音の違う雨
その夜、管理所の記録室には、油皿の小さな炎だけが揺れていた。
窓の外では、風が乾いた枝を鳴らしている。雨は降っていない。それなのに、私は壁の向こうから、細い水音を聞いていた。地下配水庫へ続く水路の音だ。昼間より流れが強い。
ノアは机の上に古びた鍵を置き、棚の前に立っていた。
「この中に、王都式の記録がある」
鍵を差し込む。錠は一度では回らず、ノアは眉を寄せて力を込めた。金属の軋む音が、誰もいない部屋に響いた。
「開けられないのですか」
「鍵が古いだけだ」
「先ほどから三度、向きを変えています」
「見ていたのか」
「見ていれば分かります」
ノアは返事をしなかった。けれど、口元がわずかに動いた。笑ったのかもしれない。彼がそんな表情をするとは思わず、私は目を逸らした。
四度目で鍵が回った。
棚の中には、布で包まれた帳面が六冊と、筒状に巻かれた古い地図が入っていた。紙は黄ばんでいたが、表紙には水利院の紋章が残っている。
「これを、読んでほしい」
ノアは帳面を私の前に置いた。
「あなたは隣で見ていてください」
「必要か?」
「必要です。読めないものを、読めたふりで済ませるつもりはありません」
ノアは椅子に腰を下ろした。机を挟んで向かい合うと、彼の灰色の瞳がいつもより近く見えた。私は帳面を開き、最初の頁から文字を追った。
記録は二十年前のものだった。
山間部の降水量、貯水池の水位、各村への配分。数字の並びは整っている。だが、途中から奇妙な符号が頻繁に現れた。丸で囲まれた数字の横に、細い斜線が引かれている。
「この印は、配水停止を示しています」
「停止?」
「いいえ。正確には、配水先を変更した記録です。表向きの配分から外し、別の水路へ送ったときに使われています」
ノアは頁を覗き込んだ。
「別の水路というのは?」
「王都街道沿いの配水庫でしょう」
次の頁には、配水庫の名前が記されていた。現在の地図から消されているが、当時は正式な施設だったらしい。さらにその下には、施設を管理する商会の名があった。
「ラドニア商会……」
ノアの声が低く沈んだ。
「知っているのですか」
「王都で水運を独占している商会だ。穀物も扱っている」
「水を運んで、穀物を高く売る」
「渇水の時期ほど、値段は上がる」
私は頁をめくった。
古い記録には、配水庫へ送られた水量と、その水を買い取った量が記されていた。雨が少ない年だけではない。雨の多い年にも、村の配水量が意図的に減らされている。
誰かが、雨の量ではなく、利益の量に合わせて水を動かしていた。
「これは制度そのものに組み込まれています」
私は呟いた。
「担当者一人の不正ではありません。配分表に最初から、町へ届かない水が含まれている」
「分かっている」
「いえ、まだ全部は分かっていません」
最後の頁に、別の記号があった。三角形の印が、数年ごとに現れている。印の横には短い文章が添えられていた。
――音を聞く者を置くべからず。
指先が止まった。
「どうした」
「この言葉……」
私は文章を読み上げた。
――水路の流れを耳で判別する者は、記録係に任じてはならない。音の差異は、配水表に不都合な事実を示すため。
喉が乾いた。
私の力は、子どもの頃から何度も気味悪がられてきた。雨が降る前に空を見上げ、誰にも聞こえない音を語る娘。父はそれを隠し、母は迷信だと叱った。婚約者は、社交の場で私の耳を笑い話にした。
けれど、笑われるためだけの力ではなかった。
誰かが、都合の悪い水の流れを見つけられないように、同じ力を持つ者を遠ざけてきたのだ。
「リゼット」
ノアが私の名を呼んだ。
その声に、私は顔を上げた。
「今、初めて名前を呼びましたね」
「そうだったか」
「ええ」
「……すまない」
「謝ることではありません。ただ、驚いただけです」
ノアは帳面へ視線を戻した。
「おまえの力は、記録を壊すためにあるのではない」
「それを決めるのは、あなたではありません」
「そうだな」
彼はすぐに認めた。その素直さが、かえって私を戸惑わせた。
私は地図を広げた。古い地図には、現在の水路に加えて、消された支線が描かれている。地下配水庫からさらに北へ伸びる線。その先には、山の向こうにある採掘場の印があった。
「商会は水を王都へ運んでいるのではありません」
「採掘場か」
「ここに水を送るため、町の配水を止めていた」
ノアは地図の線を指でなぞった。
「鉱山では大量の水が要る。洗鉱に使う」
「そして、その鉱山もラドニア商会の所有でしょう」
沈黙が落ちた。
そのとき、外で何かが倒れる音がした。
ノアが立ち上がり、ランタンを消す。私は帳面を閉じ、布に包んだ。窓の隙間から外を見ると、管理所の裏手に人影が二つあった。ひとりが観測杭の方へ歩き、もうひとりが記録室の扉へ近づいてくる。
鍵が回った。
ノアは私の腕を引き、棚の陰へ押し込んだ。扉が開き、作業監督が入ってくる。手には油紙の包みがあった。
「帳面が動かされている」
男が低く言う。
「新しい記録係を甘く見ない方がいい」
「なら、今夜のうちに追い出すか」
私は息を殺した。
ノアの肩が、私の肩に触れている。逃げ道は背後の小窓だけだった。だが、そこから出れば、裏手の人影に見つかる。
作業監督が棚へ近づいた。
その瞬間、遠くで雨が鳴った。
空からではない。地下からだった。
水が一気にせり上がり、古い管を震わせている。私はその音の違いを聞き分けた。誰かが配水門を開けたのだ。しかも、町へ向かう主水路の門を。
次いで、外から叫び声が上がった。
「水が来たぞ!」
男たちが動揺する。作業監督が扉へ振り返った隙に、ノアが私の手を取った。二人で小窓を開け、夜の裏庭へ滑り出る。
地面には、乾いていたはずの溝を水が走っていた。月明かりの下で、細い流れが町へ向かっている。
「あなたが開けたのですか」
「俺ではない」
ノアは地下水路の方を見た。
「誰かが、向こうから門を操作した」
「味方がいる?」
「分からない」
水は暗闇の中へ走り、遠くで町の人々の歓声が重なった。
私は濡れた帳面を胸に抱いた。
「明日、町の集会所へ行きます」
「何をする」
「水が来た事実を、皆に記録してもらいます」
「証人を集めるのか」
「はい。帳面だけでは、また隠されます。けれど、空の桶を抱えていた人々が、今夜どれだけ水を受け取ったかを書けば、誰にも消せない記録になります」
ノアはしばらく私を見つめていた。
「危険だ」
「承知しています」
「それでも行くのか」
「あなたは、私に協力してほしいと言いました」
「ああ」
「なら、今度はあなたが私に協力してください」
ノアは水路へ目を向けた。やがて、静かに頷いた。
「分かった。俺の知っている水門を、全部案内する」
夜の町へ向かう道で、私は初めて彼と並んで歩いた。
背後では、誰かが消そうとした水が、音を立てて流れている。
その音は、もう私だけに聞こえるものではなかった。




