が見える」


 私は帳面を抱きしめた。


「なら、次はその中心まで届く記録を集めます」


 雨はまだ降っていた。


 消された三年分の記録が、ようやく声を取り戻していた。

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