技師は礼を言わない
翌朝、町の集会所には、夜明け前から人が集まっていた。
空になった桶を抱えた女、泥のついた長靴を履いた農夫、眠そうな子どもを連れた老人。皆、昨夜突然流れ始めた水の話をしている。喜びの声に混じって、怯えた声もあった。水が来たことは恵みである。しかし、誰かが勝手に門を開けたのなら、いつ閉じられるか分からない。
私は長机の上に一枚の紙を置いた。
「昨夜、何時ごろ水を受け取ったか、どの水路から来たか、桶を何杯満たしたかを書いてください。文字を書けない方は、私が聞き取ります」
「そんなものを書いて、何になる」
奥から声が飛んだ。
作業監督だった。昨夜、記録室へ忍び込んだ男である。彼は濡れた外套を脱ぎもせず、集会所の柱にもたれていた。
「水が来た。それで十分だろう。余計な記録を作れば、王都の役人に目をつけられる」
「すでに目をつけられているのではありませんか」
私が答えると、男の目が細くなった。
「身の程を知らない娘だな」
「身の程で水の流れは変わりません」
隣に立っていたノアが、低い声で言った。
彼は昨夜から一睡もしていないはずなのに、いつもと変わらない顔をしていた。ただし、右手の袖口には黒い泥がこびりついている。町の北側にある古い分水路を調べた証拠だった。
「北門は、昨夜の二刻前には閉じていた」
ノアは集会所にいる人々へ向かって続けた。
「その後、地下の手動弁が開いた。正式な操作記録は残っていない」
「誰かが開けたってことか」
農夫が聞いた。
「そうだ。だが、誰が開けたかは分からない」
作業監督が鼻で笑った。
「技師ともあろう者が、分からないとは便利な言葉だ」
「分からないことを分からないと言うのは、記録の最初の条件だ」
ノアは彼を見なかった。
「推測を事実として書く人間の方が、よほど危険だ」
作業監督の頬が引きつった。
私は紙を一枚ずつ配った。最初は誰も筆を取らなかった。王都の役人に逆らうことを恐れているのだ。水を得た喜びより、明日また奪われる不安の方が大きい。
すると、赤い頭巾をかぶった少女が母親の手を振りほどき、机の前へ来た。
「わたし、覚えてる。鐘が三つ鳴ったあとに、水が来たの」
「鐘はどこから聞こえましたか」
「南の見張り塔。いつもより低い音だった」
私は書き留めた。
「桶は何杯ですか」
「お母さんと二杯。でも、隣のおじさんはもっと大きい桶をいっぱいにした」
少女の話を聞いて、他の人々も少しずつ口を開き始めた。水路の音、門の震え、流れ込んだ時刻。ばらばらだった証言が、紙の上で一つの夜を形作っていく。
私はその中に、不自然な違いを感じ取っていた。
「皆さん、昨夜の水は南水路から来たと言いましたね」
「そうだ。広場の井戸へ流れた」
「ですが、南水路の水量なら、これほど早く町の東側まで届きません」
ノアが振り返った。
「東側にも流れたのか」
「はい。あちらの人たちは、音を聞いています。地下を通る太い管の音でした。南水路ではありません」
ノアは眉を寄せた。
「地下の主配管か」
「たぶん。しかも、途中で二度、流れが分かれています。一度は町へ。もう一度は北へ」
「北には採掘場へ続く旧水路がある」
農夫たちの間にざわめきが広がった。
私は古い地図を机の上へ広げた。昨夜、記録室から持ち出したものだ。北へ伸びる線の一部は、現在の地図では黒く塗りつぶされている。
「水門が開いたのは、町へ水を送るためだけではありません。北の採掘場へ向かう流れも、同時に止まっています」
「止まった?」
「はい。昨夜、採掘場へ送られるはずの水が町へ回されたのです」
作業監督が勢いよく机を叩いた。
「根拠はあるのか!」
「あなたが怒ったことです」
「何だと?」
「本当に町の水量に関係がないなら、記録を作ることを止める理由がありません」
男がこちらへ一歩踏み出した。
ノアの手が、私の前に伸びた。だが私はその腕を軽く押し戻した。
「下がってください、ノア」
「危険だ」
「承知しています。けれど、これは私が話すべきことです」
彼は一瞬、私を見た。それから腕を下ろした。
その小さな動きが、以前とは違うことを私は知っていた。守るために前へ出るのではなく、私の判断を待っている。
「あなたたちは、昨夜の水を盗んだのだ」
作業監督が吐き捨てた。
「町の配分を勝手に変えた。王都へ報告すれば、全員が罰を受ける」
「誰が配分を決めたのですか」
「水利院だ」
「では、その配分表を見せてください」
男は黙った。
「配分表には、町へ届く水だけでなく、北の採掘場へ送る水も含まれているのでしょう。けれど、その分は町の人々には知らされていない。だから町は、雨が少ないと説明され続けた」
「憶測だ!」
「なら、帳面を調べれば済みます」
私は古い帳面の写しを掲げた。
「二十年前から、雨の多い年にも町への配水が減っています。減った水は、すべて同じ商会が管理する施設へ送られていました」
ラドニア商会の名を口にした瞬間、集会所の外で誰かが息を呑んだ。
そのとき、入口から若い男が駆け込んできた。
「北の監視所が燃えている!」
全員が振り返る。
「火は消えたのか」
ノアが尋ねた。
「いや、まだだ。けれど人は逃げている。中から帳面を運び出している奴を見た」
ノアが私を見る。
「記録を消しに来た」
「はい」
私は集めた証言の紙をまとめ、胸元へ抱えた。
「なら、先に現場へ行きましょう」
「危険だ」
「また同じことを言うのですね」
「今回は本当に危険だ」
「だからこそ、証人が必要です」
集会所にいた人々の顔を見回した。先ほどまで怯えていた農夫が、ゆっくりと立ち上がった。
「俺も行く。昨夜の水を止められたら、また畑が枯れる」
赤い頭巾の少女の母親も、震える声で続けた。
「私も行きます。娘が覚えていることを、誰かに消されたくありません」
一人、また一人と人が立ち上がった。
ノアは何も言わなかった。ただ、古い地図を巻き、私へ差し出した。
「北の監視所までの道は、俺が案内する」
「ありがとうございます」
「礼は言わなくていい」
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてある」
私は思わず笑った。
外へ出ると、遠くの山際から黒い煙が上がっていた。
雨のない空に、煙だけがまっすぐ昇っている。誰かが過去を燃やそうとしている。
けれど、昨夜の水音を聞いた者は、もう私一人ではない。
消された水路を、消された記録を、私たちは声にして残す。
そのために、私は燃える監視所へ向かった。




