婚約解消の知らせ
監視所の火が消えたのは、空が白み始めた頃だった。
焼け落ちた梁の下から、濡れた帳面と偽の印章、それから配水予定を書いた紙片が見つかった。町の人々は眠らずに火を見守り、夜明けとともに水路の周囲へ集まった。
ノアは肩を布で固定されていた。動かすたびに顔をしかめるくせに、帳面を調べる手だけは止めなかった。
「この記録は、第三配水線のものだ」
彼は焼け焦げた頁をめくった。
「けれど、十年前から台帳の番号が飛んでいる。二百十一の次が、二百十三だ」
「二百十二は?」
「抜かれたか、差し替えられた」
私は帳面に耳を近づけた。紙には音が宿る。何度もめくられた頁は柔らかく、書き直された頁は繊維が緊張している。二百十三の頁の下に、別の紙が重なっていた。
「ここに隠されています」
ノアが刃物で綴じ糸を切ると、薄い頁が現れた。
そこには、採掘場へ送られる水量と、王都へ納められる税の記録が並んでいた。採掘場の使用量は、実際に流れた水の半分にも満たない。差額は帳簿の外へ消えている。
「これだけあれば、商会の不正を証明できます」
「証明できるのは、数字だけだ」
ノアは頁の端を押さえた。
「誰が数字を書き換えたかまでは分からない」
「なら、人の話を集めます」
監視所の前には、夜の騒ぎを聞きつけた村人たちが残っていた。私は一人ずつ尋ねた。水門を閉めろと言われた日、採掘場の荷車が通った時刻、役人が記録を取り上げたこと。最初は皆、口を重くしていた。
だが、赤い頭巾の少女の母親が口を開いた。
「去年の春から、夜中に大きな水音がしていました。翌朝になると、畑の溝は空だった」
別の老人が続けた。
「文句を言ったら、王都の決まりだと言われた。わしらが聞き違えたのだとも」
私は拳を握った。
聞き違えたのではない。確かに水は流れていた。音のない雨も、地下を走る水も、ずっとそこにあった。
「聞き違いではありません」
私が言うと、人々の視線が集まった。
「私は、水の音を聞き分けられます。昨日の水門は、誰かが意図的に開けた。皆さんの記憶は、記録と同じように証拠になります」
沈黙のあと、少女が小さく手を挙げた。
「私も話していい?」
「もちろんです」
少女は、監視所の窓で見た男の特徴を語った。銀色の留め具、左手の黒い手袋、帳面を抱えていたこと。母親も、男が数日前に村の家々を訪れていたと証言した。
そのとき、遠くから馬車の音が近づいてきた。
水路管理所の前で止まった馬車から、王都の紋章をつけた使者が降りる。手には封蝋の押された書状があった。
「リゼット・アルヴェイン嬢に、緊急の通達です」
私は受け取った。
封蝋には、かつて私の婚約者だったエドガーの家紋が刻まれている。
嫌な予感がした。
封を切ると、整った文字が並んでいた。
――貴殿との婚約を、ここに解消する。
理由として記されていたのは、私が没落した家の娘であること、辺境で下働きに甘んじていること、そして「根拠のない音を騒ぎ立て、名家の名誉を損なったこと」だった。
最後には、エドガーの署名がある。
私の異能を、根拠のない妄言と呼んでいた。
「何が書いてある」
ノアが尋ねた。
「婚約解消の知らせです」
声に出しても、不思議なほど胸は痛まなかった。
かつては、この婚約が私を家の没落から救う唯一の道だと思っていた。エドガーの隣に立てば、父の残した借財も、社交界の嘲笑も、いつか遠ざかると信じていた。
けれど今、書状を持つ私の背後には、焼けた監視所と、空の水路を見つめる村人たちがいる。私の前には、記録を守ろうとするノアがいる。
「返事はどうする」
ノアが静かに聞いた。
私は書状を二つに折った。
「受け入れます」
「それでいいのか」
「はい。私からも、婚約を解消します」
使者が驚いた顔をした。
「アルヴェイン嬢、それは一方的な通達です。あなたに選択権は――」
「あります」
私は使者の目を見た。
「私の人生ですから」
紙を返すと、ノアがわずかに眉を動かした。
「後悔しないか」
「もう、誰かの隣に置かれるために生きるつもりはありません」
私は焼け残った帳面を抱え直した。
「私は私の仕事を選びます。この水路を守る仕事を」
使者は不満そうに馬車へ戻った。車輪の音が遠ざかると、村人たちの間から、ためらいがちな拍手が起きた。
最初は一人だった。それが二人、三人と重なり、やがて水路管理所の前いっぱいに響いた。
ノアは拍手をしなかった。ただ、私の横に立った。
「婚約を失っても、立っていられるんだな」
「失ったのではありません」
私は彼を見上げた。
「不要なものを手放しただけです」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥にあった古い鎖が切れた気がした。
遠くで、地下水が流れている。
今度の音は、誰にも奪わせない。




