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雨音を数える令嬢は、辺境技師と明日の水路をひらく  作者: 銀細工ナギ


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6/20

婚約解消の知らせ

 監視所の火が消えたのは、空が白み始めた頃だった。


 焼け落ちた梁の下から、濡れた帳面と偽の印章、それから配水予定を書いた紙片が見つかった。町の人々は眠らずに火を見守り、夜明けとともに水路の周囲へ集まった。


 ノアは肩を布で固定されていた。動かすたびに顔をしかめるくせに、帳面を調べる手だけは止めなかった。


「この記録は、第三配水線のものだ」


 彼は焼け焦げた頁をめくった。


「けれど、十年前から台帳の番号が飛んでいる。二百十一の次が、二百十三だ」


「二百十二は?」


「抜かれたか、差し替えられた」


 私は帳面に耳を近づけた。紙には音が宿る。何度もめくられた頁は柔らかく、書き直された頁は繊維が緊張している。二百十三の頁の下に、別の紙が重なっていた。


「ここに隠されています」


 ノアが刃物で綴じ糸を切ると、薄い頁が現れた。


 そこには、採掘場へ送られる水量と、王都へ納められる税の記録が並んでいた。採掘場の使用量は、実際に流れた水の半分にも満たない。差額は帳簿の外へ消えている。


「これだけあれば、商会の不正を証明できます」


「証明できるのは、数字だけだ」


 ノアは頁の端を押さえた。


「誰が数字を書き換えたかまでは分からない」


「なら、人の話を集めます」


 監視所の前には、夜の騒ぎを聞きつけた村人たちが残っていた。私は一人ずつ尋ねた。水門を閉めろと言われた日、採掘場の荷車が通った時刻、役人が記録を取り上げたこと。最初は皆、口を重くしていた。


 だが、赤い頭巾の少女の母親が口を開いた。


「去年の春から、夜中に大きな水音がしていました。翌朝になると、畑の溝は空だった」


 別の老人が続けた。


「文句を言ったら、王都の決まりだと言われた。わしらが聞き違えたのだとも」


 私は拳を握った。


 聞き違えたのではない。確かに水は流れていた。音のない雨も、地下を走る水も、ずっとそこにあった。


「聞き違いではありません」


 私が言うと、人々の視線が集まった。


「私は、水の音を聞き分けられます。昨日の水門は、誰かが意図的に開けた。皆さんの記憶は、記録と同じように証拠になります」


 沈黙のあと、少女が小さく手を挙げた。


「私も話していい?」


「もちろんです」


 少女は、監視所の窓で見た男の特徴を語った。銀色の留め具、左手の黒い手袋、帳面を抱えていたこと。母親も、男が数日前に村の家々を訪れていたと証言した。


 そのとき、遠くから馬車の音が近づいてきた。


 水路管理所の前で止まった馬車から、王都の紋章をつけた使者が降りる。手には封蝋の押された書状があった。


「リゼット・アルヴェイン嬢に、緊急の通達です」


 私は受け取った。


 封蝋には、かつて私の婚約者だったエドガーの家紋が刻まれている。


 嫌な予感がした。


 封を切ると、整った文字が並んでいた。


 ――貴殿との婚約を、ここに解消する。


 理由として記されていたのは、私が没落した家の娘であること、辺境で下働きに甘んじていること、そして「根拠のない音を騒ぎ立て、名家の名誉を損なったこと」だった。


 最後には、エドガーの署名がある。


 私の異能を、根拠のない妄言と呼んでいた。


「何が書いてある」


 ノアが尋ねた。


「婚約解消の知らせです」


 声に出しても、不思議なほど胸は痛まなかった。


 かつては、この婚約が私を家の没落から救う唯一の道だと思っていた。エドガーの隣に立てば、父の残した借財も、社交界の嘲笑も、いつか遠ざかると信じていた。


 けれど今、書状を持つ私の背後には、焼けた監視所と、空の水路を見つめる村人たちがいる。私の前には、記録を守ろうとするノアがいる。


「返事はどうする」


 ノアが静かに聞いた。


 私は書状を二つに折った。


「受け入れます」


「それでいいのか」


「はい。私からも、婚約を解消します」


 使者が驚いた顔をした。


「アルヴェイン嬢、それは一方的な通達です。あなたに選択権は――」


「あります」


 私は使者の目を見た。


「私の人生ですから」


 紙を返すと、ノアがわずかに眉を動かした。


「後悔しないか」


「もう、誰かの隣に置かれるために生きるつもりはありません」


 私は焼け残った帳面を抱え直した。


「私は私の仕事を選びます。この水路を守る仕事を」


 使者は不満そうに馬車へ戻った。車輪の音が遠ざかると、村人たちの間から、ためらいがちな拍手が起きた。


 最初は一人だった。それが二人、三人と重なり、やがて水路管理所の前いっぱいに響いた。


 ノアは拍手をしなかった。ただ、私の横に立った。


「婚約を失っても、立っていられるんだな」


「失ったのではありません」


 私は彼を見上げた。


「不要なものを手放しただけです」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥にあった古い鎖が切れた気がした。


 遠くで、地下水が流れている。


 今度の音は、誰にも奪わせない。

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