届かない水路の地図
翌朝、雨は止んでいた。
それでも、管理所の裏手にある雨桶には、昨夜の分として三十七目盛りの水が溜まっていた。畑へ流れた形跡はない。水路の底にも、泥を洗った跡だけが残っている。
私は桶の縁に指を添えた。
聞こえない。
雨が止んだ後の水は、普通なら土の中へ沈む音をわずかに返す。けれど、この桶の水には、底から細い震えが続いていた。まるで、まだどこかへ流れようとしているようだった。
「記録は終わったか」
背後からノアの声がした。
「はい。昨夜の降雨量は三十七。ですが、雨桶に入った量と、上流の観測杭が示した量が合いません」
「観測杭は壊れている」
「壊れているなら、いつからですか」
ノアは答えなかった。
私は帳面を閉じ、管理所の裏へ回った。観測杭は、崖を下った水路脇に立っていた。目盛りの刻まれた木柱が、泥の中に半ば埋まっている。表面には新しい傷があった。誰かが刃物で削り、目盛りを二つ分だけ下へ移している。
私はしゃがみ込み、傷口に触れた。
「これは壊れたのではありません。削られています」
「触るな」
ノアの手が、私の手首をつかんだ。
強い力ではなかった。けれど、手を放す気配もなかった。
「記録係が勝手に調べる場所ではない」
「では、誰の仕事ですか」
「俺の仕事だ」
「昨夜、畑へ水が来なかったことも、あなたの仕事ですか」
灰色の瞳が細くなった。
ノアは私の手首を放し、観測杭を見下ろした。朝の風が、乾きかけた草を揺らしている。音のない風の中で、彼の沈黙だけが重かった。
「水は、下流へ回されただけだ」
「どこへ?」
「知ってどうする」
「記録します」
「書けば水が戻るのか」
「書かなければ、戻らないことすら証明できません」
しばらくして、ノアは水路の上流へ歩き出した。
「来い」
それが初めての指示らしい指示だった。
水路は崖の奥へ入り、管理所からは見えない場所で三つに分かれていた。ひとつは町の畑へ、ひとつは古い貯水池へ、残るひとつは地図に記されていない細い溝へ続いている。
私は濡れた石の上に立ち、目を閉じた。
水の音は、どれも同じではない。
町へ向かう流れは、空洞を叩くように軽い。貯水池へ向かう流れは、深い底から返る低い響きがある。そして、地図にない溝から聞こえる水は、布を裂くように細く、遠くへ伸びていた。
「この先です」
私は崖の壁を指した。
「溝はない」
「あります。石の下です」
ノアが足元の苔を払うと、平らな石の縁が現れた。二人で石を動かすと、下から冷たい風が吹き上がった。水は暗い穴の中を流れている。
ノアは小さなランタンを灯し、穴へ身を乗り出した。私はその腕をつかんだ。
「危険です」
「なら、ここで待っていろ」
「嫌です」
「なぜ」
「あなたが戻らなければ、記録する人がいなくなるので」
彼は呆れたように私を見た。だが、今度は止めなかった。
地下の溝は、人ひとりがようやく通れる幅だった。壁には古い煉瓦が積まれ、ところどころに王都水利院の紋章が刻まれている。水は町とは反対方向へ流れていた。
やがて、地下道の先に鉄格子が見えた。
格子の向こうには、広い空洞があった。貯水池だ。水面は暗く、満々と湛えられている。町の井戸が枯れ、畑がひび割れているというのに、ここだけは雨を隠していた。
「こんな池が……」
私が呟くと、ノアは格子の錠を調べた。
「古い配水庫だ。王都への街道沿いに、水を運ぶために造られた」
「王都へ?」
「昔は軍用だったらしい。今は使われていないことになっている」
「使われていないのに、水がある」
池の奥から、かすかな音がした。
人の声だ。
私は息を殺した。鉄格子の向こう、反対側の通路から複数の足音が近づいてくる。ノアがランタンの火を消し、私の肩を引いて壁際へ寄せた。
男たちが現れた。ひとりは管理所の門で私を迎えた作業監督だった。もうひとりは、王都水利院の外套を着ている。
「今月分は、予定通り夜明け前に積み出せ」
「町の連中が騒いでいます。雨が降ったのに水が来ないと」
「記録は管理所で改める。観測杭の数字を下げておけば、渇水のせいにできる」
「ですが、新しい記録係が妙なことを」
「貴族崩れの娘など、帳面を書かせておけばいい。どうせ過去の記録は読めまい」
胸の奥が冷たくなった。
隣で、ノアの指がわずかに動いた。怒りなのか、驚きなのか、私には分からない。
男たちは池の脇に積まれた木箱を確認し、来た道を戻っていった。
足音が消えてから、ノアが低く言った。
「聞いたことは忘れろ」
「忘れられません」
「ここはおまえが戦う場所じゃない」
「では、あなたは何をしているのですか」
ノアは錠前から手を離した。
「何もしていない」
その言葉は、地下水路より深く沈んだ。
「知っていたのですね」
「配水庫の存在だけだ。誰が使っているかは、今聞いた」
「それでも、過去の記録を読ませなかった」
ノアは黙った。
私は彼の顔を見た。無口で、冷たく、人を遠ざける男。その沈黙は秘密を守るためなのか、秘密に押し潰されているのか、まだ分からない。
「私に読めないと思った理由は何ですか」
「……古い記録には、王都式の略号が多い」
「読めます」
「そうか」
「あなたは?」
ノアの視線が、地下道の暗闇へ逃げた。
「俺は、数字を読むのが苦手だ」
意外な答えだった。
「技師なのに?」
「図面と水圧なら読める。過去の帳簿は……読めない」
彼は初めて、自分の弱さを口にした。
私は手帳を開き、聞き取った内容を書き留めた。池の位置、流れの方向、男たちの言葉。ノアは黙ってそれを見ていた。
「一人では、記録を証拠にできません」
「分かっている」
「なら、協力してください」
「おまえは、俺を信用するのか」
「まだしていません」
正直に言うと、ノアはほんの少しだけ目を細めた。
「だが、あなたが水路を知っていることは信用します」
地上へ戻ると、町の鐘が鳴った。井戸の前では、空の桶を抱えた人々がまた列を作っている。
私は帳面の新しい頁を開いた。
その日の記録欄には、こう書いた。
――降雨量三十七。町への配水、ゼロ。地下配水庫に貯水あり。水は王都方面へ流出。
ノアはその文字を長く見つめた後、机の引き出しから古い鍵を取り出した。
「今夜、記録室へ来い」
「鍵のかかった棚を?」
「ああ。おまえが読めるなら、俺にも読めるようにしてくれ」
彼の声は相変わらず低かった。
けれど、その沈黙の形が、ほんの少しだけ変わっていた。




