最初の配水成功
北の監視所へ続く道は、昨夜の雨でぬかるんでいた。
雨音のない雨を聞き分ける私には、地面の下を走る水の音が分かる。細い流れが右へ、太い流れが左へ。けれど、燃え上がる監視所からは、水とは違う乾いた爆ぜる音が響いていた。
「火の回りが早すぎます」
私が言うと、ノアは足を止めた。
「油を撒いた跡がある」
彼は地面に膝をつき、黒く湿った土を指でなぞった。
「火を消すための水を、最初から使えないようにしたのか」
「違います」
私は監視所の方へ顔を向けた。
「油の匂いより、地下の水音が大きい。誰かが水門を開けたままにしています」
「火事場で水門を?」
「監視所の下に水が溜まれば、土台が崩れます。帳面だけでなく、水路そのものを壊すつもりです」
ノアの表情が変わった。
「全員、道の端へ寄れ!」
彼が叫んだ直後、監視所の裏手から轟音がした。地面が揺れ、泥水が斜面を割って噴き出す。人々の悲鳴が重なった。
赤い頭巾の少女が足を滑らせた。
私は駆け寄ってその腕をつかんだが、泥に靴を取られ、二人とも倒れかけた。その瞬間、ノアが私の腰を抱き、後ろへ引いた。
「水が来る!」
「分かっています!」
目の前を濁流が横切った。もし一歩遅ければ、少女は水路跡へ落ちていた。
母親が娘を抱きしめ、何度も名前を呼んでいる。少女の頭巾は泥だらけだったが、泣いてはいなかった。
「中に人がいる」
少女が監視所を指した。
「窓のところに、帳面を持った人がいた」
「見えたのか」
農夫が驚いて尋ねる。
「火の向こうで、銀色の留め具が光ったの。水利院の人がつけているものと同じ」
私は燃える建物を見た。
監視所の扉は閉じられている。窓から煙が流れ出し、人影が一つ、二つと揺れていた。
「中へ入ります」
「駄目だ」
「帳面を持ち出している人がいます」
「建物が崩れる」
「だから、急ぎます」
ノアは私の腕をつかんだ。
「君を行かせるために来たわけではない」
「私を守るために、記録を失わせるつもりですか」
「命の方が大事だ」
「どちらか一つではありません」
彼の手に力がこもった。けれど、すぐに離れた。
「入口は使えない。北側の壁に、古い点検口がある」
「知っているのですか」
「図面を読んだ」
「読めないはずの過去の記録を?」
問いかけると、ノアは一瞬だけ目を伏せた。
「文字は読めない。図面の線と記号なら分かる」
初めて、彼は自分の弱さを隠さなかった。
「以前の俺なら、誰にも言わなかった」
「今は?」
「君に判断を預けるために、言う必要がある」
炎が屋根を舐めた。
私は頷いた。
「点検口まで案内してください」
「分かった」
私たちは監視所の裏へ回った。泥水はさらに増えている。地下から響く流れは、まっすぐ土台へ向かっていた。
ノアが錆びた鉄板を持ち上げると、暗い穴が口を開けた。
「中は狭い。先に俺が行く」
「いいえ、私が先です」
「なぜ」
「水の流れを聞き分けられます。崩れる場所を判断できます」
彼は反論しかけたが、やがて頷いた。
「足場が危なくなったら、すぐ戻れ」
「あなたもです」
「俺は技師だ」
「技師でも崩れます」
ノアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
点検口の中は、焦げた木と湿った石の匂いがした。私は手探りで進みながら、周囲の音を聞いた。
右側の壁の向こうで、水が急に速くなっている。左の床下には空洞がある。三歩先には、古い管が破裂しかけていた。
「止まってください」
ノアが私の背中に手を置いた。
「前に亀裂がある」
「見えるのか」
「見えません。音で分かります」
私は壁へ耳を寄せた。
水の音の奥に、かすかな咳が聞こえた。
「帳面を持った人は、奥にいます」
狭い通路を抜けると、監視所の地下室へ出た。火はまだ床上まで届いていない。部屋の隅で、見覚えのない男が木箱を開けていた。腕には銀色の留め具がある。
男は私たちを見ると、帳面を抱えて後ずさった。
「来るな。これに触れれば、お前たちも反逆者だ」
「帳面を燃やせば、反逆ではなく証拠隠滅です」
「王都の命令だ!」
「命令書を見せてください」
男は黙り込んだ。
ノアが一歩進む。
「お前は水利院の役人か」
「臨時監査官だ」
「なら、正式な印章を持っているはずだ」
男の胸元を、私は見た。革袋の中から、青い金属の縁がのぞいている。
「それは印章ではありません」
「何?」
「音が違います。水利院の印章なら、木箱へ置いたとき低く響く。あなたの袋から聞こえるのは、薄い鉄板の音です」
男の顔色が変わった。
ノアが素早く腕をつかむ。帳面が床へ落ちた。
「偽物か」
「触るな!」
男が叫んだ瞬間、天井から梁が落ちてきた。
ノアは私を突き飛ばし、自分の肩で梁を受けた。鈍い音がして、彼が片膝をつく。
「ノア!」
「帳面を持て!」
「あなたを置いていけません」
「これは命令だ」
「あなたの命令は聞かないと、さっき決めました」
私は梁の下へ手を入れた。重すぎる。だが、地下の水音が教えてくれた。左奥の壁の裏に、空洞がある。
「そこを壊せば、梁がずれます」
ノアが歯を食いしばり、短い鉄棒を壁の継ぎ目へ差し込んだ。二人で力をかけると、石が崩れ、地下水が一気に流れ出した。
水は梁の下へ入り込み、土台を洗った。木材がわずかに浮く。
「今です!」
ノアが腕を抜き、私が彼を引き起こす。男は逃げようとしたが、入口で待っていた農夫たちに取り押さえられた。
外へ出たとき、監視所の屋根が崩れた。
炎と煙の向こうで、古い水路の一部が姿を現していた。壁には、削られた文字が残っている。
私は泥を拭い、その刻印を読んだ。
「王都直轄、第三配水線……」
ノアが息を呑む。
「この水路は、採掘場の私有管ではない」
「はい。王都の財産を、商会が勝手に使っていたのです」
男の懐から、焦げずに残った小さな紙片が見つかった。そこには、今夜の配水予定と、町を空にする時刻が記されていた。
火事は証拠を消すためだけではなかった。
水門を開け、監視所を崩し、町へ流れた水を事故に見せかける。すべてが一つにつながっていた。
ノアは負傷した肩を押さえながら、私を見た。
「次は、もっと大きな相手が来る」
「望むところです」
「怖くないのか」
「怖いです」
私は濡れた帳面を胸に抱いた。
「でも、怖いからこそ、記録が必要です」
ノアはしばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「君の隣で、記録を守る」
それは礼ではなかった。
けれど、私には十分だった。




