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雨音を数える令嬢は、辺境技師と明日の水路をひらく  作者: 銀細工ナギ


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2/20

届かない水路の地図

 翌朝、雨は止んでいた。


 それでも、管理所の裏手にある雨桶には、昨夜の分として三十七目盛りの水が溜まっていた。畑へ流れた形跡はない。水路の底にも、泥を洗った跡だけが残っている。


 私は桶の縁に指を添えた。


 聞こえない。


 雨が止んだ後の水は、普通なら土の中へ沈む音をわずかに返す。けれど、この桶の水には、底から細い震えが続いていた。まるで、まだどこかへ流れようとしているようだった。


「記録は終わったか」


 背後からノアの声がした。


「はい。昨夜の降雨量は三十七。ですが、雨桶に入った量と、上流の観測杭が示した量が合いません」


「観測杭は壊れている」


「壊れているなら、いつからですか」


 ノアは答えなかった。


 私は帳面を閉じ、管理所の裏へ回った。観測杭は、崖を下った水路脇に立っていた。目盛りの刻まれた木柱が、泥の中に半ば埋まっている。表面には新しい傷があった。誰かが刃物で削り、目盛りを二つ分だけ下へ移している。


 私はしゃがみ込み、傷口に触れた。


「これは壊れたのではありません。削られています」


「触るな」


 ノアの手が、私の手首をつかんだ。


 強い力ではなかった。けれど、手を放す気配もなかった。


「記録係が勝手に調べる場所ではない」


「では、誰の仕事ですか」


「俺の仕事だ」


「昨夜、畑へ水が来なかったことも、あなたの仕事ですか」


 灰色の瞳が細くなった。


 ノアは私の手首を放し、観測杭を見下ろした。朝の風が、乾きかけた草を揺らしている。音のない風の中で、彼の沈黙だけが重かった。


「水は、下流へ回されただけだ」


「どこへ?」


「知ってどうする」


「記録します」


「書けば水が戻るのか」


「書かなければ、戻らないことすら証明できません」


 しばらくして、ノアは水路の上流へ歩き出した。


「来い」


 それが初めての指示らしい指示だった。


 水路は崖の奥へ入り、管理所からは見えない場所で三つに分かれていた。ひとつは町の畑へ、ひとつは古い貯水池へ、残るひとつは地図に記されていない細い溝へ続いている。


 私は濡れた石の上に立ち、目を閉じた。


 水の音は、どれも同じではない。


 町へ向かう流れは、空洞を叩くように軽い。貯水池へ向かう流れは、深い底から返る低い響きがある。そして、地図にない溝から聞こえる水は、布を裂くように細く、遠くへ伸びていた。


「この先です」


 私は崖の壁を指した。


「溝はない」


「あります。石の下です」


 ノアが足元の苔を払うと、平らな石の縁が現れた。二人で石を動かすと、下から冷たい風が吹き上がった。水は暗い穴の中を流れている。


 ノアは小さなランタンを灯し、穴へ身を乗り出した。私はその腕をつかんだ。


「危険です」


「なら、ここで待っていろ」


「嫌です」


「なぜ」


「あなたが戻らなければ、記録する人がいなくなるので」


 彼は呆れたように私を見た。だが、今度は止めなかった。


 地下の溝は、人ひとりがようやく通れる幅だった。壁には古い煉瓦が積まれ、ところどころに王都水利院の紋章が刻まれている。水は町とは反対方向へ流れていた。


 やがて、地下道の先に鉄格子が見えた。


 格子の向こうには、広い空洞があった。貯水池だ。水面は暗く、満々と湛えられている。町の井戸が枯れ、畑がひび割れているというのに、ここだけは雨を隠していた。


「こんな池が……」


 私が呟くと、ノアは格子の錠を調べた。


「古い配水庫だ。王都への街道沿いに、水を運ぶために造られた」


「王都へ?」


「昔は軍用だったらしい。今は使われていないことになっている」


「使われていないのに、水がある」


 池の奥から、かすかな音がした。


 人の声だ。


 私は息を殺した。鉄格子の向こう、反対側の通路から複数の足音が近づいてくる。ノアがランタンの火を消し、私の肩を引いて壁際へ寄せた。


 男たちが現れた。ひとりは管理所の門で私を迎えた作業監督だった。もうひとりは、王都水利院の外套を着ている。


「今月分は、予定通り夜明け前に積み出せ」


「町の連中が騒いでいます。雨が降ったのに水が来ないと」


「記録は管理所で改める。観測杭の数字を下げておけば、渇水のせいにできる」


「ですが、新しい記録係が妙なことを」


「貴族崩れの娘など、帳面を書かせておけばいい。どうせ過去の記録は読めまい」


 胸の奥が冷たくなった。


 隣で、ノアの指がわずかに動いた。怒りなのか、驚きなのか、私には分からない。


 男たちは池の脇に積まれた木箱を確認し、来た道を戻っていった。


 足音が消えてから、ノアが低く言った。


「聞いたことは忘れろ」


「忘れられません」


「ここはおまえが戦う場所じゃない」


「では、あなたは何をしているのですか」


 ノアは錠前から手を離した。


「何もしていない」


 その言葉は、地下水路より深く沈んだ。


「知っていたのですね」


「配水庫の存在だけだ。誰が使っているかは、今聞いた」


「それでも、過去の記録を読ませなかった」


 ノアは黙った。


 私は彼の顔を見た。無口で、冷たく、人を遠ざける男。その沈黙は秘密を守るためなのか、秘密に押し潰されているのか、まだ分からない。


「私に読めないと思った理由は何ですか」


「……古い記録には、王都式の略号が多い」


「読めます」


「そうか」


「あなたは?」


 ノアの視線が、地下道の暗闇へ逃げた。


「俺は、数字を読むのが苦手だ」


 意外な答えだった。


「技師なのに?」


「図面と水圧なら読める。過去の帳簿は……読めない」


 彼は初めて、自分の弱さを口にした。


 私は手帳を開き、聞き取った内容を書き留めた。池の位置、流れの方向、男たちの言葉。ノアは黙ってそれを見ていた。


「一人では、記録を証拠にできません」


「分かっている」


「なら、協力してください」


「おまえは、俺を信用するのか」


「まだしていません」


 正直に言うと、ノアはほんの少しだけ目を細めた。


「だが、あなたが水路を知っていることは信用します」


 地上へ戻ると、町の鐘が鳴った。井戸の前では、空の桶を抱えた人々がまた列を作っている。


 私は帳面の新しい頁を開いた。


 その日の記録欄には、こう書いた。


 ――降雨量三十七。町への配水、ゼロ。地下配水庫に貯水あり。水は王都方面へ流出。


 ノアはその文字を長く見つめた後、机の引き出しから古い鍵を取り出した。


「今夜、記録室へ来い」


「鍵のかかった棚を?」


「ああ。おまえが読めるなら、俺にも読めるようにしてくれ」


 彼の声は相変わらず低かった。


 けれど、その沈黙の形が、ほんの少しだけ変わっていた。

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