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雨音を数える令嬢は、辺境技師と明日の水路をひらく  作者: 銀細工ナギ


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4/20

技師は礼を言わない


 翌朝、町の集会所には、夜明け前から人が集まっていた。


 空になった桶を抱えた女、泥のついた長靴を履いた農夫、眠そうな子どもを連れた老人。皆、昨夜突然流れ始めた水の話をしている。喜びの声に混じって、怯えた声もあった。水が来たことは恵みである。しかし、誰かが勝手に門を開けたのなら、いつ閉じられるか分からない。


 私は長机の上に一枚の紙を置いた。


「昨夜、何時ごろ水を受け取ったか、どの水路から来たか、桶を何杯満たしたかを書いてください。文字を書けない方は、私が聞き取ります」


「そんなものを書いて、何になる」


 奥から声が飛んだ。


 作業監督だった。昨夜、記録室へ忍び込んだ男である。彼は濡れた外套を脱ぎもせず、集会所の柱にもたれていた。


「水が来た。それで十分だろう。余計な記録を作れば、王都の役人に目をつけられる」


「すでに目をつけられているのではありませんか」


 私が答えると、男の目が細くなった。


「身の程を知らない娘だな」


「身の程で水の流れは変わりません」


 隣に立っていたノアが、低い声で言った。


 彼は昨夜から一睡もしていないはずなのに、いつもと変わらない顔をしていた。ただし、右手の袖口には黒い泥がこびりついている。町の北側にある古い分水路を調べた証拠だった。


「北門は、昨夜の二刻前には閉じていた」


 ノアは集会所にいる人々へ向かって続けた。


「その後、地下の手動弁が開いた。正式な操作記録は残っていない」


「誰かが開けたってことか」


 農夫が聞いた。


「そうだ。だが、誰が開けたかは分からない」


 作業監督が鼻で笑った。


「技師ともあろう者が、分からないとは便利な言葉だ」


「分からないことを分からないと言うのは、記録の最初の条件だ」


 ノアは彼を見なかった。


「推測を事実として書く人間の方が、よほど危険だ」


 作業監督の頬が引きつった。


 私は紙を一枚ずつ配った。最初は誰も筆を取らなかった。王都の役人に逆らうことを恐れているのだ。水を得た喜びより、明日また奪われる不安の方が大きい。


 すると、赤い頭巾をかぶった少女が母親の手を振りほどき、机の前へ来た。


「わたし、覚えてる。鐘が三つ鳴ったあとに、水が来たの」


「鐘はどこから聞こえましたか」


「南の見張り塔。いつもより低い音だった」


 私は書き留めた。


「桶は何杯ですか」


「お母さんと二杯。でも、隣のおじさんはもっと大きい桶をいっぱいにした」


 少女の話を聞いて、他の人々も少しずつ口を開き始めた。水路の音、門の震え、流れ込んだ時刻。ばらばらだった証言が、紙の上で一つの夜を形作っていく。


 私はその中に、不自然な違いを感じ取っていた。


「皆さん、昨夜の水は南水路から来たと言いましたね」


「そうだ。広場の井戸へ流れた」


「ですが、南水路の水量なら、これほど早く町の東側まで届きません」


 ノアが振り返った。


「東側にも流れたのか」


「はい。あちらの人たちは、音を聞いています。地下を通る太い管の音でした。南水路ではありません」


 ノアは眉を寄せた。


「地下の主配管か」


「たぶん。しかも、途中で二度、流れが分かれています。一度は町へ。もう一度は北へ」


「北には採掘場へ続く旧水路がある」


 農夫たちの間にざわめきが広がった。


 私は古い地図を机の上へ広げた。昨夜、記録室から持ち出したものだ。北へ伸びる線の一部は、現在の地図では黒く塗りつぶされている。


「水門が開いたのは、町へ水を送るためだけではありません。北の採掘場へ向かう流れも、同時に止まっています」


「止まった?」


「はい。昨夜、採掘場へ送られるはずの水が町へ回されたのです」


 作業監督が勢いよく机を叩いた。


「根拠はあるのか!」


「あなたが怒ったことです」


「何だと?」


「本当に町の水量に関係がないなら、記録を作ることを止める理由がありません」


 男がこちらへ一歩踏み出した。


 ノアの手が、私の前に伸びた。だが私はその腕を軽く押し戻した。


「下がってください、ノア」


「危険だ」


「承知しています。けれど、これは私が話すべきことです」


 彼は一瞬、私を見た。それから腕を下ろした。


 その小さな動きが、以前とは違うことを私は知っていた。守るために前へ出るのではなく、私の判断を待っている。


「あなたたちは、昨夜の水を盗んだのだ」


 作業監督が吐き捨てた。


「町の配分を勝手に変えた。王都へ報告すれば、全員が罰を受ける」


「誰が配分を決めたのですか」


「水利院だ」


「では、その配分表を見せてください」


 男は黙った。


「配分表には、町へ届く水だけでなく、北の採掘場へ送る水も含まれているのでしょう。けれど、その分は町の人々には知らされていない。だから町は、雨が少ないと説明され続けた」


「憶測だ!」


「なら、帳面を調べれば済みます」


 私は古い帳面の写しを掲げた。


「二十年前から、雨の多い年にも町への配水が減っています。減った水は、すべて同じ商会が管理する施設へ送られていました」


 ラドニア商会の名を口にした瞬間、集会所の外で誰かが息を呑んだ。


 そのとき、入口から若い男が駆け込んできた。


「北の監視所が燃えている!」


 全員が振り返る。


「火は消えたのか」


 ノアが尋ねた。


「いや、まだだ。けれど人は逃げている。中から帳面を運び出している奴を見た」


 ノアが私を見る。


「記録を消しに来た」


「はい」


 私は集めた証言の紙をまとめ、胸元へ抱えた。


「なら、先に現場へ行きましょう」


「危険だ」


「また同じことを言うのですね」


「今回は本当に危険だ」


「だからこそ、証人が必要です」


 集会所にいた人々の顔を見回した。先ほどまで怯えていた農夫が、ゆっくりと立ち上がった。


「俺も行く。昨夜の水を止められたら、また畑が枯れる」


 赤い頭巾の少女の母親も、震える声で続けた。


「私も行きます。娘が覚えていることを、誰かに消されたくありません」


 一人、また一人と人が立ち上がった。


 ノアは何も言わなかった。ただ、古い地図を巻き、私へ差し出した。


「北の監視所までの道は、俺が案内する」


「ありがとうございます」


「礼は言わなくていい」


「まだ何も言っていません」


「顔に書いてある」


 私は思わず笑った。


 外へ出ると、遠くの山際から黒い煙が上がっていた。


 雨のない空に、煙だけがまっすぐ昇っている。誰かが過去を燃やそうとしている。


 けれど、昨夜の水音を聞いた者は、もう私一人ではない。


 消された水路を、消された記録を、私たちは声にして残す。


 そのために、私は燃える監視所へ向かった。

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