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雨音を数える令嬢は、辺境技師と明日の水路をひらく  作者: 銀細工ナギ


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3/20

音の違う雨


 その夜、管理所の記録室には、油皿の小さな炎だけが揺れていた。


 窓の外では、風が乾いた枝を鳴らしている。雨は降っていない。それなのに、私は壁の向こうから、細い水音を聞いていた。地下配水庫へ続く水路の音だ。昼間より流れが強い。


 ノアは机の上に古びた鍵を置き、棚の前に立っていた。


「この中に、王都式の記録がある」


 鍵を差し込む。錠は一度では回らず、ノアは眉を寄せて力を込めた。金属の軋む音が、誰もいない部屋に響いた。


「開けられないのですか」


「鍵が古いだけだ」


「先ほどから三度、向きを変えています」


「見ていたのか」


「見ていれば分かります」


 ノアは返事をしなかった。けれど、口元がわずかに動いた。笑ったのかもしれない。彼がそんな表情をするとは思わず、私は目を逸らした。


 四度目で鍵が回った。


 棚の中には、布で包まれた帳面が六冊と、筒状に巻かれた古い地図が入っていた。紙は黄ばんでいたが、表紙には水利院の紋章が残っている。


「これを、読んでほしい」


 ノアは帳面を私の前に置いた。


「あなたは隣で見ていてください」


「必要か?」


「必要です。読めないものを、読めたふりで済ませるつもりはありません」


 ノアは椅子に腰を下ろした。机を挟んで向かい合うと、彼の灰色の瞳がいつもより近く見えた。私は帳面を開き、最初の頁から文字を追った。


 記録は二十年前のものだった。


 山間部の降水量、貯水池の水位、各村への配分。数字の並びは整っている。だが、途中から奇妙な符号が頻繁に現れた。丸で囲まれた数字の横に、細い斜線が引かれている。


「この印は、配水停止を示しています」


「停止?」


「いいえ。正確には、配水先を変更した記録です。表向きの配分から外し、別の水路へ送ったときに使われています」


 ノアは頁を覗き込んだ。


「別の水路というのは?」


「王都街道沿いの配水庫でしょう」


 次の頁には、配水庫の名前が記されていた。現在の地図から消されているが、当時は正式な施設だったらしい。さらにその下には、施設を管理する商会の名があった。


「ラドニア商会……」


 ノアの声が低く沈んだ。


「知っているのですか」


「王都で水運を独占している商会だ。穀物も扱っている」


「水を運んで、穀物を高く売る」


「渇水の時期ほど、値段は上がる」


 私は頁をめくった。


 古い記録には、配水庫へ送られた水量と、その水を買い取った量が記されていた。雨が少ない年だけではない。雨の多い年にも、村の配水量が意図的に減らされている。


 誰かが、雨の量ではなく、利益の量に合わせて水を動かしていた。


「これは制度そのものに組み込まれています」


 私は呟いた。


「担当者一人の不正ではありません。配分表に最初から、町へ届かない水が含まれている」


「分かっている」


「いえ、まだ全部は分かっていません」


 最後の頁に、別の記号があった。三角形の印が、数年ごとに現れている。印の横には短い文章が添えられていた。


 ――音を聞く者を置くべからず。


 指先が止まった。


「どうした」


「この言葉……」


 私は文章を読み上げた。


 ――水路の流れを耳で判別する者は、記録係に任じてはならない。音の差異は、配水表に不都合な事実を示すため。


 喉が乾いた。


 私の力は、子どもの頃から何度も気味悪がられてきた。雨が降る前に空を見上げ、誰にも聞こえない音を語る娘。父はそれを隠し、母は迷信だと叱った。婚約者は、社交の場で私の耳を笑い話にした。


 けれど、笑われるためだけの力ではなかった。


 誰かが、都合の悪い水の流れを見つけられないように、同じ力を持つ者を遠ざけてきたのだ。


「リゼット」


 ノアが私の名を呼んだ。


 その声に、私は顔を上げた。


「今、初めて名前を呼びましたね」


「そうだったか」


「ええ」


「……すまない」


「謝ることではありません。ただ、驚いただけです」


 ノアは帳面へ視線を戻した。


「おまえの力は、記録を壊すためにあるのではない」


「それを決めるのは、あなたではありません」


「そうだな」


 彼はすぐに認めた。その素直さが、かえって私を戸惑わせた。


 私は地図を広げた。古い地図には、現在の水路に加えて、消された支線が描かれている。地下配水庫からさらに北へ伸びる線。その先には、山の向こうにある採掘場の印があった。


「商会は水を王都へ運んでいるのではありません」


「採掘場か」


「ここに水を送るため、町の配水を止めていた」


 ノアは地図の線を指でなぞった。


「鉱山では大量の水が要る。洗鉱に使う」


「そして、その鉱山もラドニア商会の所有でしょう」


 沈黙が落ちた。


 そのとき、外で何かが倒れる音がした。


 ノアが立ち上がり、ランタンを消す。私は帳面を閉じ、布に包んだ。窓の隙間から外を見ると、管理所の裏手に人影が二つあった。ひとりが観測杭の方へ歩き、もうひとりが記録室の扉へ近づいてくる。


 鍵が回った。


 ノアは私の腕を引き、棚の陰へ押し込んだ。扉が開き、作業監督が入ってくる。手には油紙の包みがあった。


「帳面が動かされている」


 男が低く言う。


「新しい記録係を甘く見ない方がいい」


「なら、今夜のうちに追い出すか」


 私は息を殺した。


 ノアの肩が、私の肩に触れている。逃げ道は背後の小窓だけだった。だが、そこから出れば、裏手の人影に見つかる。


 作業監督が棚へ近づいた。


 その瞬間、遠くで雨が鳴った。


 空からではない。地下からだった。


 水が一気にせり上がり、古い管を震わせている。私はその音の違いを聞き分けた。誰かが配水門を開けたのだ。しかも、町へ向かう主水路の門を。


 次いで、外から叫び声が上がった。


「水が来たぞ!」


 男たちが動揺する。作業監督が扉へ振り返った隙に、ノアが私の手を取った。二人で小窓を開け、夜の裏庭へ滑り出る。


 地面には、乾いていたはずの溝を水が走っていた。月明かりの下で、細い流れが町へ向かっている。


「あなたが開けたのですか」


「俺ではない」


 ノアは地下水路の方を見た。


「誰かが、向こうから門を操作した」


「味方がいる?」


「分からない」


 水は暗闇の中へ走り、遠くで町の人々の歓声が重なった。


 私は濡れた帳面を胸に抱いた。


「明日、町の集会所へ行きます」


「何をする」


「水が来た事実を、皆に記録してもらいます」


「証人を集めるのか」


「はい。帳面だけでは、また隠されます。けれど、空の桶を抱えていた人々が、今夜どれだけ水を受け取ったかを書けば、誰にも消せない記録になります」


 ノアはしばらく私を見つめていた。


「危険だ」


「承知しています」


「それでも行くのか」


「あなたは、私に協力してほしいと言いました」


「ああ」


「なら、今度はあなたが私に協力してください」


 ノアは水路へ目を向けた。やがて、静かに頷いた。


「分かった。俺の知っている水門を、全部案内する」


 夜の町へ向かう道で、私は初めて彼と並んで歩いた。


 背後では、誰かが消そうとした水が、音を立てて流れている。


 その音は、もう私だけに聞こえるものではなかった。

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